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美空  作者: 広越 遼
3/3

ささやかな月

三話目は恋愛です。一話目とは少しつながっています。






  これはほんのささやかな月のお話し。


  水辺に浮かぶ月よりもささやかで、


  次の日にはもう、見えなくなるほど。




 星を見ていると、ふいに朔哉の声が聞こえた。

「やあ、来ていたんだね」

 やわらかくて冷たい声だ。

「来てたじゃないわよ。知ってたくせに」

 美空は口をとがらせて言う。

 こんな時間にお墓参りもないと思うが、それはいつものことなので、特に感慨はない。

 新月の夜、市営の共同墓地に美空と朔哉はいた。広い墓地だ。市営なので掃除が行き届いている。もう日付が変わろうという時間なので、人影は二人だけ。

 新月なので、空に月はない。墓地には電灯もまばらなので、星がそれぞれ最大限に自己主張をしている。

 綺麗な星の夜。

 そんな言葉がぴったり合うが、二人の雰囲気には、そのようなロマンティシズムはない。

 星明かりの中で見つめ合う二人には、非常に静かな沈黙が流れている。

 ため息を一つ。朔哉は自分の墓石に腰を掛け、足を組んで美空の言葉を待つ。

 長い沈黙は、気遣い症の美空には苦痛だった。

 いつもこんなとき朔哉は意地悪で、自分からは決して話そうとしない。五年前、初めて会ったときから変わらない。

 今日は美空も意地を張って黙った。そして朔哉との出会いから今までを、心の中で反芻し始めた。


「ねぇ、名前教えて」

 そもそも最初から、朔哉は変わっていた。

 高校入学式の日朝早く、一番乗りでどきどきしながら校門をくぐったとき、突然、美空は声をかけられた。美空ももちろん年頃で、恋に憧れを持っていたので、背中からのやわらかで耳に心地いい声に期待をした。

 それと同時に、ナンパ男に絡まれたらイヤだと考えた。

 振り向いた先にいたのは、細身で背の高い青年だった。整髪料の付いていない髪は、短めで、自然に頭を飾っている。少なくともナンパ男には見えない。

 取り立ててカッコいい顔ではない。けど、不快感を一切感じさせない人だった。目だけは少し印象的で、深い茶色なのに、黒ではないとはっきり言える、そんな色合いの瞳をしていた。

 なにを思って声をかけたのか、彼は不思議そうに首を傾げてこちらを見ている。

「美空だけど、なに?」

 美空はあえて苗字は言わず、名前だけを伝えた。

「そう。ありがとう」

 肩透かしとはまさにこの事で、彼はたったのそれだけ言うと行ってしまった。

 年齢は自分より上だろう。ラフな私服だったし、大学生だったんじゃないだろうか。

 美空は彼の姿勢のいい背を見送りながら、なんとなく、朝の似合わない人だと思った。


 彼を次に見たのは、高校にも慣れはじめ、新しい友達と喫茶店に入った時だった。

 喫茶店はジャズの好きなオーナーが経営していた。いわゆるジャズ喫茶だ。といっても通りに面した明るい店で、女子高生でも入りやすい所だった。美空と友達の他にも、二組の高校生がいた。

