75 援軍
エレメントルート伯爵家の従者、ボリスの朝は早い。
「ね、ね」
侍女のバルバラが、ああやって鼻の頭にしわを寄せるのは、悪だくみをするときの顔だ。ボリスにはすぐにわかる。なにせ、こんな小さい時分から彼女を知っているのだ。
「今度はお部屋にお花を飾っておくのはどう?」
「ええー、またですかぁ」
ボリスの若い相棒、グレイの青灰色のたれ目は眠たげだ。ぶつくさ言うのに大あくびが混じる。
「絶対簡単だと思ってるでしょ……せめて春になってからにしてくださいよ……」
「なに言ってるの! 春がくる前だからいいんじゃないの!」
(大変結構なことだ)
若いものは楽しそうで──焼きたてほやほやのパンをちぎって口に入れ、むくつけき中年男のボリスは思う。執事のワトキンスと本日の予定を打ち合わせる。料理長のネロお手製の、ベーコンがふんだんに入ったスープがうまい。
「これバルバラ、そろそろエディットさまのお着替えの時刻だぞ」
執事に無駄口をたしなめられ、侍女は、はぁい、と席を立った。
香り高いお茶をゆっくりと味わい、亡き師が遺した長剣を腰に帯びる。朝食をすませたボリスは、玄関ホールへ出た。
「いいって言ったじゃないですか!」
「ん? 言ったか?」
声に二階を見上げると、身じたくを終えたあるじが廊下へ出てきたところだった。そのあとを、あるじの夫がまとわりつくようにして追ってくる。
「言いました!」
「いつ?」
「ゆうべ!」
「どこで?」
「へ、部屋でです!」
「ふーん? 部屋のどこだ?」
「どこって、な、長椅子の……」
「考えておく、となら言った覚えがあるな」
まだ輪郭に丸みの残る小柄な彼がいくら憤っても、迫力など欠片もない。あるじはくつくつ笑う。少年を黙らせるのは簡単だ。ちょいと顎に指をかけ、口づけのひとつもしてやればいい。──なるたけ皆が見ている前で。
「……!」
案の定、少年は顔を真っ赤にして口をつぐんでしまった。
日ごろぼうっとしているから余計なのだろうか。彼の想いはたやすく顔に出てしまう。わかりやすい恋情の発露がどれほど妻の心を揺り動かすか、彼は知るまい。
「……行ってくる」
あるじが言う。離れがたく思っているのがひと目でわかる。ふくれっつらの少年の大きな瞳が上目になった。
「……いってらっしゃい」
「うん、早めに戻る」
年少の夫の素直なところがよいのだろう。あるじの瞳がなごむ。
下男のマイルズが玄関前まで馬を引いてくる。ボリスは轡を受け取り、先に立った。
あるじは王后の親衛隊長の職を退いた。元の副隊長に戻ったのではなく、いっさい肩書のない平騎士だ。もとより自ら望んだ降格であり、彼女はこだわりなく出仕する。
後任は、ハティア王国への旅路で彼女の副官を務めたハーラーである。彼が上にいてくれれば闇討ちに遭わずにすむからな──平然と、あるじはボリスに言ったものだ。
ゆるやかな坂をくだり、王宮へ一直線の大通りに出る。まだひとけの少ない石畳を、あるじがまたがる馬を引いて、ぽくぽくと歩んでゆく。
そこへ、顔見知りの老いた掃除夫が駆け寄ってきた。いつも同じ時刻にここを通るから、もしかしたら待っていたのかもしれない。
「おはようごぜえやす、エディット姫!」
勢いよく帽子を取る。つるつるになった頭のてっぺんが丸見えだ。「ずんと気張っておやんなせえよ!」
馬上のあるじは口角を上げ、軽くうなずいた。美しい菫のまなざしと目が合って、老人はしわ深い頬を子どものように紅潮させた。感極まった塩辛声で、いってらっしゃいまし、と、ふりしぼる。いい年をして、あとで腰が立たなくならねばよいのだが。
ボリスはあるじを見上げ、尋ねてみる。
「討伐の日は、旦那さまをおともないになりますので?」
「…………」
結局、返事はなかった。彼女はかすかな笑みを残したまま、行く先の王宮を見つめていた。
広いアセルス城の東側へ、ぐるっと回る。あるじを騎士の門まで送り届ければ、ひとまずボリスはお役御免だ。従者たちには、主人の退出まで待つための溜まりが用意されている。しかし、今の彼にはあるじのお声がかかるのをのんびり待つ時間がない。
