82
早朝訪れたのは、王宮騎士団のなんとか連隊の、かんとか大隊所属の、なにがしという中隊長である。あまりにも肩書が長く、名を聞きもらした。
「エレメントルート伯爵家家士、グレイヴ・スティレット=レーヴァテイン。彼は魔法をもちいて王都を騒がせた罪により、出頭を命ぜられています」
軍人のくせに妙に上品で、ねずみのように嫌味な目をした小太りの男だ。
「さ、お引渡しねがいましょうか」
などと、すまし顔で言う中隊長の後ろには、ものものしく武装した騎士がずらりとならぶ。
俺たちはまだ朝食もすませていない。エディットは近衛隊の制服ではなく部屋着のままである。誇り高い紫の瞳が、どれほど高値であろうとも、売られた喧嘩を買わずにすませてなるものかと燃えている。──彼女は形のいい頤を持ち上げて、胸の前に大きく腕を組んだ。
「断る」
あ、言い切っちゃった……
騒ぎを聞きつけたみんなが玄関ホールに集まってきた。秘書のオーリーンが二言三言耳打ちし、ドワーフおじさんが裏へそっと姿を消す。
「私が……ですか?」
入れ替わりに、侍女のバルバラに引きずられて、グレイが現れた。お仕着せのボタンは全部はまっておらず、くすんだ金髪には櫛を入れた気配すらない。青灰色のたれ目を眠たげにぱちつかせ、どう見てもたたき起こされたばかりだ。
「おまえか。グレイヴ・スティレット=レーヴァテイン」
「はあ」
背高従者は肩をすぼめた。彼の顔を見るべく、なにがし中隊長は、ぐいと仰向いた。
「グレイは下がっていろ」
エディットが割って入る。貴族の家来は、あくまでも仕える家のものだ。ましてやここは、エレメントルート伯爵家の領地といえる邸内だ。誰がなんと言おうと、主人の許しなく家来を捕らえることはできない。その道理は俺にもわかる。
「エディット、もう少し、理由を聞いてみませんか」
俺は彼女の腕に手をかけた。エディットはまなじりを決して中隊長をにらみつけ、一歩も引くまいという意気だ。
「いったいどんな理由がある。グレイは罪に問われるような真似など、なにひとつしていない」
「ええ、本当にそうですね」
俺は振り返り、来訪者に尋ねてみた。
「グレイさんが具体的にいつ、なにをして、王都を騒がせたと言うのでしょうか」
「さて、それは」
首をひねった中隊長は、もう一通書状を開く。
「ああ、これこれ。──先月の三日、彼のものは巨大な獅子の精霊を呼び寄せ、多くの民を襲わせた。あまつさえ夜半に万雷を轟かし、尋常ならざる豪雨を降らせ」
本邸襲撃の晩だ。相手の魔法使いも大狼の精を呼んだではないか。だいたい『民』と言うが、襲ってきた暴漢どもを撃退しただけだ。雨を降らせたのは、屋敷にかけられた火を消し止めるためだ。
「さらに直近では、今月八日、地割れをともなう大地震を引き起こし」
この前のダーヴィドとの会談のときだ。むろん、ステファノの配下を追い払うためである。
「まさに天を驚かし地を動かす行為にて、王都の民を震撼せしめたことは明白」
「ふざけるな」
当然ながら、エディットの瞳は険しくなる一方だ。「こちらが攻められたから対処したまでだ」
「それを私に言われましても。本人が、裁きの場で申し開きをしてはいかがです?」
と、中隊長はにべもなく首を振る。それでエディットはますます憤る。
「いいか、グレイの行動は、すべてわたしの命令でしたことだ。罪があるならわたしにある。申し開きなら、わたしがする」
違う。彼女が魔法剣士にくだした命令は、ただひとつだけ。
──グレイ! 殺すな!
