もうわすれてしまったけれど
彼女の告白に、僕らはみな言葉を失った。
「神の……寵愛」
聞き間違いではない。
それは病の名。
僕に——僕ら家族にとっては忌まわしい、あの——。
「今は、そう呼ばれているね。でもかつては、まったく逆の名前で呼ばれていた。『悪魔の楔』……魔導器官の成長不全による重篤な魔力酔い。幼い生命を蝕み、死に至る病だ」
妖精王、四季さんの声は重かった。
「あの病は、今の時代、随分と珍しいものになっているそうね。罹る子は滅多にいないとか。でも、わたしたちがヒトだった頃は、たくさんの子たちが『悪魔の楔』を打ち込まれて死んでいたわ」
妖精女王、色さんもまた、長い睫を伏せる。
「それでも、五人の子供たちすべてが同時に、なんてことはやっぱり珍しかった気がするわ。……もう、よくは覚えていないのだけど」
「……覚えて、ない?」
「ええ。わたしたち、現世での記憶はだいぶ朧げなの。ぼんやりしていて、しかも虫食いみたいにところどころが欠けているわ。ヒトだった頃の名前なんてもうちっとも思い出せない」
色さんの顔には悲しみではなく、諦観が強かった。
「まあ、ぼくらの記憶がそうなのも『悪魔の楔』が今では珍しい病になったのにも、すべて理由がある。……子供たちの病を治すため、ぼくらは魔術を使った」
「……制約」
母さんがつぶやく。重々しく、同時に驚嘆を込めて。
「古い文献に垣間見える、神代の魔導——世界の理に干渉するような御業が、かつて存在したというわ。今は禁じられた……いえ、失われた大魔術」
「よく知っているね」
「むかし……必要になって調べたの。結局、その尻尾すら指先に掠めることができなかったけれど」
四季さんが感心するのへ自嘲気味に返す母さん。
ああ——その知識を求めたのはきっと、かつての僕のためだったんだ。
「かろうじてわかったのは、大魔術を行使するには世界との契約が必要だということ。契約とはつまり、制約。術式の構築に厳しい条件、あるいは代償を課すこと」
「うん、まさにだ」
四季さんと色さんは、揃って笑む。
そしてどこか誇らしげに、どこか虚ろに、言った。
「ぼくらは子供たちの病を治すべく大魔術を行使し……病は治ったが、その代償としてぼくら家族は作り替えられた。世界に働く認識の辻褄合わせ——『修正』、その隙間に落ちた存在になったんだ」
「そん、な……」
子供たちの病を治す代わりに。
『神の寵愛』から逃れるために。
彼らは、妖精になった——家族、みんなで。
誰もが絶句していた。
僕も、カレンも、母さんも。
なにより母さんは、俯き気味に唇を噛んでいた。
想像したのだ。
もし、十三年前。僕の病がどうにもならないままだったら。
もし、目の前に四季さんたちと同じ手段があったら。
果たして自分たちは、同じことをしただろうか——と。
「世界が行う『修正』の隙間。そう言ったわね」
母さんが思考を振り払うように口を開く。
「理解したわ。妖精が人に見えないのは『修正』のせい。つまり神代の大魔術とは『修正』—— 世界の辻褄合わせ、それそのものに干渉して、世界の法則を書き換えてしまう行為。ただし術者もまた、書き換えた法則に巻き込まれて歪められる」
「その通り」
「世界から失われて当然だわ、そんな魔術。多用していたら星が終わってしまう。いえ……たぶん大魔術の仕組みそのものが『修正』されたのね」
たとえるなら、ゲームのバグ技みたいなものなのだろう。
不具合を利用したアイテムの増殖とか、そういう類のやつだ。
だがバグを利用すれば、同時にセーブデータもバグに巻き込んでしまう。下手をすればデータこと壊れるだろう。それを防ぐために修正パッチが当たった——そんな感じか。
「もしかして、その際に『神の寵愛』を受ける条件も変わったのかしら? いえ、病の名前が『悪魔の楔』から『神の寵愛』となったのも……」