屋敷に帰ってお仕着せを脱ぎ、辺りがすっかりにぎやかになったころ、街中へ戻った。通りの店々が商売を始め、棒手振りや荷車を押した小商人たちが練り歩く。買いものに出かける人も増えてくる。
「──旦那! ボルボロスの旦那!」
声がかかった。大きな鼻が酒焼けで真っ赤になった、火酒売りの男である。道ばたには酒樽を積んだ小ぶりな荷車が停めてあり、むらがるのは日雇いの人足たちだ。
ようよう旦那、どうだい調子は、などと、たちまちかこまれる。このところの騒ぎでエレメントルート伯爵家の評判はうなぎのぼりだ。それもそのはず。王都で商いをする多くのものが襲撃後の本邸改装に関わり、なにがしかの恩恵を受けたからだ。
割られた窓を直したガラス屋ばかりではない。家具を修繕した指物師、踏み荒らされた庭を手入れした庭師たち、焦げた壁と天井を直した大工や左官、濡れてだめになった衣類を入れ替えるのに織物屋と仕立て屋たちも、皆が寝ずに働いてくれた。
度はずれた数の職人が屋敷へ出入りした。食事のしたくはネロ一人でとても追いつくものではない。仕出しを頼んだのはむろんのこと、屋敷の周辺には続々と屋台が現れて、昼夜を問わず店を開いた。幌つきの馬車の荷台がいくつも前庭にならべられ、簡易の宿泊所になる。それにともない、山のような寝具も必要だ。ほかの仕事をほっぽらかしてきている彼らを労うため、酒だって絶やせない。常時どこかでどんちゃん騒ぎが起こり、まるで時季はずれの祭りのような三日間だったそうだ。
それは、想像するだにお屋敷街らしからぬ光景である。近所から苦情がこなくてなによりだった、と、帰宅後に様子を聞き知ったボリスは苦笑いしたものだ。しかも秘書のオーリーンの払いのよさときたら、面白くさえあれば銭金にはこだわらぬ王都の人々をもうっとりさせるに充分だった。
「ダーヴィド一家のやつらになんざ、一滴だって売ってやるもんじゃねえ」
火酒売りが息巻いた。彼もまた、本邸の塀の陰でたらふく稼いだ一人である。お得意さまを贔屓したくなるのは理の当然だ。
「あいつら近ごろ、図に乗ってやがるからな。存分にたたきのめしておくんなせえよ、旦那!」
人足たちが、そうだ、やっちまえ、などと気勢をあげた。さあ飲みねえ、と器を渡され、強い酒をなみなみとそそがれる。手の甲へこぼれ落ちるしずくをそのままに、ボリスはひと息で飲み干した。
「よう、さすがは旦那!」
「てえしたもんだ!」
中心街では、ボリスがエレメントルート伯爵家の家士であることはよく知られている。やんやの喝采を浴び、もう一杯飲まされた。
諜報活動に金を惜しんではならない。これはボリスの鉄則だ。彼らは日々のたつきの手を止めてこちらに協力してくれている。そのあいだに稼げる以上の金を返すのが、当たり前だ。
密偵のジローと待ち合わせたのは、下町のゲール街、翡翠亭という居酒屋兼飯屋である。
「いいときにきなさったねえ、旦那」
と、翡翠亭の亭主は上機嫌だ。
「ゴールドメンサムのニジマスが今朝方届いたばかしさ。旦那は塩焼きでよござんすね?」
亭主夫婦から大いに歓迎されて二階へ上がると、ジローはすでに着いていた。相変わらず小筆で線を引いただけのような細いまなこに丸縁眼鏡、ぼさついた茶色の髪からは、人の好さそうな若者としか見えない。だが、この手の仕事をさせたら彼の右に出るものはいない。
「順調に広まってますよ。みんな、せっせと出歩いてくれてますから」
ジローはボリスへ酒壺を差し出した。「三日もあれば、王都で知らないのは赤ん坊と寝たきりの年寄りだけってありさまにしてみせます」
ボリスが彼に頼んだのは言うまでもなく、エディット姫の仇討ちもいよいよ間近、ついに国王からダーヴィド討伐のお許しが出た──このうわさを、王都中へ振りまくことだ。
実際のダーヴィドは、セドリック卿の仇ではない。けれど、そんなことはどうだっていい。目新しくてわくわくするできごとなら、人々は尻馬に乗ってくれる。
「思ったよりも伯爵さまの受けがいいんで、驚いちまいましたよ」
「ほう、そうか」
「やっぱりエディットさまが、どうにも頼りにならなそうな、坊やを婿さんにした、ってのがよかったんでしょうねえ」
