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古い古い杉の大樹は、森神の衣の裾のように枝葉を広げ、三人の母娘を足元に宿す。まだ若い母親の手を、姉娘が握った。
──母さまも、一人きりだとさびしいの?
──もちろんよ。でも、おまえたちの歌が聞こえたら、そばにいるのと同じでしょう?
母親のふっくらした頬へ、妹娘がキスをした。
──母さま、すぐに戻ってくる?
──ええ、すぐに。だって、おまえたちの声が道しるべになるんだもの。
幼い姉妹は母によく似た愛らしい顔を見合わせる。肩まで垂らした三つ編みの髪を揺らして、声をそろえた。
──いいわ、歌ってあげる。
歌が聞こえた。
澄んだ旋律。ゆるやかで優しい声音が、たった一人、白金の塔にいる俺の耳元で静かに響く。
「……エディット」
空耳ではありえない。小さな鈴を振るより美しい彼女の声が、神々の御名を呼び讃える。限りある生を讃える。
ああ、これは、癒やしの歌──
癒やしの神の御業を現す歌だ。大切な誰かが怪我や病気をしたときに、治癒の力を借りるため、祈りを捧げる歌。
声は高くなり、また低くなり、子守歌のようだ。テーブルの上で燭台の炎がゆらりと揺れる。深閑とした塔の最上階まで、彼女の吐息が届いたように。
……でも、どうして?
唐突に、歌はやんだ。
まるで俺が、疑問を持ったことに対する罰だ。どんなに耳をすましても、彼女の声はもう聞こえない。俺の呼吸と鼓動以外、なんの気配もしなくなってしまった。
グレイがきているのかも、と思った。窓辺を見てまわる。日の落ちるまぎわ、西の空の家並みに近いところだけがほのかに朱を残す。魔法剣士の姿はない。
「カローロ?」
守護精霊を呼んでみる。今の俺は魔法を封じられている。カローロに魔力を送り伝える道は、閉ざされていると思っていた。
ふいに気づく。
太陽はしぼむように小さく小さくなってしまい、建物の向こうに、もうわずかな一点を残すのみ。
──西。
日の沈む方向。
つまり、右手が北だ。階段をのぼりきり、俺が魔法陣の内側に踏み込んだ方角。
『王の許しを得たものは北の地に』
楕円形の浅い溝は、魔法陣の真北にある。
『魔道の長らが許したものは、西の地に放たれる』
俺が西の窓辺へ駆け寄るあいだに、太陽は王都の街並みに沈んだ。──だが、あった。魔法陣の向こう、等間隔にならんで四つ。北側の楕円の溝よりずっと小さく形も異なるが、積もった埃の下に、くぼみらしきものが。
この溝は……?
落ちつこう。ゆっくり考えれば、なにか思いつけそうな気がする。俺は深呼吸をして、胸の動悸を抑えた。
明かりを手に、見落としがないか、床をはうようにして魔法陣を一周する。南側にも、東側にも、くぼみはない。あるのは北と、西だけだ。
次にグレイがきたときに話してみよう。俺は書棚の脇に積み上げた本の前へ戻った。どれも装丁が傷んで題名は読み取れない。一冊ずつ手に取って開き、明かりを差しつける。
──歌を歌って待っていて。
従者に託した言葉は、エディットまで届いた。
よく考えたら俺、変なことを言っちゃった……と、少々恥ずかしい。エディットも、なんの話かと思っただろう。でも、俺が頼んだから歌ってくれた。
どこで歌ったのかな。まさか、執事の暗黒の双眸や、秘書の眼鏡越しの冷たい視線が見守る中、長椅子で脚を組んだエディットが、居間で? いやいや、それはないでしょう。
きっと辺りを見回して、誰もいないのを確かめてから。こっそりと、小さな声で。
あるだけ全部のろうそくが燃え尽きてもかまわない。『王の許し』、『魔道の長らの許し』とはなんなのか、どうしても知りたい。
頼りない燭台の光の下で、俺はひたすら頁をめくる。
◆◇◆
グレイが窓辺に姿を現したのは、真夜中を過ぎてからだ。
『お休みだったらどうしようかと思いました』
昨晩と同じように、魔法剣士は用件を窓に書きつける。
『ザン将軍のほうを追いかけたら、レールケ伯爵の動きも見えてきたんです』
逮捕状に署名した騎士団の将官である。ドワーフおじさんと別邸の長サウロが騎士に化け、将軍の配下にまぎれ込んだ。侍女のバルバラも女官に扮して王宮へ潜入し、聞き込みを続けた。