「ヴィオレ殿、慧眼だ。ぼくらが妖精になった時、『悪魔の楔』は変質した。『神の寵愛』と呼ばれる程度には罹患者の少ない、珍しい病気になった。もちろん、きみたちヒトには知る由もないことだが」
母さんの考察とその答え合わせを聞きながら、僕は頭の整理がつかない。
この人たち——この妖精たちのしたことは、あまりにも大それていて途方もなく、善悪さえも定かでない。
家族を思っての行為だ。責める気持ちにはなれない。
ただ一方で、そこまでやったのか、という驚愕もある。
彼らの大魔術で人類が不幸になった訳ではないし、死者も出ていないのかもしれないけれど。それでもやっぱり、世界そのものを変えてしまうことの不遜さに、僕はどうしても身が竦んでしまう。
ただ、なによりも恐ろしいのは。
僕はもし、同じ立場だったら——やるだろうな、と思うんだ。
家族の命を救うためなら、迷いなく。
母さんも、カレンも、父さんも——きっと、やる。
そんなことを考えていると、
「ひとつ、教えて欲しい」
カレンがふたりを見詰めながら口を開いた。
「私たちエルフの祖は妖精だ、って伝えられてきた。それは本当? 今までの話だと、この世界に『妖精』は、あなたたちしかいないように聞こえたけど……」
僕もはっとする。
今までの話から想像するに、この世界における『妖精』という概念はおそらく、二千年前に四季さんたちが『変わる』時、世界に刻んだ残滓なんだと思う。
魔術の代償として変貌し、世界の隙間に落っこちる際——『修正』がいかなる作用を起こしたのか、人々の深層心理に『妖精』の存在が刻み付けられたのではないか。人々に恩恵を与える善きものとして、羽の生えた小さな子らの姿が、祝福のひとつの形として。
でも、だとしたら。
エルフの伝承は、どんな意味を持つんだろう。
「ええ、この世に『妖精』は、わたしたちしかいないわ。そして、あなたたちエルフが妖精の末裔だというのも、たぶん間違いではない。エルフだけじゃないわ。わんちゃんやお嬢さん……妖精犬や血妖花も、わたしたちに近いものよ」
「ショコラと、ミントも?」
「わふっ?」
じゃれるのにも飽きて僕の足元で横になっていたショコラが、名を呼ばれて不思議そうにこっちを見上げる。その顎下を撫で、ミントがすやすやしているのを一瞥し、僕は色さんを見る。
色さんの視線はカレンとショコラ、ミントにあって、愛おしげに揺らめいていた。
彼女は、言う。
少し笑って、少しだけ泣きそうな顔で——。
「直感で、なんとなくわかるの。あなたたちは、かつてのわたしたちの身内……血を引いてるんだと思うわ」
「それ、って……」
四季さんが、彼女の肩を抱きながら話を引き継ぐ。
「きみたちエルフは、ぼくらの血族を祖先に持っていると思う。クー・シーなんかは、一緒に暮らしていたペットが野生化したものなんじゃないかな? アルラウネについては植物だから推測だけど……ぼくはかつて研究者のようなことをしていた記憶がぼんやりあるから、そもそもアルラウネという種を、ぼくが創造したのかもしれないね」
なんてことのないような口調。
それとは裏腹、僕らは唇を引き結ぶ。
なにも言えなかった。
なにを言えばいいのか、わからなかった。
四季さんと色さんは、笑っている。
かつてヒトだったものの成れの果て——十一、二歳そこそこの子供の姿をした、永遠を生きる妖精たる彼らは、なにもかもを達観したように、唇で弧を描く。
「肉親とか、ペットとか、研究していたものとか。わたしたちはたぶん、そういったものを……こうなる時に、現世へ置いていったのかなって。ただ、ごめんね。もう、詳しいことは忘れてしまっているの」
彼らの笑顔とともに、その言葉は僕らの胸を容赦なく刺した。