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その日の深夜──
ふと、俺は目を覚ました。
温かな夜具に包まれているのに、ぞくりと体が震えた。隣を見ると、エディットは安らかな寝息を立てている。それで少し、ほっとする。
『私に手紙を奪えと命じたのは、レールケ伯爵だよ。どうだね、当たっていたかね?』
仮面の男はフィリップ=レールケ伯爵だと、ダーヴィドは言った。彼の答えは、俺たちが出した結論と同じだった。
『手紙? 馬鹿な、こちらから申し込んだ和議の席だぞ。持ってこいなどと言わせるわけがないだろう』
ふてくされたように、ダーヴィドは言い張った。その様子は、あながち嘘とも思えなかった。あれはステファノの独断だったのか。親分を殺してあとがまに座り、だまし討ちの汚名は俺たちになすりつけ、おまけに『証拠の手紙』を奪って仮面の男から報酬をせしめる──壮大で、かつ、欲深な計画である。とはいえ、もしもデメトリオがステファノの味方をしていたら、事態はどう転んだかわからない。
『俺はどうにもあの男の面が好かんのだ……』
と、デメトリオは笑っていた。以前デメトリオが俺を逃がしたので、ステファノは彼に造反の志ありと踏んだようだ。利いたふうな口で計画を持ちかけてきたから、好きなようにしゃべらせておいたそうだ。人の悪い魔法使いのおかげで辛くも命拾いしたダーヴィドは、眉間に刻みつけたかと思うくらい深くしわを寄せていた。
ダーヴィドと俺たちは、会談の末に和解した。それをすぐさま王都中へ広める必要があった。これは、彼に後悔するすきを与えないためでもある。本当に立て看板を作り、街のあちこちへ掲げることになった。
パサ……
寝室は静まり返っている。俺が身を起こすと、天蓋付きの巨大なベッドはかすかに揺れた。
パサ……パサ……
俺だけに聞こえる、カローロの翼の音。
──どうしたの?
守護精霊に尋ねてみたいが、声を出したらエディットが目を覚ますかもしれない。
「カイル……」
闇の中、彼女が俺の名を呼んだ。
「はい」
「起きたのか……?」
まだ夢うつつの声だ。結局起こしてしまった。
「ええ。なんとなく、目が覚めたんです」
もう一度、夜具のあいだへすべり込む。手さぐりで探し出した唇にキスすると、ちょっとずれた。エディットは声を立てずに笑う。俺は彼女が差し出す腕を枕にして、身を寄せる。
こうしていると、とても温かい。
「……本当に、レールケ伯爵でしたね」
「そうだな」
俺の肩を抱く手に少し力が入ったが、彼女のいらえは穏やかだ。俺は襟元から豊かにあふれる胸に顔をうずめた。彼女の腕が俺の腰に回り、寝間着の裾をたぐってくる。
「あっ……」
彼女の脚が、俺の脚に添う。腿を指がなぞる。優しい声が俺に尋ねた。
「嫌か?」
「いえ……」
……そんなこと、あるわけないじゃない。
彼女の体が徐々に熱を帯びてくる。俺の呼吸も速くなる。鼓動は高鳴るのに、不思議と俺の心は平穏だ。彼女といれば、かすかに感じた心細さもいつのまにか消えてしまう。
エディットが俺を、体の下に巻き込んだ。俺は目を閉じる。指先で、唇で、お互いにさぐり合って口づけをくり返す。
仮面の男──レールケ伯爵は、セドリック卿を殺した実行犯なのだろうか。もちろんダーヴィドに尋ねてみた。
『知らんものは知らん。だいたい、あのおかたが本当のことを口に出すと思うかね』
というのが、香具師の元締めの答えだった。
どうしてレールケ伯爵は、『証拠の手紙』を欲しがるんだろう──俺は時々、そのことを考える。
もう十四年も昔の話だ。今の時季よりもう少し先、春のはじめのある夜。エディットの父親、セドリック=エレメントルート卿は王都アセルティアを訪れ、本邸に滞在していた。
参勤の際、いつもなら彼は必ず妻子をともなう。妻のエルヴィン夫人と、幼い娘のエディット。当時健在だった先王夫妻、つまりはエディットの祖父母に二人を会わせるためだ。けれど、その年だけは違った。第二子を身ごもっていたエルヴィン夫人のつわりがひどく、馬車の旅は無理だった。
