最終話
崩れた櫓の向こうには、呆然として立ち尽くすキングの姿があった。
兵士たちは金と銀の下敷きになっており、当分は動けそうにない。
クダンとカクはゆっくりとキングに近付いていく。
もう彼に逃げ場はない。
「さあ、これで『詰み』です」
カクはそう言って、鋭いツノをキングに突きつけた。
クダンはキングの背後に回り、挟み撃ちの格好になる。
「くっ……ワシの、負けだ」
将棋においては、玉がどうやっても助からない状態に陥った段階で、勝敗が決まる。
その状態が「詰み」である。
「こ、これをやるから、命は助けてくれ」
怯えた様子のキングは、ダイヤモンドを差し出した。
「安心してください。将棋は相手を殺さないゲームですから」
「カク、これは将棋じゃねえんだって! まあ、俺だって人を殺すつもりはねえが」
クダンは、キングからダイヤモンドを受け取った。
「すげえな……こんなでかいダイヤモンドがあるのか」
「クダンさん、早く立ち去りましょう。感想戦をしている時間はなさそうです」
「そうだな」
兵士たちは、金と銀の山の中から脱出しようともがいている。
クダンたちは急いで屋敷を出た。
クダンはカクに乗って移動し、屋敷が見えなくなるほど遠くまで来たところで、小休止することにした。
「ふー、さすがに疲れたな」
「そうですね。でも、うまくいってよかったです」
「まったくだ。おまえのおかげだよ」
クダンは、改めて礼を言った。
カクがいなければ、盗みが成功しなかったのは間違いない。
「お役に立てて嬉しいです。ところでそのダイヤモンド、どうするつもりですか?」
「売って金に換えるよ。その金を使って何をするかは、それから考える」
「そうですか」
「おまえはどうするんだ?」
「僕は……わかりません。行くところがありませんから」
「そうか、じゃあ、俺と一緒に来いよ」
クダンが当然のことのように言うと、カクの目が輝いた。
「いいんですか? 僕、かなり目立ちますよ」
カクの体は鮮やかな朱色、おまけにツノまで生えている。
お尋ね者のクダンにとって、目立つ生き物がそばにいることは避けたいはずだ。
「かまわねえよ。他国まで逃げれば、追っ手も来ねえだろう。
そうだ! 俺に将棋を教えてくれよ。
おまえが将棋の話ばかりするもんだから、俺も興味がわいてきたんだ」
「いいですとも! クダンさんと将棋が指してみたいです!」
「俺たちだけじゃなく、いっそのこと、この世界に将棋を普及させようぜ!」
「素晴らしい!」
二人がそんな話をしているときだった。
「クダンさん、あれは何でしょうか?」
「ん?」
「こちらに近付いてきます」
二頭の馬が車両を引いて走っており、その車両には御者を含めて三人の兵士が乗っている。
馬は二頭とも駿馬のようで、かなりの速度が出ているようだ。
「やばいぞ……あれは戦車だ! キングの奴が追っ手を差し向けやがったんだ!」
戦車とは、キャタピラ付きの近代戦車(tank)のことではなく、古代戦車(chariot)のことである。
「いえ、あれは『飛車』です! ついに出てきましたか!」
飛車は将棋における最強の駒である。
縦と横にいくらでも動くことができ、攻めの要となる駒である。
「逃げるぞ!」
「ええ、乗ってください!」
カクはクダンを乗せて全速力で駆け出した。
「クダンさん、安心してください。
飛車は縦と横には速く走れますが、斜めには動けません。
それに対して僕は斜めに高速で走れます。
これは四角形の対角線を進んでいるようなものなので、飛車を引き離すことができるでしょう」
だが、敵は予想に反し、向きを変えてカクを直線的に追ってきた。
「なんで!? 飛車は斜めには動けないはずじゃ……」
「だからあれは飛車じゃなくて戦車なんだって! なんでも将棋に例えるんじゃないっ!」
「そうなのかなあ」
どうやら戦車とカクのスピードは互角のようで、ピッタリとついてくる。