ザン将軍は、武力派といってもいい人物なのだそうだ。魔法士が必要なのは王都の犯罪者対策だけではない。周囲の国々ににらみを利かせる意味でも、在野の魔法使いを雇い入れて魔法士部隊を復活させるべき──これが彼の、公式の場での主張である。性急に過ぎると異を唱える穏健な王弟とは、当然反りが合わない。
なのに将軍は、「王弟シベリウス殿下から、白金の塔の鍵を賜った」と周囲にもらしていたらしい。
『単純に塔の入口の鍵を指すのかもしれませんが、最上階の鍵もふくまれている可能性があります』
グレイの手は大きく動き、文字を綴ってみせる。──魔法使いでなくてもあつかえる鍵があるはずだ、とは、俺も考えていた。
将軍を、日ごろ付き合いのない王弟に引き合わせたのはレールケ伯爵ではないか、というのが、秘書のオーリーンの見解だ。
王弟は、どこまで知っているのか。レールケ伯爵がグレイを、ひいては俺を監禁するために白金の塔を使うと理解したうえで鍵を渡したのか。それともレールケ伯爵が王弟の名を騙り、独断で鍵を持ち出したのか。
『王の許しを得たものは北の地に、魔道の長らが許したものは、西の地に放たれる』──オドネルが見つけた古い記録である。『許し』とは、釈放されることだろう。そしてまた、『鍵』そのものを表すと考えてはどうか。王は最上階の鍵を持っている。王が許せば扉の鍵は開けられ、罪人は解き放たれる。
「グレイさん、こっちを見てください」
俺は彼を西の窓辺へ誘い、足元に明かりを近づける。『鮮血の輪』の北側には溝がひとつ、西側には四つの溝がある。もしかしてこれは、鍵穴では?
そう述べると、なるほど、と言うようにグレイもうなずいた。
『レールケ伯爵が鍵らしきものを持っている様子はありませんでしたか?』
問われて俺は首を振る。用心深い彼のことだ。魔法使いでなければ出られると知っていても、万が一にそなえて『鍵』を持参してきておかしくない。──けれど、ここへきたとき、彼が手にしていたのは、長剣がひとふりと、ランプだけだ。
「外套の下に隠していたならわかりませんが……」
鍵の形と大きさを想像する。この西側の四つのくぼみは小さい。鶏の卵程度だろうか。北側の溝は、もっと大きな楕円形。小指の爪が隠れるほどの深さもないと思う。こんな鍵穴にはめ込むとしたら、平らな円盤状の、そう、たとえば──
──あ。
思いついて、上着の胸ポケットを探る。丸くて平たい、金属の感触。結んである革ひもを引いて取り出す。オドネルからもらった、幸運の護符だ。
ほかでは見ない文様と、精霊の言葉を刻んだ小さなメダル。俺はカローロとの契約のとき、この護符を握り、『門』を開ける触媒にした。
夕暮れのあのとき、護符の作用で『門』が開き、わずかにでもカローロとのつながりが戻ったのではないか。それでカローロは、俺にエディットの声を聞かせてくれた。
「グレイさん、オドネルさんに、これに書かれている言葉の意味を訊いてもらってもいいでしょうか」
自分の家に代々伝わる幸運の護符だ、と、オドネルは言っていた。
この護符には、少なくとも『反発』の魔法に抗える力があるのではなかろうか。俺は窓に向かって小さなメダルを掲げてみせた。
「閉じたはずの『門』に、すきまができたんです。この護符のせいかもしれません」
『さっそく伺ってみます』
グレイは続きを書きながら首をひねった。
『ところで、門が開いたとお考えになったのは、どうしてまた?』
「え」
それは……
エディットの歌声が聞こえたから、ですけども……
ここはいさぎよく白状するべきか。いやしかし、エディットが俺のために歌ったことがばれてしまう。待てよ、みんなのことだ。とっくの昔に知っている可能性が高い。だが、形だけでも俺たち二人の秘密に……しておいてはだめだろうか。とはいえ、この局面である。悠長に秘密とか言ってる場合では……
『皆までおっしゃらずとも結構です。お察しいたします』
しどろもどろになる俺を見てなにを察したのか、グレイはきりりと眉を引き締める。
──時間が経つのがなんと遅く感じられることだろう。俺はまんじりともせず、朝日が昇るのを待った。