当のグレイは、まだ事態が飲み込めていないらしい。途方に暮れたように、たれ目をしばしばさせている。
本邸に火を放たれたとき、彼が雨を降らせたのはうちの敷地の中だけだ。ダーヴィドとの会談の場だって、街中で大きな騒ぎを起こさないよう、わざわざ郊外にある別邸を選んだのだ。ましてやダーヴィド討伐は、国王マティウス二世からじきじきに許可を得ていたのに。
思いきって国王に訴え出るか? ──だめだ。国王にも、王弟にも、泣きつけない。レールケ伯爵の後ろには、二人のどちらかがいる可能性が高い。
レールケ伯爵は、ダーヴィドのような、表立って庇うのが難しい無頼の親玉とはわけが違う。それに、たとえマティウス二世が黒幕でなくても、取り調べと称してグレイを連れ去られてしまえば、それこそ敵の思うつぼになる。
エディットが中隊長に詰め寄った。
「これは誰の命令だ。答えろ」
「私はザン将軍の配下のものです。先ほど申し上げたはずですが?」
「将軍に命じたのは誰だ」
「さあ、そこまでは……私などの預かり知らぬことですよ」
グレイはエレメントルート伯爵家の、攻守における切り札だ。腕利きの魔法士がいると思えばこそ、敵は攻めるのに二の足を踏む。彼の存在そのものが、俺たちを守りの結界の内側に置いている。
グレイなら、ここに存在するだけで。
「違います」
俺は中隊長へ向き直った。「誤解です。あれは、彼がしたことじゃありません」
トン──背をつつかれた。カローロが、俺に警告している。
「魔法を使ったのは、僕です」
「カイル! なにを言い出すんだ?!」
この国の誰よりも美しい俺の妻は、苛立ちと戸惑いの入り交じった面を振り向けた。──なんてきれいな、花よりも宝石よりもずっときれいな、紫色の彼女の瞳。
「エディット、ここは僕に任せてください」
カイル、よせ──耳元で、守護精霊の声がする。
「精霊を呼んだのも、雨を降らせたのも、地震を起こしたのも、全部僕です」
「失礼ながら、にわかには信じがたいお言葉ですな、伯爵閣下」
やめろ、カイル。
「本当です。僕がやりました。出頭が必要なら、僕が行きます」
「あなたにそんな魔法を使えるわけがないだろう!」
エディットに腕をつかまれた。俺は彼女の右手を払いのけ、左手でしっかりと握り直す。
「いいえ、できます。今からお見せします」
俺は中隊長へ向けて、右手を伸べた。
「……『目にも見よ 行き過ぎるもの』」
対象はたったの数人。──オドネルのようにできなくていい。ほかの誰にも見えなくていい。今ここにいる、小面憎い中隊長と、後ろの騎士たち。彼らにだけ、ほんの一瞬、俺の呪文が届けば。
「『わが内にあるもの 描きたるもの 音にも聞け』」
『夢幻』とは、相手の精神に働きかける魔法。絵の具を画布にのせていくように、俺の思い描いたものを、誰かに見せる魔法。
「『大いなる羽 よこしまなる鱗 焔吐く金色の飛竜よ 出でよ』!」
──目の前に現れたのは、いつか本の挿絵で見た、あやなす金鱗の、巨大な翼を持つ竜。
「ひやあっ!!」
中隊長がびっくりするほど甲高い声を出した。皆がざわめく。エディットも中空を見つめて息をのんだ。彼女に俺の魔法が見えている。俺の左手を握る彼女の右手に力が入る。
玄関ホールいっぱいに、蝙蝠の羽が悠然と広がった。もっともっと激しい風を起こせ。長くのたうつ尾は大蛇のごとく、二本の角が天井のシャンデリアを突き上げんばかりに。日月のようなまなこがいよいよ輝きを増す。呑まれそうに大きな口を開けば、太い牙のあいだから、炎が、
「どうかおやめください! もう結構!」
まぼろしは立ち消えた。俺は、詰めていた息を吐き出す。──ありったけの魔力を使いつくした。目の前がかすむ。よろけた俺の肩は、エディットの腕に抱き止められる。
「な、なるほど……」
中隊長は胸のポケットからハンカチを取り出して、額をぬぐった。
「閣下のお力は大変よくわかりました。これは、確かめたほうがよさそうだ。──おい!」
中隊長が書状を渡して命じると、騎士はすぐさま駆け出していった。中隊長は俺たちに厳しい表情を向けた。
「しばらく待たせていただきましょう」
──彼らは、応接間へ案内された。
俺たちは居間に引き上げた。オーリーンをはじめ、悄然とうなだれたグレイも、今にも泣き出しそうな顔のバルバラも、料理長のネロと下男のマイルズも、みんながあとから入ってくる。最後に執事のワトキンスが扉を閉めた。
「本当に、申し訳ございません……」
グレイが弱々しくつぶやいた。