だから彼は、一人で王都にきた。
その日の昼間、セドリック卿は外出し、日が暮れるころ帰宅した。彼が供も連れずに出歩くのは珍しいことではない。一人街中の書店をめぐり、本を買い求めるのが少年のころからの彼の趣味だ。夕食後は居間でくつろぎ、次第に夜も更け──
『人と会う約束があるんだ。少し出かけてくるよ』
そう言って、身じたくを始めた。
誰と会うのか、執事のワトキンスが尋ねると、セドリック卿はただ笑っていたそうだ。妻ひとすじの彼である。ほかの女との逢瀬を算段するわけもない。しかし、従者が供を申し出るのを断ったときは、多少いぶかしく思ったという。
『どちらへおいでになるのでございますか』
『王宮まで呼ばれてね』
セドリック卿の立場は少々複雑だ。元々エレメントルート家は王家の重臣という家柄ではなく、さりとて新興貴族ともいえず──そんな微妙な位置にいる伯爵が、王女を妻にした。当時のアセルス王家は王太子が定まっておらず、どこか剣呑な雰囲気が漂っていたころである。しかし王位は男子が継ぐから、降嫁した王女も、その娘も、王位継承になにひとつ関わり合いはない。
それでワトキンスは、一歩引いたのだ。王女の夫である旦那さまには、どうしてもいずこからか働きかけがあるのだろう。夜半までご面倒なことだ──そう思った。本邸から王宮まではごく近い。深く追及もせず、馬で出かけるあるじを見送った。
執事はセドリック卿を呼び出す手紙を受け取っていない。前日王宮へ参内したとき、それとも、日中外出したときに誰かと会い、待ち合わせでもしたものか。
いずれにしても、屋敷に手紙は届いていない。
「エディット……」
互いの体のはじまりの部分を合わせると、苦しいほどの心地になって、彼女を呼んだ。「うん」と、耳元で応える小さな声がする。とても彼女がいとおしくなる。
やがて夜が明け、俺とエディットは二人で王宮に出向いた。宰相ゾンターク公爵に面会を求めたのである。ゆえあってダーヴィドと和解した、と伝えると、宰相閣下はうるわしい面に艶然と笑みを浮かべて了承した。王都に騒乱が続かなくてなにより、とのことだった。
今はもう、カローロの翼の音は聞こえない。
◆◇◆
フィリップ・ジールマン・テレリア・ディルク=レールケ伯爵。
テレリア領の領主。年齢は国王のひとつ下、王弟よりはひとつ上だ。父親の先代レールケ伯爵逝去ののち、爵位を継いだのが三年前。
彼を仮面の男と推定してから、身の上のことはひと通り調べてある。家族は夫人と、子が四人。娘二人はすでに嫁ぎ、跡取りをふくめた息子二人がまだ成人前だ。妻子は国許にいて、この一年ばかり王都を訪れていない。
先代が国王マティウス二世の守役を務めた。その関係か、彼自身も成人まで、国王、王弟兄弟の学友だった。つまり、二人のどちらとも親しい。ただし今の彼は、王弟シベリウスの公務を援ける立場にある。
「ううーん……ぜんぜん見当たりませんね……」
ユーリ=ローランドが、手にしたリストから顔を上げ、大きなため息をついた。──ダーヴィドとの会談から数日が過ぎ、俺は従者のグレイとともに蒼の塔を訪れていた。
リストには、レールケ伯爵と血縁のある家の名が箇条書きになっている。それを昔の王宮魔法士の名簿と付け合わせているのだ。
この塔で催された魔法の会のとき、レールケ伯爵には、オドネルの『夢幻』が効かなかった。しかも、
『面白いではないか。エレメントルート家の魔法使いの小僧、顔が見たい』
ダーヴィドの館での仮面の男の態度は、自分に魔法が効かないことを知っていると思わせる。だとしたら、レールケ伯爵は『魔法を防ぐ魔法』が使える魔法使いではないか、と考えたのだが……
「『夢幻』を演じるコツは、魔法をかけようと思わないことだ。かつて自分の目で見たものを、相手にも見てもらうつもりで魔力を送る」
そう言って、王宮魔法士は俺の額へ右手の人差し指を添え、呪文を唱えた。──ふっと、まだ来ぬ春の花吹雪が舞い上がり、俺の周りをひらひらと散ってゆく。
「レールケ伯爵が魔法使いというほかに、なにか考えられることはありますか?」
