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二度目の出会い-1

始業5分前のチャイムが鳴ると、更衣室は一気に混みはじめます。

塵を防ぐマスクをはめ、「防塵服」と呼ばれる、まるで宇宙服のような白衣を身にまとい、特殊なビニール製の手袋をはめたその手を、さらに水洗いします。

実際の仕事場に行くには、このあと「エアーシャワー」をくぐり抜けなくてはなりません。日常生活は、眼には見えないけれど、「チリ」や「ホコリ」に囲まれています。僕がいま働く職場で製造している製品は、「チリ」や「ホコリ」を最も嫌う「精密部品」でした。

定員3名のエアーシャワーが2機並んでいます。入り口の扉を閉めると、右から左から、あらゆる角度から飛び出したエアー噴出口から、十数秒エアーが噴き出し続けます。噴出口の角度は、一件適当にも見えるのですが、実は体に付着した塵などを効率よく除去するために、ちゃんと計算された角度に設定されていると聞きました。エアーが吹いている間、僕たちはその場でゆっくり回ったり、体についた塵を少しでも落とすために「防塵服」を着た体を軽くはたきます。

十数秒後、エアーが止まると同時に、出口のロックが「カチッ」と音をたてて解錠されます。「出口」といっても、実際は僕らが働く「クリーンルーム」への「入口」です。



「おはようございます。」

僕は挨拶をしながら自分の席へと向かいます。「クリーンルーム」の中では誰もが防塵服を着ています。一応胸に名札をつけてはいるのですが、頭の先から足の先まですっぽり防塵服に覆われているため、最初のうちは誰が誰なのか分からず、非常に戸惑ったものでした。

最近は後姿を見てもどの人かわかるほど、この職場にも慣れてきていました。


僕が自分の席に着くと、椅子を引く音で我に返ったのか、隣の席のトオルが体を一瞬ピクリとさせて、こちらを向きました。


「おはよう。眠そうだね。」

僕が話しかけると、トオルは防塵服の下の寝ぼけ眼をパチパチさせて言いました。

「眠い・・・かな。おはよ。ハル。今日もがんばんべ。」

「・・・頑張るって声じゃないね。昨日言ってたCD持ってきたよ。」

「マジ?いつでもいいって言ったのに・・・早いな、サンキュ。」


僕は自分の席に着き、隣の席のトオルと話し始めました。防塵服とマスクが、耳も口も覆っているせいで、初めのうちは相手の言葉を聞きとるのにも一苦労でした。逆に、自分の言葉も小さい声では伝わらないのです。ただでさえ空調の音や機械の音が絶えず騒がしい職場です。大きな声で話すのが苦手だった僕は、やはりここでも戸惑いました。それでも働き始めて半年経たないうちに、それにも慣れたのか気にならなくなりました。人は何だかんだ言っても「適応能力」というものを持っているのでしょうか。


始業時間が近づくにつれ、エアーシャワーから人がひっきりなしに入ってきます。エアーシャワーが噴いては止まりドアが開き、噴いては止まりドアが開き、そんな繰り返しを、僕はトオルとたわいもない会話をしながら、ただ眺めていました。


キンコン、カーンコン。

時計の針が8時30分を指し、始業のチャイムが鳴りました。ここ「HDK株式会社浜名湖工場」の朝は朝礼から始まります。

「・・・さてっ、と。」

少しかったるそうに重い腰を上げるトオルを、すでに席から立ち上がっていた僕は横目で笑いながら見ていました。




あの日、僕が病院に着いた時、すでに両親は亡くなっていました。

ハンドル操作の誤りで、幹線道路のアンダーパスの側壁に激突したとのことでした。

正直、あまりその時のことは思い出せません。警察や病院の対応は全て2歳年上の姉に任せていました。というよりは、僕に任せられる状態ではなかったのだと思います。

救いだったのが自傷事故だけで済んだことだ、と言われました。


病院の霊安室で、すでに亡骸になった父と母は、まるでドラマに出てくるのと全く同じように、顔に白い布をかけられていました。簡単な仏壇のようなものの傍らに白いロウソクが二本灯され、その炎がゆらゆらと揺れていました。