「忙しくなってきましたぞ、旦那さま」
昨夜に引き続き、ザン将軍の配下になりすました中年二人組が、えっちらおっちら鎧の音もにぎやかに、塔のてっぺんまでやってくる。誰もがおっくうがる俺の食事係を引き受けたから、ほかの騎士たちが大喜びなのだそうだ。
「おかげでわれわれが宿舎から離れようとすると、逃すまじとばかりに取りすがられましてな」
そう言って、サウロはじつに心地よさそうに笑う。
「ボリスはとうとう放してもらえず、明け方私一人で蒼の塔まで行ってまいりました」
夜通し骨牌に付き合わされたというドワーフおじさんは、いつにも増して憮然とした面持ちだ。
深夜の俺の疑問を、グレイがオドネルに伝えたのである。グレイはそのまま蒼の塔へ泊まり込み、サウロがこっそり訪ねたときには、天地がひっくり返るような騒ぎだったという。
あれはなかなか珍奇な人物ですなあ──と、別邸の長はえらく感慨深げな瞳になった。
「『おお! 宵闇の女王の腕より長い中指の爪にかけて! 混沌の海のただなかへ漕ぎ出したわれらにも、ついには夜明けが見えてきた!』などと飛び跳ねていましたよ」
サウロの言いっぷりがそっくりなので、俺はつい吹き出してしまう。ともあれ、王宮魔法士ジュリアン=オドネルが言うことには──
『いいかね、魔道の長らの許しとは、四家に伝えられたしるしだ! バルディビア家、ライト家、マンドルー家、アレーイ家──ローランドくん、きみは夜が明けたらただちにアレーイ伯爵家へ向かうんだ。今、紹介状を書く』
『は、はい! でも師匠、なにをしに伺うんですか?』
『むろん、しるしだとも! しるしを借り受けに行くんだよ! グレイくんはマンドルー伯爵家を頼む。バルディビア侯とライト侯は私が引き受ける。──そこのきみ! カイルくんにくれぐれも礼を伝えておいてくれたまえ!』
「──てな具合でしてね」
サウロは首を振った。「私も旦那さまのお食事の時間までには戻らにゃならんし、いったいなにがなんだか」
「オドネルさんは、僕にくれた護符のことを、なにか言っていましたか?」
「いいえ、さっぱり。しかし、ようするに『四家の長のしるし』とやらが『鍵』で、全部そろえば、ここの魔法の檻を開けられるって寸法らしいですな」
「…………」
「王弟殿下がお知りになるかもしれません」
ドワーフおじさんが、むっつりと口を開く。「果たして動きを見せるのか……」
オドネルの言う四家とは、おそらく昔は魔道士の長だった貴族の子孫たちだ。彼らに表立って働きかければ、王弟はもちろん、国王にも知られるかもしれない。特にこの白金の塔の鍵を、ザン将軍かレールケ伯爵に渡した王弟シベリウスが動くのか。反応次第では、彼が黒幕である可能性が、ぐんと上がる。
忠実な従者の口ぶりは頼もしい。
「われわれはこのまま、塔の見張りに加わります。いざというときは、必ずお守りしますので」
「はい、よろしくお願いします」
レールケ伯爵は俺を白金の塔に押し込め、裁きの場に連れ出すことなくエディットを呼び出した。内密にするということは、アセルス王国が国家を挙げてエレメントルート伯爵家の敵に回ったわけではない──と思いたい。
「結局これ、なんなのかなあ……?」
二人が去ったあと、俺はベッドに仰向けになった。結んであるひもをつまんで、目の前に護符をぶらさげる。小さく刻まれた精霊の言葉。次にオドネルに会ったら、忘れずに尋ねよう。
鈍い銀色のメダルを握りしめ、俺の守護精霊に呼びかける。
「カローロ……エディットの歌を、聞かせてくれてありがとう……」
いらえはまだ、返ってこない。──代わりのように、彼女の歌が耳元で甦る。じきに俺は眠りに落ちて、夢を見た。
お母さんが水を探しに行ったあと、二人の女の子は歌を歌う。声を合わせ、知っている限りのすべての歌を。──母娘の帰りを待つおじいさんとおばあさんに教わった歌。死んだお父さんが好きだった歌。村の広場で友だちと遊ぶときに歌う歌。
二人の声は、お母さんが戻るための道になる。そう思ったら、待つのは少しもつらくない。さびしくだってない。
──ほう、こんなところに女の子だ! 人間の女の子だよ!