尋ねてみると、オドネルは名簿に戻しかけていた目を上げた。
「むろんあるとも。『対人魔法』は確実性が高いとはいえない魔法だからね。誰にでも必ず効くとは限らないんだよ」
『対人魔法』とは、相対する人の精神に働きかける術の総称だ。種類は、想像魔法に属する。その場にないものを見せる『夢幻』とは、ようするに目くらましの術だ。
「とにかく多過ぎますよ……」
ユーリが力なく弱音を吐いた。ただでさえ数十件の家名がならぶリストに、数百年分もの膨大な量の名簿である。俺も頁をめくり疲れてへとへとだ。これはもう、あきらめたほうがいいのかもしれない。
「旦那さま、そろそろお茶の時間にしませんか」
今日のおやつはミートパイですよ、と、グレイが言い出すと、ユーリの瞳が輝いた。二人はお茶のセットを探そうと立ち上がる。──それをオドネルが、横目で見送った。
「オドネルさん?」
「ああ、いや」
焦げ茶色のまなざしは、すぐに俺まで戻ってくる。
「……体質であれば、それほど厄介でもないんだが」
オドネルはこわばった体をほぐすように両腕を上げて、ううん、と伸びをした。
「そうなんですか?」
「どれほど幻惑に負けない強靭な精神の持ちぬしだとしても、肉体は別だ。火に触れて、やけどをしない人間はいないだろう?」
なるほど。そうであれば、対人魔法以外の魔法なら、通用することになる。
「こうしてざっと見た限りだが、レールケ卿に魔法士の血縁は見当たらないようだ。今の世の中、貴族が世襲でもなく魔法を学ぶことは難しい。──天空の神が生みたもうた月と五つの星にかけて、きみのような子は、珍しいと思うんだよ」
と、彼は目元をなごませた。
「ほかに可能性があるのは……魔法の道具だろうかね。きみたちが調べた記録を見せてもらったが、彼は若いころ、外国へ遊学した経験があると書いてあった。どこかでなにか、手に入れたのかもしれない」
「師匠、ティ坊ちゃま、お茶が入りましたよー」
お盆を捧げ持ったユーリが戻ってくる。グレイがパイの入ったバスケットを開けた。
「どうしましょうか。いきなり四つに分けちゃいます?」
魔法剣士は長剣ならぬケーキナイフを、きつね色のパイに、さっくりと突き立てる。ハーブをきかせた牛肉がいっぱい詰まったパイは、冷めていてもとてもおいしかった。
レールケ伯爵へ、どのように対するか。相手は名門貴族でもあり、かなり難しい問題だ。
ダーヴィトとの攻防は、ある意味正攻法でこと足りた。やつは背後にレールケ伯爵がいるのを笠に着て、真正面から襲いかかってきたからだ。俺たちはダーヴィドの犯罪の証人を集め、国王マティウス二世に直接訴えることで突破口を開いた。
しかし、レールケ伯爵が『証拠の手紙』を狙う『仮面の男』であるという証人は、無頼の親玉ダーヴィド一人しかいない。同じ手は使えない。うちが和解の声明を出したことで、レールケ伯爵もダーヴィドの離反を知ったはずだ。慎重にことを進める必要がある。
──不穏な情報も少しずつ耳に届いていた。レールケ伯爵の私邸に、人の出入りが増えている。それも闇にまぎれ、ごくひそかにだ。
「レールケ伯爵邸の監視のほか、物資の流れを追うことで判明いたしました」
戦じたくと思われます、と、秘書は言う。──人が増えれば、かかりも増える。邸内に運び込まれる食料、日用品の量が以前と変わり、武器商人も訪れているらしい。報告を受けるエディットも、厳しい表情でうなずく。
そんな矢先のできごとだった。
「逮捕だと?」
翌朝早く、本邸へ訪ねてきた騎士が述べる口上に、エディットは眉をひそめた。
「なにかの間違いだ。それとも、たちの悪い冗談か」
「間違いでも冗談でもございません。──ご覧ください。これこのように、将軍閣下のご署名も」
エディットは差し出された書状に見向きもしない。唇を結び、騎士をにらみつける。
「なぜ、グレイが逮捕されなければならない」
「騒乱罪です」
じつにあっさりと言い渡される。
「エレメントルート伯爵家家士、グレイヴ・スティレット=レーヴァテイン。彼は魔法をもちいて王都を騒がせた罪により、出頭を命ぜられています」
……本当に、冗談じゃない。