はじまりの鐘-1
練馬の自宅を出る瞬間から、いや、おそらく多分、「決意」したその時から僕は緊張していました。
自分の性的志向、簡単に言えば、自分が「ゲイ」であることには、高校生の時にはすでに気づいていました。
もともとけして男らしい性格ではありませんでした。
だからといって特別女っぽかったわけでもないのですが、体も細身できゃしゃでしたし、周りの男の子にくらべても、活発なタイプでなかったことも原因なのでしょうか。
僕は、小学生の頃も、中学生の頃も、周りの同級生からはよく「オカマ」とからかわれていました。あまり活発でなく、家の中で本を読んだりテレビを見ることの方が好きだったのです
そんな僕を心配してなのか、両親は空手や剣道を習わせたがりましたが、僕はそういった「男性が主にやるスポーツ」に、異常に拒否感があったのです。僕は泣いていやがりました。あまりに泣いて拒否するので、親も諦めたようです。
教師にしても同じでした。2歳年上の姉の担任をしていた教師が、僕が6年生のクラスの担任になったのですが、男勝りな姉と僕を比較して、
お前と姉貴、男女逆だったらよかったのにな
と言われたりしたこともありました。
周りからは、オカマだの女みたいだの言われ続け、さんざんないわれようでしたが、それでも特別落ち込んだりするということはなかったのです。登校拒否になるような事もありませんでした。
「オカマ」と言われるのは子供心にもイヤな気持ちでしたが、まだ自分の中に「自我」みたいなものがなかったのかもしれません。
中学校を卒業した春休みのことでした。
もともと胃腸があまり強くない僕は、外出中、お腹の具合が悪くなり、急いで地下鉄の駅のトイレに駆け込んだのです。
やっと一息ついたとき、ふと何気なく荷物を置くための網棚に目をやると、妙に分厚い一冊の雑誌が置かれている事に気付きました。
僕は何も期待せず、何も考えずにその雑誌を手に取りました。表紙には、男性のイラストが描かれていました。雑誌らしく、いろいろな見出しも書いてあるのですが、その時は特別気にもせず、何気なくその表紙をめくったのです。
胸の鼓動が自分でもわかるほど、僕はドキドキしていました。その雑誌に目は釘付けになっていました。ページをめくった途端目に飛び込んできたのは、「男性の裸」のグラビアでした。
誰に見られているわけでもないのに、恥ずかしくて顔が紅潮しているのがわかります。それでも初めての衝撃に雑誌から目が離せずにいました。次々とページをめくっていきました。
そして、・・・僕は興奮していました。
いわゆる、「ゲイ雑誌」だったのです。男性のヌードグラビアが存在するなど、予想もしなかった頃でした。「ヌード写真」と言えば「女性の裸」という固定観念が、その頃の僕にはありました。
「僕がずっと求めていたもの」を偶然にも手にいれたような感覚がありました。僕は迷わずにその雑誌をバッグに入れて、意味もなく急いでトイレを出たのです。
帰りの電車の中で、初めて「男性」の乗客を意識していました。
そして、自分が「ゲイ」かもしれないという事をその時初めて意識したのです。
自分が「ゲイ」かもしれなくて、おまけにゲイ雑誌をいま持っているバッグに入れている・・・どこか悪いことをしてるような胸の高鳴りを感じていました。
そして、目の前に立っているこのひとも、座席で小説を読んでいるあの人も、もしかしたら「ゲイ」なのかもしれない・・・。
男性を自意識で「性の対象」としてみたのは、これが初めてでした。それまでも、アイドル雑誌などの男性アイドルの水着写真などでマスターベーションをしていたのです。それでも、自分がゲイだという自意識がなかったのです。無意識でした。
雑誌を拾って、初めて自分が「ゲイ」というカテゴリーの中の人間なんだという事を自覚したのです。無意識のままでも、時が来れば自覚する時は来るのかも知れませんし、僕にとってこの「目覚め」が良かったのか悪かったのかはわかりません。
拾った雑誌は、僕にとって刺激的なものでした。
思春期である僕にとって、やはり男性のヌードグラビアは一番のお気に入りでしたし、他にも刺激的な内容の小説や漫画が掲載されていて、僕は大いに満足していました。当時は性欲の満足がすべてだったのかもしれません。他にもためになる読み物や、出会いのための文通コーナーなど、読み応えのあるものでした。
高校に入学後、本格的にゲイの世界に足を踏み入れるかと思いきや、その後三年間、僕のゲイライフは何も進展しませんでした。
