すべては黒に至るまでの過程
まず気になったのは、傷の具合だ。
カレンいわく『問題なく自然治癒する』という刀牙虎の怪我は、しかし予想を外して悪化した。これはカレンの見立てが甘かったのか? ——違う。
僕の目からも、あれは軽傷に見えた。出血はあれど浅く、神経や筋肉に損傷があるとも思えなかった。
雑菌が入ったのでもない。確かに傷口そのものには、破傷風をはじめとしてそういうリスクがある。だけど刀牙虎は野生動物で、僕ら人間よりも高い抵抗力を持っているはずだ。
では、傷口の化膿や壊死が雑菌や毒のせいでないとしたら。
そう考えた時、僕の目に映ったのは——魔力の流れだった。
たとえるなら、汚染された清流。
綺麗な川に、有害なものが流れ込んでいる。そのせいで水が濁り、ところどころは澱み、川そのものを蝕んで腐敗させている。
やがて目を凝らしていると、はっきりと理解できてくる。
刀牙虎の魔力が、おかしなことになっていた。
たぶんこいつの生来の属性は、水だ。
魔術を行使できるほど強くはないが、たとえば乾燥に強いとか、抵抗力が高いとか——そういう特徴として、水属性の魔力は身体に作用しているはず。
そこに風と火が混じっている。
しかも乱雑な波長で、少量ながらも根強く、水属性の色を侵して流れを阻害させていた。間違いない。これは飛角兎の、つまり変異種の魔力だ。
あいつらは刀牙虎を傷付ける際、己の魔力を傷口に塗り込んでいた。意識してのことじゃないんだろう。変異した魔力がたまたまそういう性質を持ち、魔術的な毒として作用したんだと思う。
刀牙虎の身体を弱らせているのはつまり外傷ではなく、変異種の魔力残滓。その火と風の属性さえ取り除けば、恢復の望みはある。
僕は、刀牙虎の傷口に手を当てる。
表面からじゃ足りない。魔力の流れが触覚で上手く把握できない。
だったら、
「じっとしてろ、いいか。……お前たちもだ。お母さんにまた元気になって欲しいなら、少し我慢しててくれ」
指先を、膿んだ傷に突っ込んだ。
がううううう! と、刀牙虎が痛みからか苦悶の声をあげる。子猫たちがみいみいと大騒ぎを始める。
「カレン、ショコラ。手伝って」
「……、ん、わかった」
「わうっ!」
カレンもショコラも、僕のやろうとしていることを理解できているわけじゃないだろう。それでも僕を信じて、言葉の意を汲んでくれる。
「だいじょぶ。痛くても我慢して。あなたは母親でしょ」
カレンは母刀牙虎の頭を両手でがっしと掴み、言い聞かせるように目を合わせる。
「ばうっ! ぐるるる……」
ショコラは子猫たちを叱りつけるように威嚇し、その後、一匹ずつぺろぺろと顔を舐めて落ち着かせる。
だから僕は、集中して——潜った。
刀牙虎の体内に突っ込んだ指先の感触から、意識的に血肉だけを除外する。体内を巡る魔力、ただそれだけを感じられるように。
温かく、冷たく、柔らかく、硬く。
揺蕩いながら(本来なら)澱みなく、穏やかながら(本当なら)軽やかなそれを、澱ませて重くする異物。
穏やかな湖面に吹きつける風、荒れ狂う炎。
魔力そのものに干渉することはできない。
ならば、別のものに干渉すればいい。
「咲いたら菫。裂けたら終夜。星天に輝く鈴は座し、未明に伽藍が鳴る」
口の中でつぶやかれる言霊とともに、己の中の魔導を励起させる。
「理重ねて、火、水、風。三つを混ぜて、捏ねては遊べ。闇から始まり、宵へと終わる」
火、水、風。もうある色を消すことはできない。
ただ、塗り潰すことはできる。
属性の引き起こす結果に干渉することはできる——。
火が起きても水で消えるほど弱いものならいい。
風が吹いても波が立たないほど小さければいい。
魔力の持つ色を、黒へと。
起きる結果を限りなく弱くして、水の魔力を邪魔しないくらいに、鎮める。