 普段店ではジャズやジャズテイストのラウンジミュージックを掛けていたが、その日は掛けていなかった。珍しいと美空は友達と話したが、程なくしてその理由が分かった。

 一人の男性が立ち上がり、店の隅にあるジャズピアノの前に移動する。

「moon & moon」

 男性が静かに言うと、甘い音でピアノが鳴り始めた。

 あっ、あの人。

 美空は心の中でつぶやく。

 彼の体がリズムに合わせてゆったり揺れると、整髪料の付いていない髪がさらさらと揺れた。

 ピアノは店内のおしゃべりを邪魔しないような、ささやかな音量で鳴っている。リズムの遅い、複雑な調べの曲だ。美空の知らない曲だった。

 その音は一音一音が研ぎ澄まされていて、ほんの少し気を散らすと、バラバラと崩れてしまいそうな繊細な音だった。

「美空気に入ったの?」

 友達が話しかけるまで、美空は自分が魅入っていたことにも気付いていなかった。それほど集中していたのだ。

「あ、ごめん。ほったらかしちゃった。きれいなピアノだよね」

 美空が少し興奮気味に言うと、友達はニヤニヤと笑って、

「違うよ。あの弾き手が気に入ったのって」

 と、からかってきた。

「そんな! 一度や二度会っただけで気に入るわけないじゃない。ただ単純にピアノがきれいだって思っただけよ」

 自分でもなぜそこまで強く弁解したのか分からない。思えば、このときが恋の落ち始めだったのかもしれない。とにかく美空は、それから一時間は友達にからかわれ続けた。


「やあ、美空」

 普通に話しかけてきたのには本当に驚いた。

 喫茶店で彼を見かけてから数日後、また別の友達と下校をしているときに、後ろから突然声をかけられた。

「今日は学校どうだった?」

 全く意味が分からない。どこがどうおかしいかを説明する気にもなれないほど、おかしい。今までの会話の総時間は三十秒程度。それなのに「今日は学校どうだった?」なんて、まるでいつも訊いてる台詞みたいに。

「どうってことないわよ。そろそろ部活を決めるつもり」

 ここで何か驚いて見せたり、常識を説いて見せるのは負けな気がして、美空は普通に会話に応じた。

「そうなんだ。ふーん。あ、それならスキー・スノーボード部はやめた方がいいと思うよ」

「そうなの? なんで?」

「さあ。それは教えないけど、信じて」

 ほとんど面識のない人の話をどう信じればいいのかは分からなかったが、なんとなく説得力があったので、美空は頷いた。本当を言うと、身長が関係ない部活を選ぼうと思っていたので、スキー・スノーボード部は候補にあった。

 なので理由が気になって、彼のことを見ていたのだが、それから彼は別れの言葉も告げず、すぐの交差点で曲がって行ってしまった。後ろ手でひらひら手を振っている。

「誰? 今の人。美空の彼氏?」

 静観していた友達が訊いてくる。

「うーん、彼氏じゃないよ。なんとも説明しづらいわね」

 説明できる要素があまりにもないので、美空はそう濁して答えた。


 美空は小学五年生の時から背が伸びてない。目も大きいせいで、ちょっと見ただけでは高校生には見えない。中学校のときはそれがコンプレックスだったが、この頃では諦めもついてきている。

 部活は軽音部に入った。恥ずかしがり屋の友達がギターを弾くと言うので、美空がボーカルで誘われたのだ。友達は美空が話しやすいから誘っただけで、特に美空の歌がうまいというわけではない。

「美空ちゃん一緒に軽音部やらない? 私ギター好きなんだけど、ちょっと軽音部の人恐いから、一緒にやってくれたらうれしいな」

「そうよね。私もちょっと恐い。でも一緒にならいいかな」

 美空は特にやりたいこともなかったので、二つ返事で了承した。それに軽音部なら身長が問題にはならないだろうと思った。

 ただ二人とも特に向上心があるわけではないので、練習時間は半分以上おしゃべりの時間になった。

 軽音部は人気が高く、人数が多い。そのため音楽室や視聴覚室がすぐに予約でいっぱいになる。だから美空たちのような少人数で楽器も持ち運びやすいグループは、良く外で練習をしている。

 美空は友達と近くの公園で練習をしていた。

 ベンチに隣同士で腰を掛け、ギターがぽろぽろ鳴る音に合わせて、美空は細い声で歌う。

 別れの歌だった。

 しかしそこには、美空の心は映し出されていなかった。


 ある日、友達よりも早く公園に着いたとき、彼はいた。いつも練習しているベンチに、ぼーっとした表情で腰を掛けていたのだ。美空が近付いてきたのにも反応がない。

「美空! お待たせ」

 友達が駆け足で近付いてくる。彼女はすぐにギターケースを開けてギターを取り出す。

「ここで練習するの? 向こうのベンチに行かない?」

 恥ずかしがり屋の彼女が、人前で練習しようというのは意外だった。本来なら美空も構わないのだが、彼の前で歌うのはあまりにも恥ずかしいと思ったので、公園の反対側のベンチを指差した。

「そう? 別にいいよ」

 友達は言うと、ギターを仕舞いなおした。

 そそくさとその場所を離れた美空は、一度だけ彼の方を振り返った。彼もこっちを見ているようだった。少し離れていたので、表情までは分からなかったが、急に恥ずかしくなって、美空はすぐに目線を外した。