体の損傷が割とひどかったと聞かされ、僕は対面するのをためらっていました。

「ちゃんと見てあげなきゃダメだよ。顔は全然無事だったから。」

姉がそう優しく言いました。僕も最期を看取れなかった分、両親の死に様はしっかりこの目に焼き付けなくてはと思っていました。損傷した体や、遺体を見るのが怖いのではないのです。この布をめくった瞬間、両親の「死」を確実に認めなくてはならないということが、怖くてしょうがなかったのです。


それでも姉に促され、ぼくは覚悟を決めて、顔にかけられた白い布をめくりました。



涙が出て止まりませんでした。

苦しかっただろうに、痛かっただろうに、それでも両親ともに、死に顔はとても安らかな表情をしていました。頬や唇がわずかに血に染まっていることを除けば、まるで眠っているかのような表情でした。

僕は既に冷たいその父の顔を、手のひらでそっと撫でました。初めてこんな形で撫でる両親の頬は、骨ばっていて、肌にはシワが刻み込まれていました。



両親が事故を起こしたのは、あの日の夜8時頃だったそうです。当時は、僕は携帯やPHSは持っていませんでした。

僕は両親が苦しんでいる時に、何をしていたんだろう、と深く後悔しました。あの日はクニオと待ち合わせて居酒屋、ショットバー、JACKと飲み歩いていました。

デビューした頃の初体験の話、いい男が集まると評判のバーへの探索、JACKでの色恋話で浮かれた自分。そんなふうに僕が浮かれて楽しんでいた頃、両親は痛みと苦しみと闘っていたはずなのです。


そんな時に僕は、なんてくだらないことをしていたんだろう、と思いました。当時、朝まで飲んだりすることが増えた影響で、確実に両親と話す機会も減っていました。僕も、特別両親と仲が良かったとは言いません。世間のよくある感じの家族だったと思います。

ただ、2歳上の姉が若くして結婚し、練馬の家を出てからは、両親と僕の3人暮らしでした。自分の子供が一人家を出ると、親からしたら、やはりさみしかったのでしょう。

「たまには3人で外にご飯食べに行くか。」などと、父が遠慮がちに誘ってきたこともありました。僕はその日も二丁目に飲みに出る約束があったため、断りました。

そんな誘いが何回か繰り返され、そのたび僕は断っていました。正直、当時は親との時間よりも、二丁目での時間が楽しかったですし、大切にしていたのです。


なんで、二丁目で遊んでばかりいたのだろう、せめてあの夜だけでも自宅にいたら、もしかして事故は起きなかったかもしれない、たとえ起きたとしても、最期を看取ることができたはず、考えても仕方ないのはわかっているのですが、あまりにも突然の出来事に後悔は止まりません。


あの頃の僕は、二丁目に飲みに出て、ゲイライフを楽しむ、「それだけ」になり過ぎていたような気がします。僕はゲイですし、自分が一番解放される町で楽しむのが悪いこととは思いません。ただそればかりを基準に行動していたかもしれません。給料にしてもいくらは飲み代としてとっておく、休み前の夜は必ず予定を空けておく、そんな事ばかり考えていろいろな時間やお金のやりくりをしていました。

自分のことしか考えていなかったのかもしれません。自分が自分らしく、自分が楽しく、自分の事だけを考えて、周りに当たり前のようにあった「大切なもの」を見失っていた部分もあったと思います。


若かったから、突っ走って、それだけしか見えなくなってしまうというのは、こういう事なのかもしれない、と思いました。それでも、今回失ったものは、二度と取り戻すことの出来ないものでした。後悔しても、もう両親は帰らないのです。それでも僕はあの夜に飲み歩いていた事を後悔ばかりしていました。