「なあカク、仮に飛車だとすれば、どうやって止められる?」
「足の速い駒を止めるには、合い駒が有効ですね」
「合い駒?」
「僕たちと飛車の間に持ち駒を打って、動きを止めるんです」
「持ち駒って言ってもなあ……」
そこでクダンは、ポケットに入っている巾着袋に気付いた。
香りの部屋で盗んだシナモンだ。
「これが使えないか?」
シナモンをカクに見せる。
「それは桂馬ですね! はい、合い駒に使えますよ!」
「よし」
クダンは巾着袋の口を開けると、振り返った。
戦車とは百メートルほどの距離がある。
「いや、シナモンなんかばらまいても、戦車の足が止まるとは思えねえが」
「『大駒は近づけて受けよ』という格言があります。飛車が近づいたところで、目の前に桂馬を打つんです」
大駒とは、飛車や角行のような強力な駒のことだ。
「なるほど、馬の鼻面に直接シナモンをぶつければ、効果があるかもしれねえな」
「では、飛車が近づくように、スピードを落としますね」
カクが速度を緩めると、徐々に戦車が近づいてきた。
クダンは、シナモンが届く距離になるまで、じっと待ち構える。
そして、ついに目と鼻の先まで戦車が迫った。
「これでも食らえ!」
クダンは、ありったけのシナモンを、二頭の馬の顔にぶつけた。
馬は繊細な生き物だ。
いきなり顔面に何かをぶつけられた二頭の馬は、驚いて立ち止まった。
「うわ、急に止まるな!?」
兵士たちの乗った車両が、バランスを崩して転倒した。
「くそっ、早く車を起こせ! 逃げられるぞ!」
兵士たちはなんとか態勢を立て直した。
だが、二頭の馬は立ち止まって動こうとしない。
地面に散らばったシナモンの匂いに、注意を引きつけられているのだ。
人間の千倍の嗅覚があると言われる馬にとって、シナモンの香りは強烈だ。
「おい、何をしてる、走るんだ!」
御者がムチを入れても、馬たちは匂いを嗅いで立ち止まったままだ。
やがて、シナモンをバクバクと旨そうに食べ始めた。
その間に、クダンとカクの姿は見えなくなっていた。
―――
クダンとカクは他国へ逃げることに成功し、ダイヤモンドを換金して億万長者となった。
その財産を狙って、クダンの家に泥棒が侵入することもあったが、カクが全て撃退した。
「守りは僕に任せてください。角行が成って龍馬になると、とても守りに強い駒になるんです。その防御力は金銀三枚に匹敵すると言われています」
「頼もしいな」
その後、大量の資金を元手に、クダンはさらに財を成した。
豪邸を建て、大量の兵士と使用人を雇った。
美しい女性と結婚し、子供も五人生まれた。
また、その財力を使って、将棋の普及にも努めた。
やがて、将棋人口は一千万人を超えた。
プロ棋士が生まれ、リーグ戦が行われるようになった。
将棋を普及させたクダンは「将棋界の父」と呼ばれるようになった。
そんなクダンの隣には、常にカクの姿があった。
そして、クダンたちがダイヤモンドを盗んでから三十年後――、
カクは息を引き取った。
馬としてはかなり長生きをしたと言っていい。大往生である。
「この世界に来て、クダンさんに会えて幸せでした」
カクは死に際にそう言った。
「それはこっちのセリフだ!
カク、この世界に来てくれてありがとう!
おまえがいたから、今の俺がある。
この世界に将棋を普及させることができたのは、おまえの功績なんだ!」
クダンは泣きながら別れを告げた。
クダンはカクの遺体を自分の屋敷の庭に埋葬した。
その一年後――、
カクを埋葬した場所から、木が生えてきた。
この世界では、見たことのない木だった。
ツゲの木である。
将棋の駒の材料として使われる木だ。
クダンはその木から一枚の将棋の駒を作った。
表には黒字で「角行」、裏には赤字で「龍馬」と書き、その駒に『カク』と名前をつけ、家宝とした。
カクは、二度と割れることはなかった。