第二話
カクの頭は常に北を向いており、体の向きを変えることができない。
さらに、斜めにしか移動できない。
「目の前にも動くことができないって、そんなバカな話があるか」
クダンには冗談としか思えない。普通の馬のように足を動かせばいいだけではないか。
「僕も理不尽だとは思いますが、どうやら角という将棋の駒の性質を、この世界でも引き継いでしまったようです」
しかし斜め方向ならば、前にも後ろにも、並の馬以上の速度で走ることができるのである。
馬の視野は広いので、前を向いたまま、斜め後方に走ることにも支障はなかった。
クダンは、カクの協力があれば、敵の守りを突破できるのでは、と考えた。
「なあカク、頼みがあるんだが」
「はい、何でも言ってください」
カクはすでにクダンを自分の主人と認めている。
駒である彼は、主人の指示に従って動くと安心できるのである。
「俺はこれから、キングという悪徳町長の屋敷にある、巨大なダイヤモンドを盗みに行くんだ。手伝ってくれ」
「ダイヤモンド!? つまり、玉将のことですね」
カクには、なんでも将棋に当てはめて考える癖がある。
「なんだギョクショウってのは?」
「玉将は、普通は玉と呼びます。玉というのは宝石のことですね。前世での私の仕事は、相手から玉を取ることでした」
「なんだ、おまえも泥棒だったのか」
「泥棒扱いは心外です」
玉将は将棋というゲームにおいて、最も大事な駒である。
この駒を取った時点で、勝負は決するからだ。
「もちろん、手伝うのは構いませんよ。僕は何をすればいいですか?」
「屋敷の玄関の前には九人の兵士がいて、守りを固めているんだ。
なんとかその隙をついて、屋敷に侵入したい。
おまえのスピードなら、兵士たちの間を縫って玄関まで到達できる。
兵士たちは、馬が斜めに高速で走ってくる、という異様な光景に心を奪われ、反応が遅れるはずだ」
「なるほど」
「その後は俺が一人で中に入ってダイヤモンドを探すから、おまえはどこかに隠れていろ」
「僕は中に入らないんですか?」
「向きを変えられず、前にも進めないおまえじゃ、壁に遮られて動けなくなるだろ」
「ごもっともです」
クダンはカクに乗って、町長の屋敷の玄関の南西、百メートルほど離れた地点に移動した。
北東にまっすぐ進めば、玄関の扉にたどり着く地点である。
屋敷の前には、九人の兵士たちが横に並んで警備をしていた。
「うーん、兵士がきっちり隊列を組んでやがるな。これじゃあ通り抜ける隙がねえ」
「なるほど、あれは『歩兵』ですね」
「またおかしなことを言い出したな。なんだよフヒョウって」
「将棋の駒の一種ですよ。普通は歩と言います。一番弱い駒です。目の前にいなければ怖くありません」
歩兵は前に一マスしか動くことができず、将棋の駒の中で最も価値の低い駒である。
だが『歩のない将棋は負け将棋』という格言もあるように、ないと困る駒でもある。
「弱いと言っても、九人もいちゃあなあ」
「クダンさん、ここはじっと待ちましょう。歩がいつまでも動かずにいられるはずがありません。隙ができた時を見計らって、突破します」
クダンたちは離れたところで、兵士たちに隙ができるのを待つことにした。
将棋には『遠見の角』という言葉がある。
角という駒は自陣に居ても、遠くにいる敵に睨みをきかせることができるのだ。
「おい、あの男と黒い馬は何をしているんだ?」
このあたり一帯は、森が切り開かれて見通しのいい広場になっているため、兵士たちからもクダンとカクの姿は見えている。
「旦那様を訪ねて来たんじゃないか?」
「だったら、堂々と入ってくるだろ。あんな胡散臭い男が旦那様の客人のわけがない。とにかく持ち場を離れないようにしよう」
それからも兵士たちは隊列を崩さずに持ち場を守っていたが、やがてしびれを切らした。
一人の兵士が前に移動する。
「おい、どこへ行くんだ?」
「あいつを問い詰めてくる。みんなはそこで待っていてくれ」
兵士が一人動いたため、クダンたちと玄関の間に道が開けた。
「クダンさん、隙ができました!」
「よし、行くぞ!」
カクは駆け出した。もちろん斜めにである。
「うわっ、何だ!? こっちに来るぞ!」
「なんで斜めに走ってくるんだ!? しかも速いぞ!」
カクは、驚いている兵士たちの間を通り抜け、玄関にたどり着いた。
すかさずクダンはカクから降り、扉を開ける。昼間は鍵をかける習慣がないことは、調査済みだ。
「ありがとよ、カク。後は任せろ」
クダンは屋敷に侵入した。
「あっ、中に入られたぞ!」
「追え!」
「旦那様に知らせるんだ!」
「馬はどうする? なんかツノが生えてるけど」
「馬なんか放っておけ!」
九人の兵士たちは、クダンを追って中に入った。
カクはそれを黙って見送る。
「クダンさん、大丈夫かなあ」
―――
「何? 侵入者だと?」
「はい、現在屋敷内を捜索しておりますが、まだ見つかっていません」
キングは自分の部屋で兵士の報告を聞き、たるんだ顔をしかめた。
彼は五十二歳。日々美食を楽しみ、ほとんど運動をしないため、肥え太っている。
「おそらく、泥棒だろうな。狙いはコイツか」
今まさに彼は、この巨大なダイヤモンドの輝きを、うっとりと眺めていたところだった。
「ここにいては危険だな。ワシはダイヤモンドを持って櫓に避難する。おまえらはその間に侵入者を捕らえろ」
「はい!」
屋敷内の一郭には、防御施設としての櫓を造ってあった。
キングは太った体を重そうに動かしながら、櫓へと移動した。
将棋には『居玉は避けよ』という格言がある。
玉を初期配置から動かさないでいるのは危険なので、守りの堅い場所に避難させた方がいいということだ。
だからキングの行動は、将棋ならば理にかなっている。
余談だが、そんな常識にこだわらず居玉のまま戦う戦法も存在する。
その代表的な例が『藤井システム』だ。
天才棋士・藤井猛が考案した、斬新な戦法である。
―――
カクは周りに誰もいなくなったので、逃げずに玄関前で待っていた。
クダンのことが心配でならない。
屋敷の中からは、ドタンバタンと物をひっくり返すような音と、兵士たちの怒鳴り声が聞こえてくる。
クダンを探しているのだろう。
クダンはこの屋敷に入るのは初めてなので、間取りはわからないはずだ。その点で、兵士たちの方が有利である。
カクは覚悟を決めた。自分も中に入ってクダンを助けようと。
屋内では思うように動けないだろうが、兵士たちの陽動ぐらいはできるかもしれない。
彼はそろりと斜め前方に歩を進めた。
その瞬間――、
「フオオオオオオオッ」
カクの体に力がみなぎってきた。
将棋の駒は、敵陣に入ると「成る」ことができる。
それまでとは違う動きができるようになるのだ。
角行の場合は、成ると「龍馬」に変わる。
斜めにいくらでも進めるのは変わらないが、それに加えて、前後左右にも一マス動けるようになるのだ。
龍馬は略して馬と呼ばれるが、一体どんな馬なのであろうか。
カクは、敵の屋敷に入ったことで、自分が「成った」ことを理解した。
駒を裏返すと文字の色が変わるように、真っ黒だった体の色は、赤く変わっていた。
恐る恐る体を動かしてみる。
まっすぐ前に、動けた。