両親ともに、兄弟家族が無く、形だけの密葬を姉と共に済ませました。親戚も何もなく、僕と姉と、姉の旦那さんと二人のまだ幼い子供、たった五人で両親を見送りました。

姉の旦那さんが何かと力になってくれ、滞りなく四十九日を迎え納骨も済ませました。



やっとひと段落ついたあと、僕は久しぶりにクニオに電話をかけ、今回の事を報告しました。クニオは受話器の向こうで絶句していました。

「なんですぐ電話くれなかったの!」

「ご弔問させて欲しかった!」

やっと声を発したかと思うと、クニオは立て続けに僕を軽く叱責しました。

「ごめん・・・。」

僕はそれだけしか言えませんでした。クニオなりに僕の事を心配してくれているのが、その口調から痛いほどわかったからです。


「これからどうするの?」

しばらくの沈黙の後、クニオは言いました。

それは一番今から考えなくてはならないことでしたが、まだ何も具体的な答えは出ていませんでした。姉と話して考える、と、曖昧な返事を僕は返しました。


僕は、あの日に飲み歩いていた自分が悔しい、とクニオにこぼしました。

「親が死ぬことわかってて飲み歩く奴なんていないよ。後悔する気持ちはわかるけど、ハルは悪くなんかないよ。」

クニオはそう言って僕をなぐさめました。

たぶんそれは正しいのです。僕とクニオの立場が逆だとしたら、僕も同じことをクニオに言うでしょう。それでもどこかやりきれない気持ちが残るのです。


「落ち着いたら電話して。飲みながらいろいろ話そうよ。」

クニオのその言葉に、うん、と答えて僕は受話器を置きました。



四十九日も過ぎ、考えてばかりはいられませんでした。

両親の残してくれた微々たる蓄えで、あと何ヶ月かはこのマンションの家賃くらいは払っていけそうですが、いよいよ自分の身の振り方を考えなくてはなりませんでした。

もともと家族四人で住んでいたこのマンションに僕一人は広すぎますし、またこの先家賃を払っていける見込みはありません。ここを出るしかないということは、確実に決定事項でした。


姉は4年前に結婚し、すでに2人の子供を設けていました。旦那さんはルート配送のトラックの運転手をしていました。カラッとした気持ちのいい性格の持ち主で、今回も、

「良かったら家に来いよ。狭いしガキはウルセーけど、歓迎するぞ。」

と、優しい言葉をかけてくれていました。

それでも僕は、姉夫婦にはなるべく世話にならない道を選びたいと思っていました。まだ若い姉夫婦、2人の子供を抱えての生活は余裕があるはずがありません。僕が行けば、また余計な出費もかかるでしょう。僕も20歳でしたし、一人でもなんとかやっていきたいと思っていました。姉夫婦も18歳と20歳で結婚して、苦しいながらもここまでやってきているのです。僕だって負けるわけにいかないと思っていました。


金銭的な事を考えれば、練馬のマンションにいられるのもあと2か月という感じでした。引っ越しを決めたにしても、両親の残した家具など、処分しなくてはならないものなどがまだ多くありました。


自分の気持ちがまだなんとなく落ち着かないまま、それでもやるべき事がまだまだありました。それでもバイトにも行かなくてはならないし、なかなか自分の身の振り方を決められずにいました。



「家に来ればいいのに。あんた、もう二人っきりの姉弟なんだからね・・・。でも一人でやっていきたいって言うんなら、寮付きの仕事とかも探してみたら?引っ越しにかかる費用も結構するよ。うちもだしてあげられる余裕無くて悪いけどさ・・・。でも寮付きならそういうのかからないんじゃない?新聞配達とか水商売とかパチンコ屋とか、確かあるわよ。・・・それでも、どうしても決まらなければ、うちに来ればいいしさ。」


ある日、姉に相談の電話をした時、姉が優しくそう言いました。最後に頼っていい場所をさりげなく用意してくれるその言葉に、僕は励まされました。結婚して、妻となり母となった姉は、何だかとても強くなったような気がしました。そして無条件で受け入れてくれる包容力を感じました。それは、両親が当たり前のようにしてくれていたものにも似ていて、改めて僕は失ったものの大きさにも気付いたのです。



姉のアドバイスを受けて、僕は求人雑誌の「寮付き」に的を絞って、ページをめくり始めました。

思ったよりも多くの「寮付き」の仕事の求人があることに僕は驚きました。姉が言うように、パチンコ、新聞配達の仕事も多く掲載されていましたが、それよりも「月収25〜34万可能」「ワンルーム寮完備」「カバン一つで赴任」といった文句が目立つ、地方での製造工の派遣社員の求人がその多くを占めていました。僕は、地方に行く考えを全く持っていなかったので、こういった求人広告はいつもスルーしていたのですが、確かに地方に赴任する仕事だけあってほとんどの仕事が「寮付き」でした。


広告を眺めていると、東京をいったん離れるのもいいかもしれない、と思い始めました。

あれから、僕は一度も二丁目に飲みに行っていませんでした。まだ飲みに行っても心から楽しめる心の余裕がありませんでした。何となく、両親に対しての罪悪感もまだ残っていました。もちろんこの先の生活を考えると、今までしてきたようなお金の使い方は出来ない、というのもありました。


