ナイアガラ-1
新宿の街には、今年開催されるアトランタオリンピックの文字を冠した広告やフラッグが目立ち始めていました。
僕は、待ち合わせのコーヒーショップで待ちぼうけをくらっていました。
まあ、いつもの事なので、僕は暇つぶしのために持ち歩いている分厚い小説本を読んでいました。
最初のうちは笑って許していました。まだ深い付き合いでなかったことによる遠慮が僕の中にあったのです。
それが待ち合わせの度に繰り返され、また会うほどに付き合いも深くなれば、いい意味でも悪い意味でも、お互いの中に遠慮がなくなっていくものです。何度目かの待ち合わせに1時間遅刻してきたクニオに、僕はあからさまに怒りをぶつけました。
「ごめん、次からは本当に気をつけるから。」
その時クニオは、めったに見せないしおらしい顔でそう言いました。その時は今後なおってくれたらいいな、と期待をしましたが、その期待はすぐに裏切られました。しばらくは遅刻がなくなるのですが、そのうちまた遅刻が増えてくるのです。
最初のうちはその都度怒り注意するのですが、しばらく経つとまた・・・という繰り返しでした。堂々巡りでした。もともとのんびりした性格なのでしょう。遅刻しても悪びれた様子もなく、またなんとなく許せてしまうのは、クニオの持っている天性なのかもしれません。
そのうち僕は何だか怒るのもバカらしくなり、やめてしまいました。怒りを通り越すと諦めが生まれるのでしょうか。言っても仕方ない、という気持ちと、クニオはそういう子だから仕方ないという気持ちでした。それでも僕はクニオが友達として好きでしたし、1週間に一度くらいはこうして待ち合わせをしては会っていました。
少し目が疲れて僕は小説から目をあげました。
夜の新宿の交差点を、コーヒーショップの二階の窓から眺めてみました。見なれた景色です。信号が変わると人も車も一斉に動き出します。赤信号になったばかりなのに、歩道にはすぐに信号待ちの人々が集まります。僕はこちら側に向かう人波の中にクニオを探してみましたが、もう暗いのと、あまりの人の多さで見つけることが出来ません。
あの中にも、今から二丁目に行く人がいるんだろうな、と考えていました。ここから見ていると、誰がノンケで誰がゲイなのかなんて、全く判別は付きません。近くで見たってわからないのだし、もしかしたらそんな見分け自体が意味がないのかもしれません。
人波の中の小さな一人一人のシルエットを見ながら、僕もあの中に紛れたら、ちっぽけな存在なんだろうな、と、ただ何となく考えていました。初めて二丁目に行った時も、大きな決意と緊張を抱えながら歩いていたけれど、他の誰かからしたら、何でもない通行人でしかない存在でしかなかったでしょう。
ただ、とりとめもなくそんな事を考えていました。ふと腕時計に目をやると、待ち合わせの時刻から20分が過ぎていました。クニオはまだ来る気配がありません。
僕は店員にコーヒーのお代わりを頼みました。初めて二丁目に来た日に、意味のない時間潰しのために入った店でした。安いファストフードのようなコーヒーですが、それでもホットコーヒーの入れたてがカップに注がれると、香ばしい匂いがプーンと鼻をくすぐります。
僕は、そんな匂いも味も楽しむ余裕のなかった二年前のあの日を思い出して、なんか恥ずかしくてかわいくて、一人微笑んでいました。
初めてJACKに行ったあの日から、二年の月日が流れていました。
あれから僕は、多くて一週間に一度、少なくとも二週間に一度はJACKに通うようになっていました。
コンビニエンスストアの時給もそんなに高いものではありませんし、JACKでの飲み代は安い方とはいえども、当時18歳の僕にはそれなりの価格でした。
それでもぼくはJACKに通うことを唯一の楽しみにしていました。JACKに行けば同じゲイの仲間と楽しい時間を過ごせるのです。この頃の僕にはJACKでの時間がすべてでした。