手酌で酒をやりながら、ジローは苦笑いする。──曰く、いかにも後ろ盾でございと言わんばかりの大貴族の子弟なり、ならんで出陣してくれそうな、筋骨隆々の偉丈夫が相手なら、ここまでではなかっただろう、と。
ジローは本邸襲撃の夜、あるじの夫、『エレメントルート伯爵』の本当の姿をまのあたりにした。王都に戻って話を聞いたボリスは、そっくりそのままを町衆へ伝えるよう頼んだ。改装の際に邸内で少年を見かけたものが吹聴するのも相まって、うわさは文字通り、飛ぶように広がった。
彼は田舎町を治める貧乏男爵の末っ子だ。むろん王宮にはなんの縁故も伝手もない。どう見たってなにかの手助けにはなりそうもない、ひ弱げな子どもである。エディット姫には一世一代の大事なとき、本当の姿を隠してまで、わざわざ婿に選んだからには、これぞまさしく真実の恋──
(とはまた、なんともはや……)
ボリスもジローとともに、苦笑いするよりほかはない。
かろやかな足音が階段をのぼってくる。小部屋の戸口から、この翡翠亭のかみさんが顔をのぞかせた。亭主はボリスといくつも変わらぬ中年男だが、女房はまだ若い。年に差のある夫婦とは、この国の国王夫妻とおんなじだ。
「下っ端連中は、だんだんと居心地が悪くなってるみたいよ。うちもそろそろ、あすこの一家はお断りにしなくちゃね」
塩を振って焼いたばかりのニジマスをならべた大皿と、火酒のおかわりの壺も置き、お盆を抱えてかみさんは言う。えび茶の髪を高く結い上げ、あざやかな色の布地で包んでいるのがしゃれている。ジローとは正反対に、いつもなにかに驚いているような丸い瞳に愛嬌がある。
「そうそう、ダーヴィドの子分のところで働いてる女中が一人、もう辞めたいんだって。うちでしばらく匿ってやってもいい?」
「すまんな、頼めるか」
「ああ、いいにおいだなあ。ジローさん、きてるのかい? ──お、旦那もいなさったか。ちょうどいいや」
道具箱をかついだ三十過ぎの大工が現れた。こいつはうまそうだ、と魚の串に手を伸ばし、ふうふう息を吹きかけながら言う。
「旦那、あせってるぜ、やつら。イヴォン街の化けもの屋敷、手入れしてえって、うちの棟梁んとこにきやがった」
「手入れだって?」
「そうさ。もうちっと、塀を高くしてえんだと。笑っちまうだろ? 棟梁は気が荒えから、けんもほろろに追い返しちまったよ。引き受ける馬鹿がいるかなァ」
大工はニジマスにかぶりつき、にやにや笑う。ジローがすかさず身を乗り出した。
「その仕事、誰が請け負うか探ってくれるかい?」
「あたぼうよ。おいらに任しときな。受ける大工がいたら、たたきのめしてやらあ」
「──旦那、旦那」
そしてまた一人、また一人──翡翠亭の二階には、次々と客が訪れる。
「刀剣匠の親方たちゃ、昨日の寄り合いで、どっちにもつかねえって決めたらしいよ」
「ダーヴィドの野郎、兵隊を集めようってんで、やっきになって触れを出しちゃァいるが、みんな二の足を踏んでるみてえだぜ」
──謁見での裁可は、ボリスからジローを通じ、その日のうちに彼らへ伝えられた。話を聞いた皆は、がぜん色めき立った。
エレメントルート伯爵夫妻はともに十代。年端もゆかぬ若夫婦だ。唯一の味方だった王太后はこの世を去った。どっちが黒幕だか知らないが、国王と王弟、血のつながった伯父貴二人に見捨てられてしまった。騎士団は出ないうえ、国許から援軍を呼ぶことも、王都で兵を募ることも禁じられた。
なのに、王さまの騎士のまんまでいたい、って言ってのけるなんざ、泣かせる話じゃねえか──この新たなうわさは、今まさに翼が生えて飛ぶがごとく、王都中を駆けめぐる真っ最中である。
王都の民は、正義感の強い人情家がそろっている。みんな弱いものいじめが大嫌いな、気のいい連中だ。彼らを味方につけられれば、どれほど状況が不利になろうと覆せる。
すい、と、気持ちのよい風が頬をなでた。
いつのまにか人いきれがして、誰かが窓を開けたらしい。春がくるまであともう少し。まだ冷たい風が、ひとそよぎ。
知恵と力を貸してくれる、友軍の頼もしい兵士たちと、笑って酒を酌み交わしながら、ボリスは思う。──必ず、こちらへ風を吹かせてみせる。




