魔法に包まれた鉄の棺の中で
「見てよ、お兄ちゃん!」
観覧車の中で、優樹菜がはしゃぐように窓の外を指さした。今年で二十四になるのに、子供のようにはしゃぐ彼女の姿を見て、兄の伸介はどこか懐かしさを覚えていた。
彼女が指さす窓の外はちょうど夕陽が西の空に見えていて、辺りがオレンジ色に染まるなか、優樹菜の笑顔だけはどこか明るく輝いていた。
仕事の疲れで昼過ぎまで寝ていたところで、突然優樹菜から遊園地に行こうと誘われたときは、なぜ昨日のうちに言ってくれなかったのかと戸惑いを隠せなかったが、いざ来てみれば、別にアトラクションに乗って回る必要はなく、ただ二人きりで外に出られたことに安心感を抱いていた。
伸介は朗らかな笑みを浮かべながら、優樹菜が見ていた夕陽をじっと眺めていた。
そうやって油断をしていたところで、突然優樹菜が彼の隣に座ったのだ。そして、彼の手の上に自分の手を置いて、そのまま伸介の肩に頭を預けた。
「お、おい……」
戸惑う伸介の言葉に、優樹菜は気にしていないとでもいうように言葉を返す。
「いいじゃん。きっとこれで最後なんだからさ」
その言葉は優しく、それでいて寂しさを感じさせた。
「ずっとこうしていられるんじゃないかなって思ってたんだけどなぁ……」
彼女のその呟きは伸介の心にずしりと重くのしかかる。
伸介は優樹菜と一緒に遊びに出かけることはもうできないだろう。
優樹菜はもうすぐ入籍することになっている。相手は優樹菜の同僚であり、彼女が勤めている会社の専務の息子だった。大学時代の同級生でもあるらしく、お互いをよく知っているそうだ。お相手としては悪くない。兄としては祝福してあげるべきだろう。
けれども、伸介は手放しに祝福することができなかった。
優樹菜の元カレという立場から、嫉妬と後悔が心に渦巻いていた。
伸介と優樹菜は血のつながらない一つ違いの兄妹だ。
二人がまだ小学生になっていない頃、伸介の父親と優樹菜の母親が再婚し、二人は赤の他人から家族になった。小学生のうちは互いに本当の兄妹だと思い込んでおり、兄妹としての遠慮のなさもあれば、兄妹ゆえの遠慮もあった。
けれども、伸介が中学校に上がる頃、彼の父親と優樹菜の母親が再婚関係であることを思い出し、優樹菜とは血がつながっていないことを自覚するようになった。優樹菜もまた、中学校に上がる頃に血のつながりがないことを意識するようになった。
お互いに、兄妹でありながら、血のつながりのない男女であることを自覚した。そして互いに対して恥ずかしさを覚えるようになった。
そうした思春期の葛藤の中、ほんの少し冒険しようと思い始めた。血のつながりがないから問題はない。けれども、あくまで自分たちは兄妹だ。兄妹という立場にいながら男女の仲になると言う背徳感。ませていた二人はそれを味わってみたくなったのだ。伸介が中学三年生、優樹菜が中学二年生の時の話だ。
親に内緒で付き合いはじめ、周囲に隠れて口づけを交わし、仲のいい兄妹のふりをしてデートをする。そんな背徳的な日々を送るようになった。どこか不義理だと感じながらも、この関係をやめられないでいた。そしていつしか、兄妹をやめられたならと思うようになっていった。
けれども二人は意志が弱かった。背徳を感じることに楽しさを見出していながらも、お互いが好いていることを両親にも友人たちにも告白できずにいた。血はつながっていなくともやはり兄妹。不適切な関係ではないか、不義理ではないか、周囲から奇怪な目を向けられるのではないか。そう考えてしまうと勇気を踏み出せず、いつまでも関係を隠し続けることしかできなかった。
そしてそのまま別々の大学へと進学してしまい、連絡を取る回数が減っていった。
たった一度だけ、二人は一夜を過ごした。あの時の優樹菜の涙の味を伸介は忘れられないでいる。二人の関係はそこまで進んでいたのに、それでも二人が向き合うべき人たちとの関係は全く進まないままだった。
そして二人はいつしか自然消滅してしまい、ほんの少しだけ普通ではないけれども、兄妹に戻った。戻るしかなかった。
観覧車の中に居る間は、まるで時間が巻き戻ったかのように、二人は恋人同士になっていた。
伸介は優樹菜との過去を振り返る。数年前まで見かけたはずの彼女の幼い顔立ちは、もう面影すらなく、成人女性特有の端正な顔立ちへと変わっていた。今左肩にかかる彼女のぬくもりを感じながら、二十年近く一緒に過ごしてきたのに、自分のものにできないことへの無念さをかみしめていた。
優樹菜もまた伸介との過去を振り返る。数年前までは当たり前のように彼の隣に立っていたのに、今のように彼に身を預けることが最後になりつつあり、寂しさで胸が締め付けられていた。
下に辿り着けばとけてしまう魔法に包まれた鉄の棺の中で、むさぼるように抱きしめ合うこともできず、二人は何かから隠れるように互いのぬくもりを懸命に感じ取っていた。
今この瞬間、心のゆくままに愛し合うことができないのは、きっと罰なのだろうと伸介も優樹菜も自覚していた。それは決して背徳に対する罰などではない。臆病者同士にお似合いの罰なのだ。
こうして最後の口づけすらも交わすことができないまま、鉄の棺のふたが開いた。
「お疲れさまでした。気を付けてお降りください」
観覧車の誘導員の声が耳に入り、優樹菜が「いこっか」といいながら、伸介の手を引く。その手は、彼女が棺から一歩足を踏み出したと同時にすぐ離された。
先導する優樹菜の背中を見つめながら、伸介はただ無心になっていた。何も考えてはいけない。いや、何も考える資格はなかった。彼は優樹菜の兄であり、そしてそれだけだ。
「そうだ。晃さんなんだけどね」
ふと優樹菜が振り返り、結婚相手の男性の話を振る。そこには楽しそうな表情で結婚を待ち望む一人の自立した女性の顔があった。その顔を見て、伸介は朗らかな笑みを浮かべて楽しげに彼女に耳を傾ける。
臆病者はかつて愛をささげた女性に対し、心からの祝福を笑みに浮かべた。
そしてもう一人の臆病者はかつて愛した男性に対し、新しい愛を自慢した。