「気にするな。あなたのせいじゃない」
言い置いて、エディットは、静かな朝日に包まれたテラスのほうへ行ってしまう。俺は一人で長椅子にかけた。
「旦那さま」
オーリーンが彼女の耳に届かないよう、声をひそめて言う。
「……おかげで、時間を稼ぐことができました」
「はい」
俺はうなずいた。中隊長が持ってきた書状は本物だ。真っ向から盾突いては、こちらが不利になるばかりだ。
「バルバラ、逮捕状に署名した将軍を探れ」
「は、はい!」
秘書に命じられ、勢いよく応えはしたものの、侍女はすっかり涙目だ。へしょげているグレイの袖を、ぐいぐい揺さぶっている。
「ねえ、帰ってくるまでいてよ?! いなかったら絶対許さないんだから! わかった?!」
言うなり、居間を飛び出してゆく。けれど、バルバラには悪いが、そう簡単になにもかもが知れるとは思えない。
「このまま僕が行きます」
銀縁眼鏡の奥で、秘書が瞳を見開いた。「……旦那さま」
「グレイさんには、本邸にいてもらわなければなりません」
本邸が手薄になるからだけではない。身分の軽い家士なら、ひとたび捕らわれたらどんな目に遭わされるかわからない。仮にも俺は伯爵だ。即座に処刑されることはない──と思う。
「……だめだ」
窓辺から、声がした。
エディットが俺を見つめていた。ひどく青ざめた顔で、固く唇を結び、こちらへ近づいてくる。
「カイルを行かせるくらいなら、わたしが行く」
俺はかぶりを振った。
「エディットが捕まったら、僕たちは身動きが取れなくなってしまいます」
いわば大将を人質に差し出すのと同じである。
「かまわない。──いや」
エディットは俺の隣に腰を下ろした。沈んだ、静かな瞳で力なく首を振る。
「……もう、よそう」
「エディット……?」
「もう、父の仇を探すのはやめる」
「そんな!」
俺は大きく叫んでしまった。父親の死の真相を知りたいと願う彼女の思いがどれだけ強いか、俺は見てきた。ようやく事情を知っていそうな人物の名前がわかったのに。
それに、彼女一人の仇討ちではない。ここにいるみんなは、エディットと、セドリック卿と、エルヴィン夫人のために働いている。彼らにもそれぞれの思いがあって、十四年もの長い歳月、苦労を重ねてきたのだ。
「あと一歩じゃありませんか! 僕が捕まっているあいだに、誰のしわざか調べればいいんです。せっかくここまできて、どうしてそんな──」
「馬鹿を言うな!」
かつては多くの騎士たちを指揮した大音声が、思いきり俺を怒鳴りつけた。
「あなたより大切なものが、ほかにあると思うのか?!」
え……
彼女の両手が、俺の肩をつかむ。なにがあっても離さないと言うように、痛いほど強く。
「だ、だって……」
彼女が俺を、結婚相手に選んだのは。
「…………」
エディットのまなざしは真剣だ。息は荒く、切れ長の瞳をいからせ、柳眉をつり上げて俺を見る。彼女みたいな美人がそんな顔をしたら、この世のものとは思えない恐ろしさだ。
くす、と、俺が笑ったので、エディットの唇は大いにとがる。
「なにがおかしい?!」
「いえ、別に」
だって。
「……やめると言うだけじゃ、きっとレールケ伯爵は信じてくれませんよ」
──どうしよう。
「それよりも、僕が捕まったあと、なにをしたらいいのか考えてください」
うれしい。
「大丈夫、これは好機です。僕たちがダーヴィドをやっつけたせいで、向こうも困って、こんな手に出てきたんですから」
どうしても顔が笑ってしまう。彼女の瞳がこんなに悲しそうなのに。
「……奥さま」
オーリーンが中指で銀縁眼鏡を押し上げる。
「今ここで政府に歯向かっては、われわれを処分するさらなる理由を敵に与えかねません」
まったく俺たちは、孤軍奮闘だ。──俺は腰を浮かせて、エディットの頬に接吻した。
「助けにきてくれますよね? また」
「カイル」
「ネロさん、おなかがすきました。朝ごはんをお願いしてもいいですか?」
突然俺が言ったから、巨漢の料理長は飛び上がった。ズシン、と、大きく床が揺れる。
「は、はい、旦那さま、ただいますぐに!」
──中隊長の出した使いが戻ってきたのは、正午になろうかというころである。これを早いと見るか、思いのほか時間がかかったと見るべきか。いずれにしても、探索に出た従者と侍女はまだ帰らない。
逮捕状の宛名は、俺へと書き換えられた。敵は『王都の民を震撼せしめた魔法使い』と、俺を差し替えることに応じたのだ。──グレイは今まで何度も俺を助けてくれた。今度は俺が、彼を助ける番だ。