球体に宿るheaven
「さあ本番だ。ナツいくぞ」
「おうっ」
舞台の中央に据えられたマイクに向かう。
「どうも〜オレンジナッツですぅ」
マイクの前に立つと、パラパラと拍手が貰えた。前回、小さな劇場でネタを披露したときより、拍手が増えた気がする。そう思いたいだけなのかもしれないけど、まあそれでいい。
「なあナツ、オレな。転職しようと思ってんの」
「え、レン兄ちゃん真面目な顔でなに言ってんの? ってかお笑いやめるってこと? オレら結成して1年でもう解散なの?」
「おう!」
「え、マジで言ってんの?」
神妙な顔をしながら沈黙していると、観客席からくすくすと笑い。
「……ってな感じに、弟を恐怖のドン底に陥れる仕事、やっていきたいなと思ってー」
「はあ? なに言ってんのっ」
バシッと頭をはたかれる。オレが兄貴。
「はいっ!! おバカな弟ナツと賢い兄ちゃんのレンで、漫才頑張っていきたいと思いますう」
「しょーもないわあ」
笑いはあまり無いが、ネタは進めていくしかない。手ごたえなくとも、俺らは若手お笑い芸人だから、まだ踏ん張れる、ってか踏ん張らなくちゃならない。
児童養護施設出身。両親のネグレクトや暴力から保護された兄弟。異色な経歴だと思っている。
「俺らは二人で石に齧りついてでも生きていかなきゃならないんだ」
施設を出る時に俺がそう言うと、弟もうんわかったとついてきてくれた。
アパートの家賃を薄給から払うと、そうそう金は残らない。が、最近では他にバイトもしながらだが、節約節約でなんとか食っていけるようになった。
夜、仕事が終わると、狭い1Kの部屋で二人コタツに入る。弟のナツは寝転びながらいつもスマホをぽちぽちしている。ネタを書いているのだ。
俺はナツの足を蹴りながら、コタツで蜜柑を食べる。今日披露した新作のネタを振り返り、客が笑った部分を思い出しながら、何が面白いのか、どうしたらもっと面白くなるのかを考えていた。
「弱いよな……」
「んーー……うん」
「なあ、何箇所かもうちょっと面白いツッコミ入れようぜ」
「僕もそう思ってる。笑いどころが、ね。誰も思いもよらないようなツッコミが必要なんだけど……」
「そうだなあ。もっと何かこう……」
色々とあーでもないこーでもないと考えていると、そのうち眠気がやってきて、二人ともコタツで寝落ちする。それが俺らの日常だった。
眠りに落ちる寸前。
時々、幼い頃の記憶が蘇ってくることがある。
両親はいつも家にはおらず、居ても殴られたり蹴られたりは日常茶飯事だった。食事なんてもちろん満足には与えられず、いつもお腹をすかせていたし、最悪な環境だった。
(学校の給食でおかわりばっかしてたから、お前んちはビンボーだなって、さんざん……笑われたなあ)
惨めだった。悔しさや苦しさ。腹がいつもすいていて、ひもじかった。いつも弟と泣いてばかりいたっけ。
貧乏を笑われた悔しさから、今度は芸で笑わせると息巻いて、お笑い芸人になった。
うとうとと眠気がピークに達する。
(……そういえばあの日も、突然親がいなくなっちまったっけ)
家の風呂場でナツと二人、水鉄砲で遊んでいたら、いつのまにか親がいなくなっていた。驚いて慌てて外に飛び出して、通りがかった自転車を、泣きながら追いかけたっけ……。
弟はあまり覚えていないと言う。かく言う俺も、記憶が蘇ってきそうで蘇らない。それは児童養護施設を出るとき、辛い過去は忘れて、兄弟二人で強く生きるんだと誓ったからなのだろうか。
階段に座るお姉ちゃんと、その後ろには白くてまんまるなお月さん。
(あの時、いやに満月が大きく見えたんだよなあ)
白く光る球体が脳裏に焼きついた。それだけははっきり覚えている。
眠気がふわふわと心地いい。正直なことを言うと、このまま目を覚ますことなく天国なんぞに行ければなあ、と思ったこともある。けれど思い直す。弟を置いてはいけない。
けれどもし、なんの対価も代償もなく天国に行くことができるのなら……。
そのまま眠ってしまった。
結成8年の歳月が経った頃、ようやくお笑いで人並みに稼げるようになった。テレビや動画チャンネルでの露出も次第に増えてきて、バラエティからも声がかかる。その度に俺たちの出自なんかも面白おかしく話したりして、苦労芸人として認知もされた。
「俺ら兄弟、全裸で女の子を追いかけたことがあるんですよ」
その頃になると、気持ちに余裕が出てきたのか、幼い頃の出来事がよく思い出せるようになった。
あるネタを披露したとき、とてもウケた。そのネタの由来を話しているうちに、俺は幼い頃の思い出話を語り始めた。
「その日、俺らが風呂で水遊びしてる間にね、親がどっかに行っちまったんですよ。俺らまだ小さかったもんだからパニックになっちまってね。気がついたら裸のまんま外に飛び出してて。ちょうど通りかかった自転車の子を追い掛けてたってわけです」
「うわあ、これ笑っていいのかなあ……で、その子はどうしたの?」
バラエティー番組のMCが複雑な表情で訊いた。目の前にいるADの持つカンペを見ると、1分は喋っていい、とある。
それならと思って、俺はその後の経緯を、腰を据えて話し始めた。
「ずっと家の前で俺らの親が帰ってくるのを待っててくれたんですよ」
客席がどよっと湧いた。
「えええなんて良い子なの!!」
「ですよね!!」
「ナツさんもそれ、覚えてるの?」
MCが弟にフる。
「ぼんやりですけど覚えてますよーポッキーくれたんっす」
「うわ、これは良い話だなあ」
1分が過ぎ、番組ではここで終了だったが、この話はその後SNSで大いに盛り上がった。そんなつもりはまったくなかったが、『オレンジナッツ』を助けた女の子を探し出せ! という企画じみた扱いにもなった。
俺らと同じ小学校、もしくは中学校。自転車、ボブヘア、そしてボール。
「時々、ドア開けて外のぞいたりしてたんですけど、居るんですよ。夜になっても、ずっとそこに」
階段に座り込んでいるお姉ちゃんの顔を見る。すると、その子はにこっと笑って、こっちを見てくれる。
その度にほっとしたし、安心した。
そりゃ大人がいた方が良いに越したことはないけれど、実際には頼れる大人は誰もいなくって。当時、隣に住んでいる人ですら、会ったことも見たこともなかったから。
SNSで話題になったにも関わらず、その子の所在などは判明しなかったし、名乗り出る人もいなかった。
けれど、この話は美談として、ちょっとした再現VTRにもなって地上波で放映され、感銘を受けた感動したといった感想も貰えた。俺は嬉しかった。
たとえ当人が名乗り出てこなくとも、その時のお礼の気持ちがもしかしたら伝わっているかもしれない?
ありがとう。
あの時、親に捨てられ、不安に押し潰されそうだった自分たち兄弟に優しくしてくれた。
児童養護施設のスタッフが迎えに来るまで、俺は時々、ドアから外の階段を覗いたりしていた。
あのお姉ちゃんが階段に座っていることはもちろんもう無かったけれど、あの日に見た白い満月が見えたりすると、少し嬉しかったし、涙が出た。
いつか直接お礼が言える日が来ることを信じて、俺らオレンジナッツは今日もネタを披露する。