球体に宿る鬼
私が小学校高学年のころ、全裸の子どもに追いかけられたことがあった。それは幼い兄弟だった。
その頃の私は学校の授業が終わってから家へと帰ると、すぐにボールを抱えて学校へと戻っていた。学校のグランドでドッジボールをやるためだ。
「いってきまーす!」
その日も自転車にまたがり、ボールを前カゴに入れた私は、ペダルにぐんと力を入れた。初春の気持ち良い向かい風がボブヘアの髪をさらさらと散らしていく。
アパートの並ぶ小道に入ると、調子に乗ってさらにスピードを上げた。
その時のことだった。
「わあんあああ」
動物かなにかの雄叫びのような声が聞こえた。
「まっでええぇえ」
声に驚いて後ろを振り返る。
ぎょっとしてしまった。
幼い男の子が裸のまま、後ろを追い掛けてくるではないか。しかも二人。
私は慌てて自転車のブレーキをギギギとかけて止まった。
兄弟なのだろうか。どこか似ている。そんな二人の幼い顔が、鼻水と涙でぐしゃぐしゃになっている。
二人は私に追いつくと、泣きながら訴えてきた。
「どうしてぇえ、なんでぇえ、パパ……ひっ、まママもいなあぁいぃぃ」
「いないぃ、いなくなっぢゃっだよぅ」
私は困ってしまって周りを見回した。誰か!と、すがる思いで。けれど、こんな大大大事件なのに、周囲には誰も見当たらない。
仕方がないというかどうしようもないから、話しかけてみた。
「えっと……ど、どうしたの……?」
「おふ、おふろ、ひっ、ぱ、パパとママがいなくなっぢゃっだあ」
最初は何を言っているのかわからなかった。二人は必死になって訴えながら、がばっと私のTシャツに食らいついてくる。
小さな子どもとはいえ服を結構な力で引っ張られ、私は恐怖におののいてしまった。
「ああああのさ、えっとぉ。あ、あんたたちのおうちはどこなの?」
「あそこ」
「あっぢ」
幼い二人は同時に指を指す。茶色の外階段がある、二階建てのアパート。か細い腕と手、小さい背中が激しく上下に揺れた。
「……と、とりあえず寒いし、おうちに戻ろうね」
暖かい日ではあったが、このままだと風邪を引いてしまうだろう。
私は自転車をUターンさせ、二人を促すと、幼い兄弟の家へと向かった。
何歳なのだろう。私だってまだ子どもなのだから、二人がいくつかなんて、まるで検討もつかない。
「パパとママが帰ってくるまで、おうちで待っていようね」
二度三度と同じことを言い聞かせ、すると二人はアパートに着く頃、ようやく泣き止んでくれた。
ほっとした。
自転車を停め、みんなと遊ぶ時に食べようと思って持参したポッキーを、カバンから取り出した。
「これあげるから食べていいよ」
お菓子を受け取ると、「ここにいて」「おねえちゃんいっしょにいて」と、私のTシャツを離さない。国語の授業で習った『天を仰ぎたい気持ち』というのはこういうことを言うのかもしれない。
「んーー……うん、わかったよ」
ただ、あげたポッキーはちゃっかりお兄ちゃんが持っていて、これは離さない。弟はそのポッキーに目線が釘付けだ。気をそらすことができて、少しだけ安心した。
それにしても。
自分は部外者、このまま家に入っていいんだろうか?
