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最初に目に入ったのは、ぽやぽやと毛が生えたむき出しのすねと、サンダル履きの素足。
黒い衣の裾が腰までからげられ、ぎゅっと結んである。しかも、大きくまくった袖にたすき掛けというとんちきな身なりだ。でも、さらに上には、思いのほかまともな顔が乗っかっていた。
「なんと! 殿下は意外に仕事がお早い。──きみ、名前は?」
「カ、カイル=バルドイ」
「おお! カイル=バルドイ! 素晴らしい名だ!」
明るい目をした青年は、じつにうれしそうに両の手のひらをこすり合わせた。
「これは失敬、私はジュリアン=オドネル。さあ、カイルくん、こちらへきたまえ。金色のイーリアの黄金でできた髪にかけて、われわれはきみを歓迎するよ! どうしてそんなところに座り込んでいるのかね? 仕事は山のようにあるんだ。見てごらん! ゴンド山脈もかくのごとし!」
目の回るような早口で矢つぎばやに言われ、つられて辺りを見回そうとする前に、ドンドンドン! と、激しいノックの音がした。
「失礼する!」
いらえを待たず、扉は勢いよく開いた。先頭に立つのは、通用門の衛兵、ケンである。
「今しがたこちらに──あっ! 小僧!」
俺はたちまちケンに首根っこを押さえられた。オドネルの瞳がまん丸になった。
「待ちたまえ! これはいったいなにごとなんだね?」
彼のすっとんきょうな装いに気づいたケンは、丸出しの痩せた脚、線の細い知的な輪郭と、長い黒髪の先っちょからてっぺんまでを、じろじろとながめまわした。
「不法侵入者ですよ。あんたこそ、いったいなにものなんです?」
「私はジュリアン=オドネル! 王弟殿下からこの塔を任されているものだ!」
ケンは目の前の人物に心当たりがあったようだ。ははあ、という顔になる。
大柄な衛兵に負けまいとするように、オドネルは胸を張った。
「不法侵入者だって? なにかの間違いだろう。この少年は、殿下がよこしてくださった、私の助手だよ」
「いや、しかし──」
「しかしもへちまもシーホースもあるものか! と・に・か・く! カイルくんは私のものだ。文句があるなら、白皙のシベリウス殿下へ奏上したまえ!」
と、両手を腰にあてたオドネルは鼻息も荒い。あのう、さっきからずっと、下着がちら見えしてますけど……
「……おまえ、門ではゾンターク家の使いだとか言ったよな」
このままでは埒が明かないと考えたのか、ケンは俺にぎょろ目を向けてきた。
俺には二択しかない。オドネルの勘違いに便乗するか、しないで牢屋へ入れられるか。──本物の助手が現れてばれるのは時間の問題だろうけど、今は便乗させてもらおう。
「……言いましたっけ?」
「おい、きさま」
「すみません……僕、お城にくるのって初めてで」
なるたけ気弱そうに見えるよう、おどおどした笑みを浮かべてみる。
「兵隊さんが怖くって、なにを言ったかよく覚えていないんです……」
「な~にお~う?」
ケンの額に、ぎりぎりと血管が浮かび上がった。
「このくっそガキ、なめやがって……」
「よさないか!」
こぶしを固めたケンと俺とのあいだに、やせっぽちのオドネルが果敢にも割って入った。
「なんだ、子ども相手に大人げない。カイルくんもカイルくんだ。通行証を見せなかったのかね?──なに、持ってない? まったく、近ごろの書記官どもの怠慢ぶりときたら、目も当てられん。こういった苦情はどこへ言えばいいのかね? きみ! 知らないか?!」
俺? という感じで、ケンが自分の団子っ鼻を指す。
「自分にわかるわきゃないでしょう」
「そうだろうそうだろう、私にだってわからんよ」
尋ねておいてごくいいかげんに返しながら、オドネルは机の上から紙のたばを取り上げた。さらさらと、ペンでなにかを書きつける。
「──さあ、これでいい」
差し出された一枚には、こんな一文が記されていた。
『オドネル研究所助手 カイル=バルドイ 蒼の塔に限り 立ち入りを許可する』
下には『ジュリアン・C・オドネル』と、署名がある。走り書きだというのに、とても流麗な達筆だ。
──研究所?