 三度しか会っていないのに、訊きたい事は多くあった。そもそもどの時も、ほとんどまともな会話をしていないのだ。

 名前ぐらいは聞いておきたい。

 そんなことを思いながら、町を歩くときに美空は、ついつい彼のことを探すようになった。

 あの喫茶店にもその後何度も顔を出したが、彼は一度も現れなかった。

 そうこうする内二ヶ月が過ぎて、夏休みに入った。

 さすがにそのころには、彼のことも忘れかけていた。

 ところが、お盆なのでお墓参りに行くと、そこでまた、たまたま彼に出会った。

「やあ」

 こともなげに声をかけてくる彼に、美空はため息を吐いた。

 一緒に来た母親は、住職に挨拶をしてくると言ってお寺の中に入っていった。おそらく話し込んで数十分は出てこない気だ。

「丁度よかった。暇になりそうだったのよ」

「お墓で暇するの?」

「そうよ」

 美空はそっけない口調で答えた。謎めいたところのある彼に、対抗したいと思ったのだ。

「あなた、そういえば名前を言ってないわ。なんて言うの?」

 普段友達の前では使わない口調だ。どちらかといえばそれが美空の素だったが、自然に出てくることが不思議だった。

「僕は朔哉」

 いつかの美空と同じように、彼も苗字を言わず、下の名だけ告げた。

 それを聞くと、美空は次から次へ質問が沸き起こってきた。

 なぜ私に声をかけたのか。

 歳は?

 ピアノはよく弾くのか。

 スキー・スノーボード部が何なのか。

 連絡先は?

 学生なのか。

 なぜここにいるのか。

 ……。

 しかし美空は、そのどれも言葉には出さなかった。

「あなた、昼も似合わないわね」

 美空の突拍子もない発言に、彼は少し驚いたような顔を向けてくる。

「そうかな? 自分ではよく分からないけど」

 とぼけたように、彼は言う。その声にどこか冷たいものが混じっている気がして、美空は内心少し慌てた。

 何かまずいことを言っただろうか?

 それともまた、気の遣い過ぎだろうか?

 そうも思ったが、それ以上下手なことを言ってしまうのが恐かったので、口を閉ざして彼からの言葉を待った。しばらく沈黙が続いた。暇をしているよりよっぽど辛い沈黙だった。しかし、待てど暮らせど彼は何も言わない。

「朔哉は彼女いるの?」

 沈黙にたまりかね、美空は訊いた。しかし、訊いた内容には自分自身驚いた。訊くつもりもなかったことだし、名前を呼び捨てにしてしまった。なんとなく、彼の前だとペースが乱れる。

 そして朔哉は意地悪く笑むと、

「美空、僕と付き合ってみる?」

 そう言ってきた。

 付き合ってみる?