当時は、「ゲイ」といえば、「気持ち悪い」「女みたい」「オカマ」「人に言えない」といった侮蔑的でしか表現されていなかった時代でした。当然、僕自身のなかにもそういったイメージが幼いころから刷り込まれているわけです。
自覚してなかった頃は深く考えて傷つくことなどなかったのに、自覚してしまったために、
ゲイであることを自覚しながらも、心の中では「ゲイはおかしい」「僕はゲイじゃない」という矛盾した葛藤があったのです。女の子に興味があるふりもしました。そのうち本当に好きになるかもと思ったりもしていました。そのくせクラスメートの男の子を眼で追ったりしていました。今だけだ。治るだろう。そう思い続けていました。
今思えば、「自分がゲイであること」を心のどこかで認めたくなかったのでしょう。
幼いころから「オカマ」「オカマ」と侮蔑の意味でからかわれていたことが、どこかトラウマになっていたのかもしれません。
そんな、自分の気持ちとの戦いだけの高校3年間でした。葛藤していたわけですから、ゲイライフが進展するはずもなく、自分で自分を否定したり、精神的に苦しい時期でした。
それでも高校を卒業するころになると、いつのまにか考えも変わっていました。
女性で興奮しようとしても、それはもうずっと昔から不可能でした。
とりあえずの問題は、何より、唯一持っていたゲイ雑誌に飽きていたのです。もっとゲイの情報を得たい、知りたいのに、一般のメディアでは、好奇的な意味以外では取り上げられることがほとんどない時代でした。新しい雑誌が欲しかったし、違う形でも情報が得たかったのです。
高校時代は心を許せる友人が皆無でした。「オカマ」とからかわれて傷つきたくないために、人と本音で話せなくなっていました。寡黙に、クールな人間を気取っていました。女の子を好きなふりをして、必要以上に「男」ぶるのも疲れていました。高校生の男子が集まれば、決まって「女子」の話になります。興味無い話に合わせるのも苦痛になっていました。何より、本音で話したかったのです。
クラスの○○くんかっこいいね、男性俳優の○○、大好き
こんな風に、自分が本当に思っていることをそのまま話せる相手がいたら、楽しいだろうな、と、そのころの僕は思い始めていました。
それが、「同じゲイである友人を作りたい」という考えにたどり着くのも時間の問題だったのです。
この頃になると、「自分がゲイである事」を前提として、物事を考えるようになれたのです。
簡単に言うなら、「吹っ切れた」のでしょう。一時は自分で自分を否定していたくらいなのに、なぜ吹っ切れたかといっても答えが出ません。あえて言うなら、時間が必要だったのかもしれません。
「吹っ切れた」僕は、まず新しいゲイ雑誌を購入しようと思いました。
三年前に拾った雑誌、非常に分厚いのにはちゃんと意味があって、後半四分の一ほどは広告なのです。大会社の広告などは雑誌の性質上、掲載がむずかしいためだと思われるのですが、安い広告料で全国各地のゲイに関連する店などの広告を大量に載せているのです。
スナック、バラエティーショップなど、全国のゲイ関連の広告は、ちょっとした「ガイドブック」の代わりにも使えそうです。
スナックの広告を眺めていると、「一人でも気楽に」「友達作ろう」といった宣伝文句が目立ちます。店のニーズに合わせた文面も同じく目立ちました。
僕と同じ様に、友達が欲しいと思っている人がたくさんいるのでしょう。
一般社会ではなかなかむずかしい上に、絶対的人数が少ない。だからこそ新宿二丁目のような町ができたのかも知れません。
僕は、新しいゲイ雑誌を購入するとともに、ゲイスナックにも行ってみようと決意しました。とにかく、自分じゃないゲイと出会いたい、話してみたい、それがすべてでした。そこから自分の人生がなにか変わるのではないか、と思っていました。
決意した瞬間から変に緊張していました。
歩いていても電車に乗ってもそのことばかり考えていました。
無視されないだろうか、値段はいくらぐらいだろうか、昔みたいに馬鹿にされないだろうか、
・・・あまり考えすぎてもしかたないな、と考え疲れて思うのですが、そう思った矢先にまた考えているのです。
僕にとっては、非常に勇気のいる決意でした。
決意を行動に移したのは、春が半分過ぎた頃です。高校を卒業後にはじめたコンビニのアルバイトの、初めての給料が出た後の週末でした。