「……あんたが責任を取るって言うんだな」
仏頂面でケンがつぶやくのを、オドネルは鼻先で笑い飛ばした。
「じつに軍人らしいもの言いだな。いやはや! なにをか言わんやだ!」
「自分は上に報告しますよ。いいんですね?」
「かまわんとも。同じ威を借るにしろ、きみの虎より私の虎のほうが、ずうっと強い」
「…………」
俺はこのごっつい門番が、だんだん気の毒になってきた。だって彼は、なにひとつ間違っていないんだから。
しばらくのあいだ、ケンは悔しげにオドネルをにらみつけていたが、とうとうきびすを返した。
「おい、誰か、中隊長に報告しとけ!」
「いいのか? ケン」
「かまわんのだとよ。こちらのお偉い魔道士さまが、そうおっしゃるんだ」
魔道士?
バタン!
金属の枠のついた分厚い扉は、乱暴に閉められた。
「……これで邪魔ものはいなくなったぞ」
オドネルは上機嫌だ。くすくす笑いながら、両の手のひらを温めるみたいにこすり合わせている。どうやらこれが、彼の癖であるらしい。
「われわれの記念すべき出会いも仕切り直しだ。始まりの大神の神御衣に見えたほころびにかけて!」
舞台俳優のごとく大仰なしぐさで、オドネルは両手を広げた。
「──蒼の塔へようこそ! ここはアセルス王国が誇るオドネル魔法研究所だ!」
俺はぽかんと口を開けてしまった。
ここが、魔法研究所?
こんなの、ただの物置部屋じゃないか。
積み重なった木箱、雑然とならんだ棚、そこかしこにうずたかく積まれた大量の書物。さらには、床一面に散らばった書類。
描いてある絵が見えないほど、汚れてかたむいた衝立。埃をかぶった椅子が何脚も。無秩序に点在する机の上には、それぞれ、色あせた地球儀、大きな水晶玉、たばねたロープ、なんに使うのかさっぱりわからない金属の器具──広い広い部屋いっぱいに、そんなものがごちゃごちゃと詰まっていたのだ。
オドネルも、俺が呆然とするのに気づいたと見える。言い訳みたいに、ぽん、と肩をたたかれた。
「カイルくん、ルクトレアの竜王だって、若き日には一介の冒険者だったんだぜ。さあ、われらの手で、新たな歴史を作り出そうじゃないか!──まずはこのガラクタをなんとかするところから始めよう。給金をはずむとは言えないがね、働いてくれる分のことはさせてもらうつもりだよ」
「…………」
「なんと! これは、私としたことが!」
彼はようやく自分のおかしな身なりに思い至ったようだ。腰の結び目に、そそくさと指をかける。
黒い布がほどけ、はらり、と裾が落ちた。──彼の貧相なすねを、サンダル履きの素足を、つま先まで覆い隠してしまう。
「とんだところをお目にかけてしまったね。まったく、このローブってやつは、馬鹿げた代物だな」
たすきをはずし、それできりりと腰を締め──虹彩の奥に明かりを灯したような瞳を持つ青年は、いささか照れた笑みになって俺を見る。しかし、彼の焦げ茶色の瞳は、根拠があるのかないのかわからない、謎めいた自信と誇りに満ちあふれていた。
彼の名は、ジュリアン・コーネリアス=オドネル。──漆黒の衣をまとう、アセルス王国でただ一人の王宮魔法士。
けれど、このときの俺は、彼のぞろぞろしたローブを見て、もうちょっと丈を短くしたらいいんじゃないの?──と、考えていただけだった。