突然、右の枝から地響きのような声がする。姉妹は抱き合って、きゃあっと叫んだ。
──なんてきれいな声だろう!
がさ、がさ、と、左の枝も大きくゆれる。でも、歌をやめてはいけないのだ。姉妹は負けじと声を張り上げた。そうしたら、どんどん勇気が湧いてくる。お祭りでみんなが踊る愉快な歌が終わったとき、頭の上から羽音とともに、別な声。
──あれあれ、ご老体、驚かしちゃいけません。
見上げれば、真っ白なふくろうが、梢でくるりと首をめぐらせる。
──人間は闇が恐ろしいのですよ。せっかく歌ってくださるのだから、静かに聞いてはいかが?
──ほう、そりゃあすまなんだ。どうすれば恐ろしくなくなるね?
──少しばかり、明るくなればいいんだろう? そら、見てごらん!
左右の枝が口々に言う。すると、二人の女の子の足元に小さな明かりが灯った。丸い光が、ひとつ、ふたつ、またひとつ──ふわふわと宙を舞うのは、蛍だ。
蛍はまるで小さな指輪のように、二人の指にとまった。ぼうと明るくなり、淡くなる光に、女の子たちはうれしくなって、大きな声で歌った。声に合わせて草葉がゆれる。やがて無数の蛍が集まって、ひとすじの道が浮かび上がった。向こうから葉っぱの器に湧き水を汲んだお母さんが駆けてくる。冷たい水を飲んだ二人は、元気いっぱいだ。
──さあ、おうちへ帰りましょう。
お母さんが言い、姉妹は立ち上がった。精霊の森はもう暗闇ではない。輝く蛍が列になって、帰り道を照らしてくれる。
この道をまっすぐ行けば、じきにわが家だ。早く帰ろう。おじいさんとおばあさんが、待っているから──
日が暮れる直前、夕食を届けるのに合わせ、ドワーフおじさんとサウロが四つの護符を手にして現れた。元魔法士の貴族の中でもとりわけ高位の四家。彼らの家に代々伝わるしるしが、『鮮血の輪』を解く鍵のひとつだ。
「──参りますぞ」
サウロがにやりと笑った。
鎧をまとった二人は、きゅうくつそうにガシャガシャと膝をつく。魔法陣の北側にはひとつ、西側には四つの溝がある。『王の許し』は得られないから、北側の楕円の溝は空のままだ。西側の四か所へ、サウロが二つ、ドワーフおじさんがもう二つ、護符をはめ込んでゆく。
四つ目がカチリとはまったとき、魔法陣の色が変わった。毒々しい赤がたちどころに色を失う。まるで流れ落ちた血が乾いて固まるように、焦げ茶に近い色に落ちついた。
「さ、旦那さま」
ドワーフおじさんにうながされ、俺はおそるおそる、指を差し出す。──文字列の上に手を伸べても、赤い光も、激痛も、なにもこない。いつのまにか止めていた息を、大きく吐き出していた。
今はもう、魔法を使えるものは一人もいない『魔道の長ら』に許されて、俺はようやく魔法陣の跡を踏み越える。