 冗談じゃない。

 あの気まずい沈黙の後に出る言葉じゃない。というより、会って四回目だし、第一さっきの意地悪い笑みは、確実に私が焦るのを楽しんでる顔じゃない。

 そう思うと美空はだんだん腹が立ってきた。そしてそれがそのまま自分の負けなんだと気がついた。

「だめ。私やっぱりあなたから見れば普通すぎるわ」

 朔哉は少し肩を落として、苦笑いをした。見るからに気を落とした風だ。

 何に気を落としたのか、美空は少しの間分からなかったが、付き合ってみる、と訊かれ、だめと言ったのだ。

 まさか真剣に言っていたのか。

 だがその気を落とした様子も朔哉の誘いだったのかもしれない。能ある鷹は爪を隠す。美空の闘志が、その苦笑いに釣られてまた膨らんでくる。

「まあ、付き合うことに抵抗はないけどね」

 ここで朔哉が喜んだ顔の一つでもすれば、美空は大いに満足する予定だった。

 しかし朔哉は、小さな余裕の笑みを見せると、それっきりそのことには触れてこなかった。

「美空の家のお墓はどの辺?」

 肩透かしを食らったことにもまだ理解が及んでいない美空は、正直に家の墓石に指をさす。

 朔哉はその前まで行くと、しゃがんで手を合わせた。


 家に帰って、夜ベッドに入ると、美空はまんじりともせず、何度も何度も寝返りを打った。

 今日のあれが何だったのかを考えた。全く意味が分からない。なによりも、連絡先を聞いていないし。

 もしかしたらもうこのまま会わないかもしれない。そう思うと少し残念な気もしたが、かといって何かできることがあるわけでもない。

 過去最大級の深いため息を吐き出した。

 部屋中がため息で埋め尽くされるほど、何度も何度も。


 取り越し苦労だった。次に会ったのは、その三日後の夜だった。

「共感しましょ」

 美空は、そう言って幻のように現れたお面に誘われて、公園に来ていた。一通り愚痴を言い切ると、幻のようにお面は消えた。

 そのあとだった。

 ベンチに座り、愚痴を言いきった脱力感に、そのままそこで休もうと考えていた。

 その日は新月の一歩手前。細い月が空に薄い明るさを与えていた。

「千客万来ね」

 いつの間にかそばまで来ていた朔哉に、美空はそんな冗談を言う。お面は多分幻だから、他の人には見えないのだろうと思っていた。

「そうだね。お邪魔だったかな?」

 しかし朔哉はお面が消えたあたりを眺めながら、そんなことを言ってくる。

 共感屋が見えていたのだろうか。

 いや、美空がそこに向かって話しかけていたからだろうか。

「ううん。別に。邪魔じゃないわ」

 ベンチの隣を空けてやると、素直に彼は隣に座った。

「なら良かった」

「ねえ、今の見えてたの?」

 美空は朔哉に訊いてみたが、朔哉は何も応えない。どっちなのだろうか。

「そういえば、私、朔哉の連絡先も聞いてないじゃない。どうやって連絡を取ろうか悩んでたのよ」

 美空は諦めて話題を変えた。言いながら、携帯電話を取り出そうとする。

「そう」

 だが朔哉はそう言ったきり、何も言っては来なかった。今までで一番、朔哉の声が冷たく聞こえた。美空は無駄に打ちひしがれてしまい、二の句が接げない。

 沈黙が続いた。

 大分時間が経って、少しショックが和らいでくる。恐る恐る朔哉のほうに目を向ける。

 美空は朔哉を見て、夜の似合う人だと思った。

「ねえ、何か話して」

 美空は言った。

「美空は」

 つぶやくように朔哉が応える。

「青空みたいな人だよね」

 よく意味の分からない発言だった。しかし朔哉は、真剣に美空の目を見て言ってきた。夜なのに彼の目は、黒でないとはっきり言える、独特な色合いだった。

 美空の胸は、よく分からないまま少し高鳴った。

 どくんと、静かな夜の公園に音が響いた気がした。

「ほめてるの?」

 美空の問いに、朔哉は頷く。紳士的な目で、恥じることなく、頷く。

「そう」

 今度は美空がそっけなく言う。それ以外に何か言うと、思い通りの声が出せない気がした。

 そして極々自然に、美空のファーストキスが終わった。

 朔哉が何も聞かず、顔を近づけてきたので、何も言わずに目を閉じた。そうしたら、唇が触れたのだ。ただそれだけだった。

 ただそれだけなのに、この感情は何なのだろう。


 次に彼に会ったのは、その次の日だった。

 朔哉が昨日、市営の墓地に来てくれと言ったのだ。

 時間は夜の十時を指定された。家からそう遠くないので、母親に嘘をついて家を出て、歩いてきた。

 月のない夜なので、とても暗い。しかし、朔哉のことはすぐ見つけられた。

 暗い墓地にあって、彼の姿は、淡く白い光を放っているように見えた。

 彼は美空に気付くと、右手で小さく手招きをした。

「待ってたよ」

「そう。遅かった?」

 そっけなく言ってみた。あろうことか彼は頷く。

 深いため息。

 こういう人だろうとはすでに分かっていた。

「それで、こんな夜中に呼び出して、どうしたの?」

 美空の問いに、朔哉は答えない。ただ黙って空を見ている。

 彼の見上げる空に、月はないのに。

 なぜそう思ったのかは知らない。美空は思い返してみたが、美空の中に答えはなかった。ただ、それが不自然だとも思わなかった。

 朔哉は並んだ墓石の一つに腰を降ろした。ごく自然にそうしたが、さすがにそれは美空も咎めた。

「墓石の上に座るのはどうかと思う」

 朔哉は美空に笑顔を向けるだけで、動こうとはしない。

「僕さ、二年くらい前から行方不明なんだ」

 変わりに吐き出された言葉には、美空は疑問符しか浮かばない。

「頭悪いの?」

「はは。辛らつだね」

 朔哉は続ける。

「僕は、ちゃんと高校にも通ってたし、家にも帰ってた。だけど、僕の家族は僕が見えなくなったんだ。何でかは知らない。弟と両親はしっかり認識しあっているのに、僕だけは認識されない。それなのに、大学入学の手続きとかはしてくれるんだ」

