始まり
丈の長い笹原の中をひた走る男達がいた。
彼らは奇妙な形をした弓を携え、鹿のような獣を追っている。男達の背よりやや高い笹が顔面や体を容赦なく打っているが、それに構うことなく走り続けている。
突如、先頭を走っていた禿頭の男が足を止め、弓を高々と揚げて、空で円を描いた。
「回り込んで囲め! 俺が射るまで、何もするなよ!」
その声が大気を震わせ、少しの余韻も待たずに、男たちは獣を囲むようにして散っていった。そして禿頭の男は肩で息をしながら、矢の羽中節と弓弦を掴み、徐々に引いていった。
一呼吸、二呼吸、三呼吸目でついに矢を射った。
矢が空を切り裂く音とともに、獣の断末魔の鳴き声が聞こえ、周りを取り囲んでいた男の一人がすかさず二射目を射った。
男達は硬直し、辺りには荒く息を吐く音と、野鳥の囀りのみがこだましていたが、ややあって、背の高い男が「急所だ! 二射とも急所に当たってる!」とはつらつとした声で言った。
それを聞いた男達は大きく息を吐き、やっと顔をほころばせた。
「かなりの大物だから、ここで解体してくぞ」
禿頭の男が大鹿の喉元に、一瞬の迷いもなくナイフを突き立てると、そこから鮮血が噴き出し、血だまりからは湯気が立ち上っている。
「エジル、こっちに来て解体を手伝え」
「えっ、嫌だよ面倒くさい」
「だめだ! お前はもう立派な成人なんだ。これくらいは出来るようになれ!」
禿頭の男の勢いに負け、エジルと呼ばれた成年が一歩前に出た。
若干声に幼さが残ってはいるが、目鼻立ちがはっきりしていて、かなりの美男だ。
「ほら、肛門にナイフを突き刺して、ここをこうするんだ」
「わかってるよ……」
エジルは渋々ナイフを受け取って、言われた通りに解体していき、一時間程で大鹿は運び易い大きさの肉塊になった。そして男達は帰路についたが、一人、エジルだけはその場に残り、どこか遠い地平線を眺めていた。
「おい、エジル。帰るぞ」
背の高い男にそう促されて、エジルも帰路についた。
〇
男達が村に着くころには日は沈みかけ、辺りの木々や草花は夕日に照らされて蜜色に染まっていてた。
村と言っても規模は小さく、簡素な木造の平屋が数十棟あるだけで、通りも舗装されているわけではない。
「男衆が帰ってきたよ」
女の歓声が聞こえたかと思うと、男達の周りに人が大勢集まり、あっという間に取り囲んでいた。
「ジンさん、今日は大物ですね! よかったよかった」
「またジンさんが仕留められたのですか?」
「エジル坊はしっかりやったかい?」
「いつも助かるよ、ジンさん!」
ジンと呼ばれた禿頭の男は、やや頬を赤くして「俺の手柄じゃねえよ。あいつらが頑張ってくれたお陰だよ」と控えめに言っているが、おそらく嬉しいのだろう、その恵比須顔から笑みが消えることはなかった。
しばらく雑談を交わした男達は、それぞれ散っていき、それに倣うように村人達も徐々に散っていった。
「エジルー。おかえりなさい」
一人そこに残ったエジルは、誰かに呼び掛けられ、はっと振り返った。
そこには白い衣を着た髪の長い女が爪立っていた。
「ああ……たっ、ただいま」
「なによ、気の抜けた返事しちゃって」
「なんだよ、悪いか」
「別になんにも悪くないけどさー」
その女の嫣然とした佇まいに魅了されたのか、エジルは頬を赤らめて背を向けた。
無理もない、なぜなら透き通るような白い肌に漆黒の瞳が映え、笑うと口元から八重歯がこぼれ、さらに女の面立ちは均整のとれた美人だったからだ。
「なあ、ユウ……。いや、魔が差した。今のは忘れてくれ」
「えー、何よそれ。気になるじゃない、ちゃんと言いなさいよ」
「なんでもないって」
「ちゃんと言って」
「だからなんでもないって!」
エジルは声を荒げたが、すぐ冷静になって言葉を継いだ。
「ごめん。悪かったよ」
「いいや、私の方こそ悪かったよ。もお、余計な詮索はしない」
「ああ、助かるよ」
二人はしばらく沈黙していたが、背の高い男の「おーい! 夕食の支度ができたから、二人とも早く家に入りなさい」という言葉に促され、帰宅することにした。
エジルとユウ、そして背の高い男との関係性はどの様なものなのか、おそらくそれは、いずれ分かるだろう。
〇
「なあ、二人とも、喧嘩でもしたのか?」
背の高い男が顎に生えた無精髭を触りながら二人に訊いた。しかしこの男、風貌がどことなくエジルに似ている。少し切れ長な目や唇の形、肌の色まで同じだ。だが、ユウは似ていない。エジルにも背の高い男にも。
「喧嘩なんかしてないよ。なあ、ユウ……」
「うん……」
うつ向いたままそう答えた二人を、背の高い男は訝しげな表情で見つめていたが、しばらくして立ち上がり「やれやれ」と首を横に振りながら、食器を台所の方へ持っていった。
「喧嘩するのはいいけどなぁ。仲直りは……早くした方がいいぞ。これは教訓だ。お父さんのな」
背の高い男は言葉を区切り区切り、絞り出して言った。とても、寂しげな表情で。