009. 伊豆沖海戦
沖縄・グアム・ハワイを占拠した『太平洋帝国』こと第3方面軍は、首都のある父島沖の海上基地から艦隊を出発させ、北上の気配を見せた。
このままでは首都侵攻もあり得る。
そう考えた官邸は海上自衛隊の残存する艦艇のほぼ全てを伊豆諸島周辺に集めた。
「関東及び東海地方の全国民に対し、避難指示を発令します」
この発表と共に、内陸部への、3000万人を超える民族大移動が始まった。
勝てるかどうかではない。如何に時間を稼げるかである。
この言葉を残したとされるのは最後の艦隊指揮官だったとされる。
「米軍は今やオホーツクの彼方へ撤退した。今、我が国を守る事が出来るのは、我々しかいないのだ」
「各自、これが最後の晩餐と思ってこの飯を食せ」
翌朝、八丈島沖には1000以上のドラゴンと、1万を超えるワイバーンの群れがあった。
更に300隻以上の軍艦が水平線を埋め尽くした。
対して海上自衛隊に残る艦船は10隻。それも支援船を含めた数で、実質軍艦といえるものは僅か3隻であった。
一方この頃、官邸では。
「関東・東海地方の避難は順調に進んでいるか」
「避難指示より2日、500万人が避難しました」
「しかし、避難速度が急速に落ちており、このままではおよそ4200万人が取り残されます」
「物事は想定通りにはいかないものだな……」
首相はそう言って、3階にある執務室に幾人かの閣僚を呼び寄せた。
「藤井官房長官、坂元外務大臣、石井財務大臣」
「首相、急にそんな改まって、どうされたんですか?」
「私は首都で指揮を執る。君たちは京都へ逃れて臨時政権を立てよ」
「はっ?」
「どういう事です?」
「首相はここに残ると仰っているのですか?」
3人は驚きのあまり訊き返す。
「国民の半数を見捨てる訳にはいかんだろう」
続けて3人はこう言う。
「首相、偽善は分かりますが、ここは執務続行を優先して下さい」
「そうですよ、偽善に命を捧げる事はありません。逃げましょう」
「やっと大臣になったんだ、この地位を捨てる事はないだろう」
「いいや、ここは腹を括らねば」
3人はこれ以上の説得は無駄だと考えて執務室を後にした。
——官邸・緊急対策本部室にて
秘書が首相に言う。
「首相、あれで宜しいのですか」
「私が頑固者だというのは周知の事実だからね」
直後、官邸に急報が入った。
「伊豆沖にて海上自衛隊が会敵、全滅との事です」
「これまで何人が避難できた?」
「推定600万人強かと」
「そうか……」
首相はマイクを取って言う。
「君たちは今からヘリで京都に逃れなさい。私はここに残る」
「暫くの事は第1秘書に任せてある」
室内が騒然とする中、首相は続けてこう言う。
「君たちは日本最高の頭脳集団にして、最後の希望だ。絶対に失ってはならない」
「『異世界軍』も最高責任者である私が直接赴けば、対応を考えるだろう」
「私の命なぞ惜しくはないが、君たちの命を道連れにする訳にはいかないのだ」
これには秘書も目を丸くしていた。
そんな事聞いていない。いきなり過ぎる。
しかし、私の職務は彼を最後まで助ける事。喩え何があったとしても。
それから10分もしないうちに、次々とヘリは官邸から飛び立つ。
彼らは京都の文化庁を間借りして、臨時政府を打ち立てる予定だ。
同じ頃、国民と共に皇室も京都に移転した。
これには様々なご意見があられたが、本旨ではないので割愛する。
伊豆諸島の陥落。
これを知らせる者は、もう誰も居ない。
アメリカは「防衛専念宣言」なる法令外の宣言を発して、再び日本を見捨てた。
東京23区からは60%程度の人が去ったが、その殆どが避難中である。
テレビ画面からは、前代未聞の大渋滞の様子が映し出される。
上り線は規制され、陸上自衛隊が水際防衛のために関東地方沿岸部に展開しつつある。
避難までの時間を1秒でも稼ぐ。
この間に首相は和平交渉のテーブルを用意する。
全ては国民のために。
首相にとって、和平などどうでも良かった。
避難までの時間が稼げれば良いのだから。
——京都・文化庁
「時間稼ぎは成功するだろうか」
ここには、既に避難した国会議員も大勢集まっていた。
彼らはここで首相の全国中継を聞く事となった。
「我が国は今、未曾有の危機に瀕しています。『異世界軍』による首都攻撃であります。私は、日本国民1億2000万の安全のため、東京に交渉の場を設ける事と致しました。彼らが要求する『予知の水晶』の捜索には全面協力する姿勢です。国民の皆さまには、ご理解とご協力をお願い申し上げます……」
インターネットが制限された中で、テレビ中継は今や貴重な情報源。この時の視聴率は70%を超えていたと思われる。
オンライン会見の終わった後、誰も居ない記者会見室で、首相は一人呟く。
「思えばここまで、不真面目にやってきたものよ。最期くらいは、真面目に生きようと……」
首相が窓から東京の街並みを眺めていた時、官邸に1匹の黒いドラゴンが降り立った。
「我こそは『太平洋帝国』皇帝代理人・ウィミスーリタである」
首相は急いで1階へと降りて彼を出迎えた。
首相自ら特別会議室へと案内する中、ウィミスーリタはこう呟いた。
「この官邸は幾らするのだろうか」
首相はこう返した。
「徳なき者には大きくても軽く、徳ある者には小さくても重い、そんな官邸ですよ」
ウィミスーリタは驚き、そしてこう返す。
「首相ご自身にとって、この官邸は重いのですか、それとも軽いのですか?」
「それは後世の歴史家の判断に委ねるとしよう」
鼎の軽重を問う。かつて楚王が周の神器である九鼎を持ち帰る事を示唆した故事である。重さを尋ねられた王孫満は、鼎の重さは徳の有無による、としてこれを退けたとされる。
このような緊張の中で、彼らは特別会議室へと辿り着いた。