 よく分からない朔哉の話しに、美空はどう答えていいか分からなかった。

「家族が変になったと思った。だけどまあそのうち治ると思って、放っておいた」

 とんでもないことを言う。放っておいたって。よくは分からないが、自分の親がもしそうなったら、八方手を尽くすと思う。でも、朔哉ならそうかもしれないと、美空は自分を納得させた。

「そんなに長い付き合いじゃないけど、朔哉らしいわ」

「まあ、認識してくれないんじゃどうしようもないし、周りにも相談しづらかったから。そうこうする内、大学入学の日になった。その日ぼーっとしながら歩いてたら、美空に会った」

「ちょっと待ってよ。うちの高校の近くに、大学なんてないじゃない」

 そこまで言って、美空は気付いた。朔哉は通いなれた通学路を、間違えて無意識に歩いてきてしまったのだ。

「意外と間抜けなのね」

 朔哉は苦笑いをして、話を戻した。

「それから大学に向かうと、僕の居場所はもうなかった。遅刻したからとかじゃなく、大学側に僕の死亡通知が届けられていたんだ。さすがに両親に腹が立って家に帰ると、僕のお通夜が開かれていた。母さんは、本当に悲しそうに泣いていた」

 大分笑えない話になってきた。彼の目は真剣そのものだ。

「冗談じゃないわ。そんなのある訳ないじゃない。そのお葬式に来てた人たちは?」

 その人たちなら朔哉のことが見えているはずだ。しかし、

「誰も僕を認識していなかった。卒業式の日まで笑い合ってた友達も、誰一人」

「それっておかしいわ」

 どこからおかしいのか、おかしいところが多すぎて説明できない。

「うん。そうだね。行き付けのジャズ喫茶でピアノを弾いても、昔からの知り合いは誰も僕に気付かなかった。家族がおかしくなったんだと思っていたけど、どうやらおかしいのは僕の方だったらしい」

