インタールード - 王都ソルクス城:静寂の間
王の寝所は王宮内に複数ある。
元来は月と室によって使い分けるためのものだが、当世の王シャップスはファウンティアひとりしか王妃を持たず、またいちいち寝る場所を変えるのも無駄な予算がかかるという理由から『静寂の間』ひとつだけを長いこと使い続けていた。
その『静寂の間』にて——夜半。
寝間着姿で寝台に身体を投げ出しくつろぐシャップスを後目に、王妃ファウンティアは通信水晶に浮かび上がる文字列を目で追っていた。
「ノアップが、シデラに着いたそうですよ」
王妃の声に、王は顔だけを向ける。
「そうかそうか。道中、怪我などはなかったか?」
「ないとは思いますが、あっても黙っているでしょうね。……というより、既に冒険者として森に入っているそうです」
「はやいなあ……」
「ヴィオレさまのご子息にもお会いしたようです」
「あいつ、なにか無礼を働いてはおらんだろうな……?」
王の声は不安に満ちていた。
無理もない、と王妃は思う。
『天鈴の魔女』、ヴィオレ=エラ=ミュカレ=ハタノに、自分たちは頭が上がらない。即位する際のいざこざに始まり、即位した後も——腐敗した貴族社会を糺し政を正常化させるため、ヴィオレとカズテルはあれこれと力を尽くしてくれた(力といっても大半は暴力だったが)。
更にはカズテルが失踪して以降、ヴィオレを国内に繋ぎ止めるため、王家は『鹿撃ち』の位まで与えている。機嫌を損ねれば滅ぼされるのはこちらの方であり、滅ぼされたとしても文句は言えない。
とはいえ、ファウンティアはヴィオレのことを、友人だと思っている。
だから友人に怯える謂れはないし、なにより友人を利用するような下衆な生き方もしていない。
夫は小胆なので、それがわかっていてもなお気を遣ってしまうのだろう。
加えては——純粋な親心か。
「そんなに心配ですか、ノアップのことが」
「うむ、まあそれはなあ……」
夫は父親の顔をした。
頼りないながらも子を案じる、ありふれた父の。
「あやつが王宮を出たのも、王家と距離を取っているのも、余らの力が足りぬせいだ。あれは噯にも出さんだろうが……冒険者として《《なにがしか》》をやったなどと聞かされると、やはり考えてしまう。もしなにかが違ったら、あやつは今も、余らの元で恙なくしていたのではないか。なに憂うことなくのんびりと暮らしていたのではないか、とな」
その嘆きに、ファウンティアの胸もずきりとする。
王妃として、それ以上に母として。
放蕩者の第三王子——愛しい息子が敢えてそう呼ばれることを望み、そう振る舞おうとし、実際にそう呼ばれていることで、もたらされた均衡がある。
どうしようもなく腐った部分はハタノ夫妻の協力で切除できたとはいえ、貴族の権力に執着する性はそうそう変わるものではない。目立った輩が根切りになったからこそ、水面下での攻防はより狡猾となった。
シャップスとファウンティアの子ら、三人の王子とひとりの姫。
そのうちの誰が王位を継ぐのか。
誰に王位を継がせるのが、貴族たちにとって都合がいいか——。
彼奴らの後ろ暗い計画は、迂遠にじわじわと、王家を絡め取るべく触手を蠢かせる。
たとえ家族が一枚岩であろうと。王家としての意思が完全に統一されていようとも。雨垂れが岩を穿つように、《《雨垂れならば気付かれずに穿てるだろう》》と。
愛しい末っ子が、背後で囁いてくる有象無象を振り切るためにあの道を選んだことを、家族みなが知っている。
火を混じらせた水属性の魔導が、出来損ないだと謗られた。
出来損ないを産んだ胎だと、王妃を——ファウンティアを貶めるためにだ。
王室典範の隅を突き、出来損ないを王子と数えるわけにはいかぬ、王子の人数が規定に足らぬとこじつける。子を増やせと側室を捩じ込もうとする。
なんとも姑息な手だった。
故に、末っ子は出奔した。
己の魔導は有用だと証明するために。
同時に、王位継承に関わるつもりはないと牽制するために。
『天鈴の魔女』に教えを乞い、『賢者』の称号までを得て。
獣人と婚約することで、血筋は増やさぬと暗に表明し。
そうして冒険者となることで、取り入ろうとする者たちを遠ざける——。
「……もちろん、あの子が望んだ道ではあるんでしょうけれど」
王宮での暮らしに、窮屈だと唇を尖らせる子だった。
書庫に蔵められた英雄譚、冒険譚がなによりも好きな子だった。
宴席で出会った獣人の姫にひと目惚れし、求愛したのもあの子からだった。
だからあの子はきっと笑っていて、人生を謳歌していると《《自分では》》思っていて。
だからこそ、親としては胸が痛むのだ。
あの子の心の奥深くにあるものを——笑顔の裏に隠された傷を、痛みを、想わずにはいられないのだ。
煩悶する夫の横へ、ファウンティアは腰掛けた。
そうして背中を撫でながら、言う。
「いま、私たちが子どもたちのためにできるのは、家族を強固にすることです。王家になにを仕掛けても無駄だと、なにを企んでも通じないと。長男も次男も長女も、それに養子も……みな、私たちと同じように末っ子を愛している。お互いが原因でお互いが不幸になるなど、決してあってはならないのですから」
「……余に、できるだろうか。こんな凡庸で腑抜けな余に」
弱気を吐露する夫の髪に、妻は想いを込めて接吻けた。
「あなたはご自分のことをそう仰いますが……血の一滴も流さずに鹿を撃った王が、この国の歴史において他にいましょうか。そんなことをやってのけたのは、あなた唯ひとりなのです。もっとご自分を誇りなさい」
「それだって、お前に手を握ってもらってだったよ」
「あら、いつ私があなたの手を離しましたか?」
ファウンティアはそう笑い、夫の手を握る。
昔のように——かつてのように。
「それに……」
あの日の、カズテルとヴィオレの姿を思い出す。
鬱屈としたシャップスとファウンティアの人生に、風穴を開けてくれたふたり。
一歩を踏み出すために、背中を蹴飛ばしてくれたふたり——。
まだ見ぬ彼らの息子にも、期待してしまうのは愚かなことだろうか。
ファウンティアは、願う。
「ノアップは、友達になれるかしら。私たちみたいに……王族なんか知るかって、お前はお前だって、言ってもらえるかしら」
もしもそう言ってもらえるならば、叱り飛ばしてくれるならば。
ノアップの抱えた歪みと澱みを。
王家として生まれ、王家として疎まれたが故に、『王家と距離を置いている』ことを意識し続けねば笑っていられない卑屈さを——晴らしてくれるならば。
——仮面をかぶったまま鏡を見るな。
——あんたたち自身が、あんたたちの心を諦めるんじゃない。
かつて彼らに言われたことを思い出しながら、ファウンティアは通信水晶を仕舞った。
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