何度も通ううちに、タカシさんや従業員のトモとも打ち解けて、それこそ冗談のののしり合いも多少できるようになりました。顔見知りもだんだん増え、JACKに行けば、知っている顔が必ず何人かいるようになっていきました。店に入った瞬間、「ハルー、おはようー。久し振り!」と声をかけられることも多くなり、どこか誇らしいような、こそばゆいような気分になっていました。
そのうち朝まで飲んでいることも多くなっていきました。僕が飲みに行くのは大抵翌日がバイトがない日でしたから、朝5時でJACKが終わった後、タカシさんや他の常連のお客さんと、他の店に飲みに行くこともありました。タカシさんが仲よくしている「FUTURE」に行くことがほとんどでしたが、JACKしか知らない僕にとっては、行ったことのない店に連れて行ってもらうのは、とても刺激的でしたし、新鮮味がありました。
クニオに出会ったのは、そういった縁からたまに通うようになった「FUTURE」でのことでした。
クニオは、FUTUREの従業員でした。週末のみ入っているとのことで、僕が飲みに行くのもほとんどが週末なので、顔を合わせ話しているうちに、好きなミュージシャン、スポーツ、趣味などがかなり一致していることがわかり、話が弾むようになっていったのです。
それでもしばらくは客と従業員の関係での付き合いしかありませんでしたが、お互いが好きな、バレーボールの世界大会が日本で開催されたとき、待ち合わせて観戦に行ったことがあり、それから二丁目以外の場所でも会うような付き合いが始まっていました。僕にとっては初めての「ゲイの友達」と言える存在でした。
友達も出来、JACKでの顔見知りも増え、僕のゲイライフは確実に二年前より充実していました。ごくわずかながら、信頼できる人には自宅の電話番号も教えていましたし、また教えてもらっていました。僕はまだ練馬の自宅に家族と住んでいましたし、自宅の電話番号を教えることにいささか躊躇の気持ちもあったのですが、JACKで何度も会い、人間性を知った上で、信頼できると感じた人のみに教えていました。かといって実際電話で話す機会はそうなかったのですが。
このようにゲイライフが充実していく一方、少しだけマンネリ感を感じていたのも事実でした。
僕は未だに「恋」らしい「恋」が出来ていなかったのです。
JACKに初めて行ったすぐ後に、男性との初体験は済んでいました。
3、4回目のJACKだったでしょうか。いつも通り終電前には店を出たのです。
僕は少しだけ飲みすぎていました。初めてJACKで会った常連のお客さんから、何杯かウーロン割りをごちそうになっていたのです。その頃の僕はあまり焼酎は飲み慣れていなかったのと、自分で注文していたビールと交互に飲んでいたからでしょうか。帰り道、少しふらついてしまっていたのです、
それでも意識ははっきりしていましたし、歩いて駅に行くのも何ら支障ない程度の酔いでした。
二丁目から出て、新宿通りの舗道を駅に向かって歩いていた時です。突然後ろから僕の顔を覗き込んできた男性が少し息を切らせながら、僕に話しかけてきました。
「・・・すいません、さっき二丁目の店から出てきてたよね、良かったら少し話しませんか?」
JACKを出てきたところを偶然通りかかって、そこからずっと後を追ってきていたのでしょうか。年のころは僕より5歳くらい上に見えました。キャップ帽にグレーのパーカー、ゆとりのあるジーンズにスニーカーといった風貌は、スポーティーで、遊び慣れているようにも見えました。僕は痩せていて、お世辞にも「男」を感じさせる見た目ではありませんでしたから、その人の見た目には魅かれるところがありました。
もてそうな感じなのに、なんで僕に声掛けてきたんだろう。
気があるふりして、なんかの勧誘かなあ・・・。
新宿駅へ向かう道を歩きながら、一瞬そんなことを考えました。返事をするまでもなく、その人は横に並んで歩き始めました。少し酔っていた僕は、疑問をそのままその人に尋ねました。
