第一話
その椿事は、対局中に起こった。
将棋の第〇期名人戦第七局は、東京・千駄ヶ谷の将棋会館で行われていた。
名人と挑戦者は共に三勝三敗、この一局で勝負が決まる。
先手となった名人は大きくひとつ深呼吸をしてから、盤上の駒を手に取り、一手目を指した。
パチィィン!
高い駒音を鳴らし、指された手は7六歩。
名人がまず角道を開け、世紀の一戦が始まった。
その後、両者とも序盤から時間を使い、ゆっくりと指し手を進めていった。
そして、そろそろ対局も中盤に差し掛かったころだった。
名人は自陣の角を手に取り、盤面の中央、5五の地点に動かし、自信に満ちた手つきで打ち下ろした。
ピシッ
しかし、いつものような気持ちのいい駒音は鳴らなかった。
名人が駒から手を離すと、信じられないことが起こっていた。
駒が二つに割れていたのである。
漢字で書かれた「角行」の文字が、縦に真っ二つになっていた。
―――
クダンは泥棒である。
だが本人は、自分は義賊だと言い張っている。
なぜなら、彼は貧しい者からは決して盗まない。
彼の盗みの対象は金持ち、それも不当な手段で財を得た人物だ。
彼は現在二十五歳。
お尋ね者ゆえ、定まった住居は無い。
追手から逃れながら、悪い奴が持つお宝を求めて、旅を続けている。
今回彼が目をつけたのはキングという名前の男で、さびれた町の町長である。
なぜその町がさびれているかといえば、キングが法外な税金を取り立てているからだ。
彼は領主から徴税を任されているのをいいことに、規定以上の税金を住民から巻き上げ、私腹を肥やしている。
とても許してはおけない、とクダンは思った。
キングの屋敷は、町からやや離れた森の中にある。
クダンが下調べをしたところでは、その屋敷内には金銀財宝が山と積まれているらしい。
中でも一番のお宝は、握りこぶしほどのサイズの巨大なダイヤモンドだ。
クダンはそのダイヤモンドを盗むことにした。
しかし、その屋敷に忍び込むことは容易ではない。
屋敷の三方は深い谷に囲まれており、唯一開いた南側は、九人の私兵が守りを固めている。
彼らに捕まらずに侵入するのは無理だろう。
中に入ってしまえば、身を隠しながらお宝に近付くこともできるのだが。
クダンは、遠く離れた崖の上から屋敷を見下ろし、途方に暮れていた。
(今回は無理だな、諦めるか)
そう思い、引き返そうと振り返った。
黒い馬がいた。
いや、普通の馬ではない。額から鋭くとがったツノが突き出ている。長さは五十センチはありそうだ。
「ユニコーン……?」
体の色が白ではなく黒であることを除けば、伝説上の生き物であるユニコーンに似ている。
「あ、いえ、僕はそんなすごい動物ではないです」
だが、本人が否定した。
「う、馬がしゃべった!?」
「そうなんですよ、なぜかしゃべれるんです。それどころか、前世の記憶も持っています」
ユニコーンのような生物は、クダンに鋭いツノを突きつけながら、そんなことを言った。
「なあ、そのツノは危なっかしいから、横を向いてくれねえか?」
「それが……体の向きを変えられないんです」
「向きを変えられないだと?」
「はい、おそらくそれは、僕の前世と関係があるんだと思います」
「おまえの前世って……何だったんだ?」
「『角行』という将棋の駒でした」
角行は将棋の駒の一種で、普通は「角」と呼ばれる。
斜めに何マスでも動かすことができ、八種類の駒の中では、飛車と並ぶ強力な駒である。
ただし、縦と横には動かすことができない。
角行という名前は、どこから来たのであろうか。
一気に将棋盤の角まで移動できるから、角行なのかもしれない。
あるいは、角の文字は「つの」とも読めることから、ツノのある動物だったとも考えられる。
日本にいたツノのある動物といえば、牛が連想される。
牛か、牛に車を引かせた牛車が角行なのであろうか。
しかし、この機動力の高い駒に対して、鈍重な牛のイメージはそぐわない。
角行の正体はツノのある馬だった、という解釈の方が納得できる…………できませんか?
クダンは、おかしなことを言う奴だと思い、怪訝な顔をした。
「カクギョウ? 変わった名前だな」
「みんなからはカクって呼ばれることが多かったです。あなたもそう呼んでください」
「カクか、わかった。おれはクダンだ。それで、ショウギっていうのは何だ?」
「何と説明すればいいか……二人で行うボードゲームのようなもので……」
そこでカクは上手い説明を思いついた。「ああ、そうだチェスのようなゲームと言えば、わかりますかね」
その説明で通じると思ったのは、クダンの外見や周囲の風景が、古い時代のヨーロッパに似ていたからだ。
だが、ここはヨーロッパではない、地球とはまったく違う異世界なのである。
クダンには通じなかった。
「チェスってのも何だかわからんが、前世というからには、おまえは死んだんだな?」
「はい。対局中に体が真っ二つに裂けてしまったんです」
「悲惨な死に方だな」
「それで、気がついたらこんな体になって、ここにいました。どうやらここは、僕がいた世界とは違う世界のようです」
「なるほど」
クダンはまだ理解できたわけではなかったが、このカクという生物が嘘をついているようには感じなかった。
「じゃあ、体の向きを変えられないのは、前世でもそうだったのか?」
「はい、僕の体は五角形で、向きが決まっていたんです」
「五角形の体か……変わってるなあ」
「言われてみれば、そうですね。そうだ、こんな体でした」
カクはそう言うと、ツノを使って地面に絵を描き始めた。
五角形の将棋の駒を描き、その中に漢字で『角行』と書いた。
「これは文字か? 見たことのない文字だな」
「はい。実は裏もあるんです」
「裏?」
カクはもう一つ五角形を描き、その中に『龍馬』と書いた。
「表は黒い字ですが、裏の方は、赤い字で書かれていたんです」
「どうやらおまえは、かなり不思議な生物だったようだな」
「生物なのかな? 体は木でできていたので、生きてはいなかったはずですが」
「植物だって、立派に生きているんだぜ」
「うーん、そうなのかな」
「まあいいや、いつまでもここにいても仕方がねえ、移動しようぜ……って、ひょっとして動くこともできねえのか?」
「いえ、動くことはできるんですが……クダンさん、僕に乗ってどこに行くかを指示してもらえますか?」
「乗っていいのか?」
「はい、前世では人に自分の体を動かしてもらっていたので、自分ではどこに移動すればいいのか、よくわからないんです」
「そうか、わかった」
おかしな奴だと思ったが、クダンはカクのことが好きになっていた。
カクの横に移動し、ヒラリとその背中にまたがった。
「しかし、向きを変えられないのは困ったな。このまま進むと、崖の下に落ちちまうぜ?」
「いえ、後ろに進むことができるので、大丈夫です」
「そうか、じゃあ、まっすぐに後ろに下がるんだ」
「はい」
カクは軽快な足の運びで後ろに移動した。後ろに歩けるとは、やはりただの馬ではない。
だが、真後ろではなく、右斜め後方へスーッと動いている。
「おい、どこに行くんだ。まっすぐ後ろと言っただろう」
「それが……」
カクはすまなそうに告げた。「僕、斜めにしか動けないんです」