インタールード - 竜の里:夜半
宴が終わり、月がのぼり、誰も彼もが寝静まっている。
ヴィオレは里の最も高い場所——竜の巣たる洞穴の前で、夜風を肴に杯を傾けていた。
先はやや切り立っており、ちょっとした崖になっている。そこに腰掛けて足をぶらつかせながら、乳酒をちびちびと呑む。
視線を遮るものはなにもなく、眼下には畑や牧草地、そしてラミアたちの集落が臨める。家族たちはあの中のひとつ、客人用に建てられた小屋で休んでいるはずだ。
なので、空。月を見上げる。
ヴィオレにとっては見慣れた星だ。
輪を纏い、ほのかな金色に光る丸い天体。夜毎に少しずつ変わっていく輪っかの位置は、三十日ほどの周期でひと回りする。
かたや、夫にとっては珍しいものだったらしい。
俺の知っている『月』——地球のものとは違う、まるで土星みたいだ、そんなことを言っていた。月について語るきらきらした顔を思い出す。なにがそんなに面白いんだ、ばかみたい、と。出会ったばかりの頃、ヴィオレは内心でそれを嘲っていた。
けれど。
彼と喜怒哀楽をともにできるほどヴィオレの心が変わった頃にはもう、彼はあの月を見慣れてしまっていて。
ふたつの世界の違いを語るその瞳は、夢見がちなものではなくもっと現実を見据えたものになっていて。
それが今でも、少し寂しい。
「月見酒とはさても雅でいらっしゃる。私もご一緒しても?」
思いに耽っていると、背後から声があった。
振り返らず、応える。
「ええ、もちろん。……夜更かしするのは、母親の特権よね」
「それはもう」
ジ・リズの番にして二児の母——ミネ・アは、その巨体とは裏腹の嫋やかな所作で、静かにヴィオレの隣へと腹を降ろす。白銀の鱗が月光に鈍く反射して、絹のように光った。
「あなた、お酒を嗜むの?」
「それなりにはですが、その瓢では量が少なすぎます。今夜は風にいい魔力が乗っていますから、それを浴びて晩酌としましょう」
「なるほど。じゃあ、乾杯」
かちん、と。
ヴィオレは手元の硝子杯を、ミネ・アの頬先に生える鱗と打ち鳴らした。
しばしふたり無言で、月を眺める。
ミネ・アとは顔を合わせたことが数度しかなく、気の知れた間柄とも言えない。だがそれでも、家族において同じ立場であるという事実は、互いが親近感を抱くのに充分だった。
故に流れる空気も穏やかで、ゆったりとしたもの。
「……あなたの、ご子息とご息女ですが」
ミネ・アが、視線を崖下、ラミアたちの集落へ落としながら問うた。
「想いが果たされたようで、喜ばしく思います」
「本人から聞いたの?」
「いえ。竜の直感のようなものです。交わし合う視線にあたたかいものがありました。懐かしくなりましたよ。まるで昔の私と夫を見ているかのようで」
「あなたたちにも甘いひと時があったのね」
「ふふ、今でも熱は冷めていないつもりですよ?」
「それは失礼。でも、そうね。懐かしい、というのは私も同じ。あの子たちは私たちと違って、最初から相思相愛だったけれど」
少なくともカレンは、自分のようにひねくれていた時期がなかった。
生まれてから今に至るまでずっと素直で可愛らしい、自慢の義娘だ。
「カズテルさまのことは、夫から聞いていました。……私も、言葉を交わしてみたかった」
「森で再会するよりも前から?」
「ええ。自分には絶対に敵わん相手がふたりいる、と。『終夜』に『天鈴』の番——死を覚悟したのは後にも先にもあれが初めてだと」
「あら。こっちはけっこう接戦だと思っていたのよ?」
「あれはそうは思っていないようでした。あらゆる攻撃がまったく通じなかったと聞いています。攻める側にとってそれは、相当な脅威でしょう」
「まあ、それは確かに」
ふたりはしばしそのように、会話を弾ませる。
昔と今の時間軸が入り混じった、懐古とも愚痴とも自慢ともつかない、それぞれの夫についての話を——月を眺めながら。
やがてミネ・アは再びその視線を眼下、ヴィオレの家族が寝入る小屋へと戻す。
そしてそれとともに、話題も。
「スイ殿とカレン殿、いずれは婚姻を?」
「まあ、本人同士のことではあるけれど……そうね、きっと」
だからヴィオレは笑う。
「あの子たちは十三年間、ずっと想い合ってきた。それが報われたのは私も嬉しいわ」
「……少し、懸念していました」
一方でミネ・アは、やや声を低くしてわずかに身じろぎした。
その理由はヴィオレにもわかる。
「あのふたりの前には、困難が立ちはだかっています。いいえ、ともすればあなたの前にも」
なにが言いたいのかも——だ。
「エルフ始祖、六氏族がひとつクィーオーユ、その最後の生き残り。あの娘の血筋を考えれば、異種族との婚姻を反対する者は多いでしょう」
エルフ始祖六氏族の話は、この大陸で有名だ。
それこそ、竜族さえも知っているほどに。
「……私とて一尾の母ですから、あなたの気持ちはわかるつもりです。なんとかしてやりたくても、どうにもならないことであるから余計に」
ヴィオレは——。
目を閉じて、残っていた酒を一気に呷り、空になった硝子杯を天に掲げる。
月明かりにかざし、その淡く薄い光が頬を撫でるのに任せながら、言った。
「私のことはいいのよ。まずはあの子たちが幸せであること、それが最優先。それに……きっとふたりには、そんなもの関係ないわ」
強がりではない。
迷いも、悲しみもない。
希望的観測でもない。
ただそれは、確信だった。
「あの子たちは私たちの心配を他所に、幸せであり続ける。なにが起きても、なにが立ちはだかっても。なんなら、不可能をも乗り越えるかもしれない。……ミントをスイくんが治した時みたいに、私には想像もできない方法で」
ヴィオレの表情を見、ミネ・アは目を見開いた。
だがすぐにその視線は、優しく穏やかな色を帯びる。
「母親のあなたがそう言うのなら、きっとそうなのでしょう。要らぬことを言いました、許してください」
「いいのよ、ありがとう」
ヴィオレは再び、瓢から杯に酒を注ぐ。
そして白銀の竜へ向かって掲げ、片目を瞑ってみせた。
「家族に」
「ええ……家族に」
きぃん、と。
再び、硝子と鱗が軽やかな音をたてる。
それは夜風の中、天の鳴らす鈴のように。