「そういうおかしいじゃなくて」

「公園で美空が友達といたとき、僕はついに、本当に誰からも認識されなくなっていたんだ」

「え?」

 美空が付いて来ていないのに、彼は構わず話し続ける。進むにつれ、どんどんひどい話になってくる。

「誰からもって?」

「僕が話しかけても、みんな気付かない。触れても、何も感じていないかのよう。無理やり押したり、ひっぱたりしても、誰も意に介さないんだ」

「そんなのあるわけないじゃない」

 そう思いつつ、恥ずかしがり屋の友達が、平気で朔哉の前で練習を始めようとしたことを思い出す。

「それなのに美空は、僕に気付いていた」

 そしてまた沈黙。

 担がれているのだろうか? しかし朔哉の表情は、演技ではない諦念が表れている。

 月のない夜。星々は明るく輝いている。

 ここに朔哉はいるはずなのに、誰からも認識されない。その話が本当なら、朔哉はどうすればいいのだろう。私は何をしてあげられるのだろう。

 美空は朔哉を真剣な目で見つめた。

 朔哉はどうしてほしいのだろう。

 しかし朔哉は何も言っては来ない。

「透明人間みたいね」

「うーん」

 つまらないことを言ってしまった。朔哉は曖昧な相槌を打つ。

 美空が少し後悔していると、朔哉は楽しそうに笑い始めた。

「怒るわよ」

「はは、ごめんごめん」

 そんなやりとりのあと、また沈黙。

「もう女湯は覗いた?」

 今度のは朔哉も純粋に笑った。

「しまったな。それはまだだ。美空は今日もう入ったの?」

「ちょっと、私はちゃんと認識してるわ」

 朔哉はまだ楽しそうに笑っている。それは少しは救いになるのだろうか。

「あーあ。久しぶりに笑ったよ」

 彼はそう言って、少しためらうように黙った。そして、

 ねえ美空、月のような人とはこういう人のことをいうのだろうね。

 不思議な発言をする。しばらく考えてみたが、意味が分からない。美空は真顔に戻った朔哉を見つめる。

「どういうこと?」

「今日の新月みたいにさ、本当は確かにそこにあるのに、見えないんだ。だけど美空は明るいから、それに照らされれば見える。そんな感じ」

 意味は理解したが、美空には少し腑に落ちない例えだった。しかし、朔哉がそう思うなら、水を差すほどではない。

「まあなにが言いたかったかっていうと、」

 朔哉は唐突に話を切り替えた。今度はなにを言うのかと美空は構えた。

「自分のお墓になら腰を掛けてもいいんじゃない? ってこと」

 一瞬また意味が分からなかったが、今度はすぐに理解した。

「うーん」

 納得できそうで、納得できない気もする。

 朔哉の葬式をあげたというなら、お墓も用意されているのだろう。だから実際に生きている朔哉がそれに敬虔でないのは当然だ。

 つまり彼が腰を掛けている墓石は、彼自身のために用意されたものなのだろう。

 しかし、それはそう簡単に割り切れるものなのだろうか。

 彼は自分の墓地を、努めてないがしろにしたいのではないか。

 そう思ったが、とりあえず朔哉が明るそうなのには安心した。

 朔哉は自分の墓石から降りると、静かに美空に歩み寄ってきた。そして抱擁をしてくる。彼の顔と同じように、不快感は全くなかった。しばらく包み込まれていたい。

 しかし朔哉は、すぐに美空から離れてしまう。離れると、心なしか、先ほどよりも夜を深く感じる。

「あんな話をしたあとじゃ、フェアじゃないよね」

 朔哉は言った。

「もっともね」

 そう言って美空は、朔哉の両肩に手を掛け、彼の胸に顔をうずめた。

 そっと背中に腕が回された。

 そっと、ささやかに、彼の腕に力がこもるのが分かった。


「もう会わなくてもいいんだよ」

 朔哉が言った。本当に珍しく、朔哉が怯えたような声を出した。

 勝った。

 それに対して美空は、内心そう呟いた。

 馬鹿馬鹿しい対抗意識で朔哉との出会いからを思い返して、ずっと沈黙を保った。三十分は黙り続けた。そしたら、朔哉の方が根負けをしたのだ。

 美空は朔哉を見て、できるだけ不敵に見えるように笑んだ。

 朔哉はそれを見て安心したような顔をした。完全勝利だ。

「まったく、くだらないわね」

 美空は自嘲する。

 あれからもう五年の月日が流れた。美空は東京の大学に入り、それなりに学生生活を楽しんでいる。

 しかし、新月に朔哉のお墓参りをする習慣は続けていた。

 月に一度なのは、朔哉がそれを望んだためだ。

 朔哉が言うには、同情で無理を強いたくない。月に一度くらい会ってくれるのがいい。ということだった。

 美空はよく考えた上で、それに同意した。

「くだらないよね。本当に、僕はくだらない人間なんだと思う」

「なにそれ? ただの冗談じゃない」

 くだらないと自嘲した美空に、朔哉はまじめな顔で言ってきた。

 こういう後ろ向きな発言は、聞いてて快くはない。

「美空も毎月大変だろうと思ってさ。僕なら割と一人でも楽しくやってるよ。だからもう、美空も来なくてもいいよ」