でも何よりも、心機一転したかったのです。両親のことがあってからの僕は、何をするにも無気力になっていました。環境を変えて、仕事も変えたら、気持ちも変わるかもしれない、求人雑誌をめくりながら、僕の気持ちはだんだんと、地方で働いてみたい、という方向に傾いて行きました。


僕は本格的に求人広告を読み始めました。地方に行くにしても、どうしてもゆずりたくない条件もありました。

他人と住むのは抵抗がありましたから、ワンルームの寮がある場所。体力にそれほど自信が無いので、力よりは、手先の繊細さが必要な製品を作る工場。東京を離れるにしても、あまりに遠くはちょっと抵抗があるので、行っても北は福島、南は三重。

その他、給料、時間帯など、自分の希望条件を絞って読み進めていきました。


最終的に、自分なりの条件のなかで残ったのが、宇都宮のレンズ工場、静岡の光部品製造工場でした。

求人広告で見る限り、そういった業界では大手と思われる派遣会社に、詳しい話を聞きがてら面接を受けに行ったのは、それから数日後でした。



「え?なんて?」姉が聞き返しました。

「だから、浜松行くことになったんだって。」

「浜松?・・・何しに行くのよ。」


姉に、浜松へ行くことを電話で告げると、姉は最初は旅行に行くのかと思ったようでした。寮付きの仕事といっても、まさか浜松へ行くとは思っていなかったのでしょう。


僕は詳しく姉に話しました。浜松の光製造部品工場で働くという、今の僕が選んだ道についてある程度話し終えると、黙って聞いていた姉が、何とも言えない溜息を吐いたあと、言いました。


「・・・まあ、あんたもまだ若いし、男だし、少し一人でやってみるのもいいかもね。あんたも少しはたくましくなれるかもしれないわね。・・・でも、どうしても辛くなった時はうちに帰ってきなさいよ。遠慮なんていらないんだから。」

そして、優しい声で笑いました。僕は何となく心細くなったのと、「いつでも帰っておいで」と言う言葉がうれしくて、気づかれないように涙をこらえていました。


それからは、めまぐるしい毎日でした。コンビニのバイト先に退職を告げましたが、突然決まったことだったため、人員の関係で出発数日前までは働かなくてはなりませんでした。そんな中、浜松に赴任するために必要な書類を揃えたり、スポーツバッグ二つ分のとりあえずの荷造りをしたり、持って行けないものは姉の家に送ったり、忙しい毎日が続きました。

そして、練馬の自宅の後片付けや退去の手続きなど、自分で出来る部分をある程度終え、最低限出来ないことだけは姉に託して、面接を受けてから三週間後、僕は一人、浜松へと旅立ったのです。


新幹線の車窓から眺める富士山や、太平洋を見ながら、僕は

「あぁ、今から本当に浜松での生活が始まるんだなあ。」

と実感していました。

スポーツバッグの中には、両親の形見の指輪が二つと、姉夫婦からの志、そして、一昨日、久し振りに行ったJACKでもらった、タカシさんをはじめ、JACKのみんなからの寄せ書きが、ひとつの巾着袋にまとめて入っていました。僕はそれらを袋の上から撫でながら、JACKでクニオが言った言葉を思い出していました。


「頑張らなくていいから、早く帰ってきなさいよ!あんたいなくなったら俺は誰と遊ぶのよ。とっとと尻尾巻いて帰ってきなさい、バカ。・・・・でも、ハル、・・・頑張りなさいね・・・。」


痛いほどクニオの気持ちがわかる言葉に、僕もクニオも、お酒のせいにして少し泣きました。


「自分が大事にしたいもの」にそっと触れながら、僕は大きく深呼吸しました。


いつまで頑張るか、全く決めたりはしていませんでした。それでも、「頑張れ」といってくれた人たちのためにも、ある程度の期間は浜松で頑張ろうと思っていました。

それでも、期待よりも不安のほうが先行します。初めての土地、初めての一人暮らし、初めての仕事、初めての職場、初めてばかりがこの先に待ち受けているのです。


「みんな、見守っててね。」


僕は巾着袋を少し強く握りしめて、そっと目を閉じました。



こうして、僕の浜松での新生活が始まったのです。


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