いや、それじゃ泥棒になってしまうから入れないよね、としばらく葛藤。
「待って」
隣の部屋のチャイムを押してみた。乾いたチャイム音が響く。留守のようだ。その隣も押してみる。が、重そうな金属製のドアからは誰も出てこない。
まだ小学生だからと言って、スマホは持たされていない。この場も離れられないし、どうしていいかわからなかった。
「とりあえず、おうちに入って服を着て」
促すと後ろを振り返りながら、また涙をこぼす。
「おね、おねえちゃん、かえっちゃうの? パパとママがかえって、かえってくるまで、ひっく、一緒にいて」
「わかってる。じゃあ……」
パパとママが帰ってくるまでここで待ってるね、そう言ってドアのすぐそばの外階段を指した。兄弟の家はアパートの二階。私はドッジボールのボールを抱き、座った。
「こうしてるから」
「……かえらないでね。おねえちゃん、いなくならないでね」
そう言い残して、幼い兄弟はドアの中へと入っていった。
それからが長かった。私は待った。ボールを抱えながら。
学校で遊ぶ約束した友達は、私が来ないから不審に思っているだろうか。それとも、私のことを忘れて、遊びに興じているだろうか。
空を見上げて、学校のグランドを思い浮かべてみる。
夕方に鳴り響くチャイムまでは、道具置き場が解放されていて、サッカー、ドッジボール、竹馬、一輪車なんかが使い放題だ。今ごろはみんな、楽しそうに遊んでいるだろうな。
夕暮れの空にカラスの鳴き声が物悲しく響く。徐々に暗くなってきて、あっという間にオレンジから群青に変化してしまった。そのうちにいつのまにか、やけに白い満月が浮かんでいて。
時折。幼い兄弟がドアを開け、その隙間からそろっと覗いてくる。
私がそこにいるのを確認すると、不安そうだった顔が、ぱあっと明るくなった。その笑顔がなぜか、夜空に放たれた打ち上げ花火のように見えた。
その度に私は無性にボールを抱きしめたくなった。
(あんな小さい子どもを置いてどっかに行っちゃうなんて、ひどい親だな……)
買い物だろうか。それともおじいちゃんおばあちゃんちとかかな。
自分の子どもにごはんを食べさせない親がいること、叩いたり蹴ったりして暴力を振るう親がいることはニュースで知っている。
暴力を振るわれているような様子は見られないけれど、あの涙と鼻水で必死に訴えかけてくる、ぐちゃぐちゃな泣き顔を見たら、それに匹敵するほどの罪なのではないかと思えて仕方がなかった。
少し冷えてきた。冷たくなった手をこすり合せる。
まだ誰も帰っては来ない。隣の部屋もまたその隣の部屋も、灯すらつかない。
(いつまで待ってればいいのかな……)
さすがに親が心配する時間だ。辺りは真っ暗になり、そのうち防犯灯がぱっと灯された。
抱えていたボールが、白く明るい光に照らされる。
幼い兄弟のパパとママとやらが帰ってきたら、このボールを思い切りぶつけてやるという妄想、もう何週目だろうか。ドッジボールは得意だ。早い球を投げることもできる。ドッジボールのルールからいったら、顔面はアウトだが、それでも顔面にぶち当ててやりたかった。神さまも許してくれるに違いない。っていうか、光栄なるぶち当て係に任命して欲しい。
『いつになったらパパとママかえってくるの?』
家の中から二人の幼い兄弟のか細い声が聞こえてきそうで、辛かった。
私が親だったら、決して子どもを放って出かけたりはしないし、一緒に連れていく。そう心に決めた。
私は怒りでとうとう耐えきれなくなり、抱えていたボールめがけて拳をおろした。憎しみを込めて。何度も何度も殴っていた。
結果、両親が帰ったのはそれからまもなくしてからだった。スロットかパチンコかの勝ち負けの話をしていたから、そういうことなのだろう。幼い兄弟を風呂場で遊ばせておき、その間にこっそり家を抜け出し、遊びにいった。
「あいつらになんか食わせるものある?」
「なんもない」
「あっそ。なら無しでいっか。それにしてもあそこのラーメンうまかったな」
私はその場を離れ、なにかを振り切るように全速力で自転車を漕いだ。前カゴの中でボールが小刻みに跳ねるたび、この球体に押し込めた私の憎しみもはずむ。
誕生日に買ってもらって大切に使っていたこのボールを、私はそれ以来、使うことはなかった。
以上が、私が小学生だった頃の記憶だ。
こんなことがあったからこそ、大人になるにつれ、私は『ネグレクト』『虐待』などを強く強く憎んでいくようになる。
(自分の子どもは大切に育てるんだ)
その後、私は成人して結婚し、娘を授かった。
病院で生まれたばかりのちっちゃなちっちゃな娘をこの胸に抱いたとき、これからは娘から一瞬たりとも目を離さない、置き去りになんて絶対にしないと、心に誓った。
ただ。
あの時、ボールに宿った鬼は、その球体からいつのまにか私へと乗り移り、私の中でじっと身を潜めていたのだろうか?
そのことに気がつくことなく、私はそのまま親となってしまった。
成人した娘から、
「今までずっとお母さんの束縛が辛かった……私はお母さんの所有物じゃない、意思も感情もあるひとりの人間として見て欲しかった!!」
と、冷たく絶縁宣言される、
その日まで。