 朔哉は暗い言葉とは裏腹に、挑戦的な態度だった。

「さようなら」

 美空は自分の体が弾け飛んだような錯覚を起こした。「さようなら」の一言が、それ程に恐く思えた。何か言い返そうかと考えたが、直感的に怒るべきではないと感じた。

 美空は目を閉じて黙った。よく考えるべきだ。

 目を閉じると、月のない夜は本当に真っ暗だった。

 夏の夜は音に満ち溢れている。虫や野鳥の声に、美空と朔哉は包まれていた。

 朔哉と一緒にいるのは好きだ。だから、月に一度戻ってくることも嫌なわけない。でも、大変でもある。客観的に見れば、自分が犠牲にしているものはあると思う。

 不意に分かった。どうして怒るべきではないのか。

 朔哉の言っていた内容に怒ることは、傲慢なのだ。

 ここで怒ってしまうと、まるで朔哉に同情して会ってやっている。そういう風になってしまうのだ。

 打ちひしがれるだけでいいのだ。

 彼の言葉に傷付くだけでいい。

 美空は少し心を落ち着かせた。そうして、どうして朔哉がこんな攻撃的な態度を取っているのだろうと思った。

 目を開けて朔哉を見ると、朔哉はじっと美空を見据えていた。

 言葉よりも一つ、確実な方法があった。美空は朔哉の胸に身を寄せた。朔哉も背に手を回してくれる。

 こうしていると、長い沈黙も気まずくはない。

 目を閉じると、夏の夜の音が大きくなった気がした。夏なので少し暑いが、離れたいとは思わなかった。

 朔哉の回す腕は、いつもよりも強く、少し苦しかった。癖になりそうな苦しさだった。

 ずいぶん長くそうしていたが、不意に朔哉の体温が消えた気がして、

「朔哉はこの街好き?」

 離れるとすぐ美空は訊いた。朔哉は目の前にいて、迷っているようだったが、やがて頷く。

「嫌な思い出の方が最近は多いけどね」

 珍しく朔哉は自分の気持ちを吐露した。

 当然のことながら、やはり彼も今の状況はやりきれないのだろう。先ほどのあれは、さしずめ八つ当たりだろうか。

「だけど、どうして?」

 茶色い瞳が問いかけてくる。真剣な目だ。

 それに対して美空は、いたずらっぽい瞳を合わせた。

「私、透明人間がそばにいたら便利だと思うの」

 プロポーズと言えば、そう言えなくもない。一緒に暮らそうと素直に言うのはいやだった。




  これはほんのささやかな月のお話し。


  水辺に浮かぶ月よりもささやかで、


  次の日にはもう、見えなくなるほど。


 そのとき朔哉は子供のように喜んだ。

 笑い合ったことは何度もあったが、あんなに喜んでいるのを見るのは、思えば初めてだった。

 自分が朔哉にとってどれほど重要な存在だったのかを、ようやく知った。

 美空は白い幻を見た。その幻は真っ白なのに、明滅していることが分かった。幻は蛍のようにふわふわと舞い、突然、美空をめがけて飛び込んできた。

 朔哉に愛されている。その確かな実感が、幻となって顕れたのだ。

 美空はその瞬間、私が世界一の幸せ者、少なくともその内の一人だと、感じた。


 そのちょうど一年後の新月の夜。いつものように一通の手紙が届いた。部屋はもう足の踏み場がないくらいに散らかっているので、枕元にそっと置かれていた。

 最近では、手紙を見つけることも困難になってきている。手紙には何か文字が書かれているが、相当意識しないと読むことができない。

 それにはたったの五文字しか書かれていなかった。ベッドに寝転びながら、それを何とか読みきると、美空は部屋の中を見渡した。

「そろそろ片付けなきゃね」

「そうですね」

 いつの間にそこにいたのか、お面が相槌を打った。

「今日はごめんね。何も話す気になれない」

「いいえいえ、お気になさらず。私はここで黙っています」

 お面は言った。美空が言葉を発しなくても、共感はしてくれているようで、声は沈んだ響きだった。

 言ってはみたが、片付けをする気になどなろうはずもない。

 共感屋のお面が涙で濡れていた。

「泣き虫ね」

 無責任な発言に、それでも共感を示してくれる。

「そうですね。それは全くおっしゃる通り」

 美空は目をきつく瞑って仰向けになる。

「彼が決めたことだもの、仕方ないわ」

 美空はつぶやくが、共感屋は今度は応えない。いつの間にか消えてしまっていたようだ。

 そのとき、美空の唇に暖かいものが触れた。

 美空ははっと目を開けた。

 錯覚ではない。確かに触れた。

 散らかった部屋。唯一片付いているベッドの上で美空は身を起こす。

 部屋を見渡す。

 古いアパートメントの小さな部屋。

「そろそろ片付けなきゃね」

 再び美空はつぶやいた。今度は共感をしてくれるお面もいない。

今度投稿予定の作品の練習のため、昔書いた三作を実験で投稿しました。どれも完成度が低く、お目汚しで申し訳ございません。

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