因果を断線させ、結果を消してしまうのではない。
そうではないと自分の中の直感が告げている。
むしろ、逆だ。
因果の流れを別の場所に接続し直す。
原因からなる結果を矮小化させる。
「……『閉塞は、可惜夜に嗤う』」
因果の創造により、魔力の性質を、ほぼ無害なものへと変える——。
「ふう……」
やがて——。
刀牙虎の身体に巡る魔力が、綺麗な流れを取り戻し始めた。
汚れが、澱みが消え、ゆっくりと健やかになっていく。
「カレン、包帯を持ってきてくれる? 怪我そのものが治ったわけじゃない。膿んで壊死してるから、治療はしてやらないと」
「……、ん。わかった」
怪我をする家族が誰もいないからすっかり薬箱の肥やしになっていた包帯を刀牙虎の傷口に巻きながら、僕は語りかける。
「しばらくは軒先を貸してやるよ。元気になるまで経過を見ないと。……悪かったな、お前を実験台に使う形になっちゃった」
言葉を理解している訳もないだろう。
けれど相手は、ぐるる、と喉を鳴らし、手当をされるがままに項垂れた。
「お前たちも。もう大丈夫だ、お母さんは元気になるからな」
すっかり落ち着いた子猫たちは、ショコラとじゃれ合っていた。こっちの言葉なんてまるで聞いちゃいない。……まあ、いっか。
「ね、スイ。今のって……」
「カレン。……僕はずっと、どんな魔術を使えばいいんだろうって考えてた」
刀牙虎の手当を終え、落ち着いたカレンに笑う。
「属性相剋を治すとして、どんな効果を持つ魔術が必要なんだろうって。でも、違う。注目すべきは、そこじゃなかった」
たとえるなら、工具だ。
僕の手元には工具がある。ひと通りのものが揃っている。そして僕は壊れた機械を修理したい。じゃあ、どの工具を使えばいいんだ? それがわからなくて悩んでいた。それがわからないのが問題だと、勘違いしていた。
わかるべきなのは——僕が理解すべきなのはまず、機械の構造だったのだ。
「魔力の仕組みだ。それぞれの属性がどんなふうに色を発しているのか。それぞれの色がどんなふうに属性を発現させるのか」
属性とはつまり、魔力の持つ指向性だ。
奪い、与えるもの——火。
浄化し、潤すもの——水。
運び、活かすもの——風。
腐らせ、育むもの——土。
「魔力は、源流たる無から分たれて、指向性を持つことで色を為す。その色付く過程、因果の流れ……色を濃くしていき、やがて黒に至るまでのイメージ」
そして、
煌めくすべての根幹——光。
潰えるすべての終焉——闇。
「それがわかってなきゃ、ダメだったんだ。それを理解することこそが、重要だったんだ」
機械の構造を把握していれば、どこをどういじれば修理できるのかが導き出せる。
修理の手順を踏んでいけば、そこに見合った工具も自ずと選択できる——。
「スイは、わかったの? 属性相剋の治し方」
「厳密には、まだわからない。刀牙虎の怪我は属性相剋と違うものだったから。でも……母さんがきっと、必要な知識を持ち帰ってくれる。僕はそれを参考に、属性相剋を理解すればいい。僕なりの解釈で、僕の魔術が通じるように」
上空、晴れ間に影が差す。
見上げれば陽光を遮る流麗なシルエット。
大きく広げた翼、まっすぐ伸びる首と尾。
ゆっくりとまっすぐ、庭に降りようとしてくる、竜の影。
「カレン、僕はやるよ。やってみせる」
帰ってきた母さんとジ・リズを前に。
刀牙虎の血で汚れた手をぎゅっと拳にしながら、僕は宣言した。
「訳のわからないまま、ただ必死できみを治した。できるかもしれないと思いながら、手探りでこいつを治した。だから次は……確信でもって、ミントを治す」
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