その人は、一瞬きょとんとした後、僕の肩を叩いて笑い始めました。
「全然もてないし、勧誘なんかじゃないよ。さっき店から出てくるとこ見てさ。あ、可愛いな、タイプだな、と思って。悪いとは思ったけど、ここまでつけてきちゃった。なかなか話しかけるタイミングがつかめなくてさ。」
可愛い、タイプといわれて僕は少し舞い上がりました。正直うれしかったのです。
その人は、少し照れくさくて下を向いている僕に向かって、こう言いました。
「今日・・・、急いで帰らなきゃいけないの?」
僕の肩を掴むその人の指の力が、少しだけ強くなったような気がしました。指の先からその人の体温が伝わってくるような感覚と、僕の心臓の鼓動の早さが、その指を通じて伝わってしまっているのではないかという感じがして、僕は何も返事が出来ずにいたのです。
「明日、休み?」
その人は続けて言いました。僕は素直にうん、と頷きました。
「じゃあ、時間は大丈夫だね、・・・俺みたいなの、タイプじゃない?」
そう言われると、僕はまた返事につまりました。その人の、少年っぽい風貌は正直魅力的でしたし、タイプといえばタイプなのです。ただ、終電に時間の余裕がそんなにある訳ではないのです。電車がなくなれば、何となくその先は予想できることです。
何より、さっき会ったばかりの人でした。どうしよう、どうしよう、また僕は悩んでいたのです。ただ、不安な反面、この先の展開に大きな期待をしていた僕がいたのも事実です。
「タイプじゃ・・・なくないよ。」
僕は結局そう言いました。
酔いが僕を少し大胆にしたのかもしれません。
その人はそれを聞くとうれしそうに微笑みました。僕の顔を覗き込むようにして、
「知ってるところ、あるんだ。そこ行こう。」
と言いました。
僕の肩を掴んでいた指が、人の目をさりげなく避けながら、そっと僕の頬を撫でました。
その人が「こっちなんだ。」と指をさした方向に歩きだす背中を見ながら、僕も半歩遅れて着いて行きました。
あ、僕、まだこの人の名前も歳も知らないな。
展開の早さに少し戸惑いながらも、僕はそんな事を考えていました。何で知らない人に着いて行っているのかな、なんてことも思いながら。それでも行き着いた先にたどりつくものはわかっていました。そして、不安よりも、大きな期待をしながら、僕は歩いていました。
不意に肩を叩かれました。
「なあに綺麗ぶってんの。」
顔をあげるとそこにはクニオの笑顔がありました。
時計を覗くと、待ち合わせの時間から40分が過ぎる頃でした。
「綺麗ぶってなんかいないよ。・・・っていうか、相変わらずあなたは・・・」
「まあまあ、とりあえず出て居酒屋行こうよ。腹減っちゃった。」
僕に文句を言う間を与えず、クニオは言いました。まったく・・・と思いながらも、クニオのペースに引きずられている僕でした。クニオは僕の飲んでいたコーヒーカップをせわしなく片づけながら、「ほら、早く行くよ。」と僕を急かしました。
何で待ち合わせには遅れるくせに、いざ会うとこんなに急ぐんだろう。
僕はそんなことを心で思いながら、小説本をカバンにしまいました。
「とろいなぁー、インテリぶっても似合わないから。」
クニオが笑いながら言いました。
「うるさい。とろいってどっちがだよ!」
僕も笑いながらそう言って立ち上がりました。
初夏の夜の風は、心地よく僕らの頬を撫でました。僕はさっき考えていたことを思い出して、自分の頬に何気なく触れてみました。あの夜の自分の頬の熱さと、肩に感じた体温は、なぜだか未だに忘れることができません。忘れたいような、忘れたくないような、複雑だけれど大事な思い出なのです。僕は何となく切ない気持ちになりました。
クニオはそんな僕の心情には気づかず、スタスタと目指す居酒屋に向かって歩いていましたし、喋りながらせわしなく歩いていると、僕のそんなセンチメンタルもそんなには長くは続きませんでした。