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 俺はいわば、不退転の決意をもってこの場に(のぞ)んだのである。


「エディット」


 名を呼ぶと、エディットが本に落としかけた視線を上げた。突然なにを? という顔だ。軽く目を(みは)る。


「今夜も──」


 きれいだ。清純で、そして、強い意志の光が宿る彼女の澄んだ瞳。いつも凜とした頬は湯上がりで薔薇色に染まり、絹の夜着の襟元から形のいい鎖骨がのぞく。


 本当にきれいだ。


「僕は、こ、ここに」

「え」

「泊まっても、いいでしょうか……」


 なんとなく尻すぼみな声になってしまった。


「………………」


 ぱち、と、エディットが瞬いた。頬の赤みがだんだん濃くなって、耳たぶまでじわじわと広がってゆく。最近わかった。この人、自分が押すのはいいけど、押されるのには弱い。


 俺が見つめれば、エディットは目をそらす。二人ならんで長椅子に腰かけるのって、今ひとつ()()()()()と思いませんか。確かに距離は近い。だけど、どんなに彼女に体を向けても、真正面から顔を見られない。お互いの膝が邪魔をして、これ以上彼女に近づけない。


「エディット……?」


 あっちを向かれてしまったので、下からのぞき込んでみた。紫の瞳がうろうろと泳ぎ、ついにはやり場を失ったらしい。いきなり、ぎゅうっと抱きしめられた。──あの、なんにも見えないんですけど。やわらかくて意外と大きなものに顔を押しつけられて。


「わたしは……」


 とても小さな声。「あなたはずっと、この部屋にいるのかと思っていたが……」


「いいんですか?!」


 たぶん俺の声は、相当くぐもって聞こえたと思う。だって、彼女が放してくれないんだもの。


「……うん」


 たまらなくなって無理矢理顔を上げた。そうすると、少しだけ体を離さざるを得なくなる。俺たちのあいだにできるわずかなすきまが、やっぱりもどかしい。


 でも、おかげでエディットが恥ずかしそうに浮かべる笑みを見られた。生じた距離を埋めるべく、俺たちは口づけを交わす。


 思いきって()いてみてよかった……と、俺はひそかにこぶしを握りしめる。ただし、俺一人で出せた勇気ではない。俺の背後には頼もしい援軍が控えていて、力強くあと押しされている気がしてならないのだ。


 ここはエディットの部屋だ。居室の壁にはさっそく本棚を増やし、本邸襲撃以来積んであった本はすべて収まった。それに加えて、なぜか俺の部屋に置きっぱなしだった本もならんでいる。長椅子には俺のクッション。寝室のベッドにも枕がひとつ増えたようだし、賭けてもいい、クローゼットを開けたら、俺の衣類が残らず移されているに違いない。


 まあ、俺という住人が一人くらい増えたところで、部屋は非常に広い。ベッドだって、二人で寝転がってもまだまだ余裕たっぷりだ。いっしょに読み始めた魔法使いの時間旅行のお話は、なかなか先に進めそうもない。


 ──エディットの休暇は短い。あっというまに時が過ぎてゆく。


 俺のよそ行きを新調することになった。王宮へ出向く日のための礼服だ。もう変装はしない。だから、俺の本当の丈に合った衣装が必要だ。


 仕立て屋を呼んで採寸してもらう。布地の色や型について、エディットがあれこれ口を出す。俺は、エディットのドレスも作りましょう、と言ってみる。俺が彼女のドレス姿を見たのは、結婚式と爵位授与式のときだけだから。


「ば、馬鹿を言うな。そんな格好で行く場面じゃないだろう」


 真っ赤になった彼女に、かなりの勢いで拒否された。──そうかなあ。美人の姪っ子がきれいな衣装でお願いしたら、王さまだってすんなり許してくれるかもしれないじゃない? やくざの親分をとっちめてもいいですか、なんて、ずいぶんおっかない()()()()だけど。


 俺の衣装は、最高の仕立て屋が疾風迅雷の速さで仕立ててくれた。


 同じころ、新たな『証拠の手紙』も彼女のもとへ届けられた。どういう細工なのかは知らないが、白かったと思われる封筒がそこはかとなく黄ばみ、ちょっとした破れ目やしわなんかも、じつに本物っぽい。色あせたインクの跡といい、堅くひび割れた封蝋といい、知っていても、作りものとは思えない出来映えだ。


「謁見のときに、持っていくんですか?」


 尋ねた俺へ、エディットは笑ってかぶりを振った。


「いざというときの、お守りにしておくだけだ」


 そう言って、手紙を書棚の奥の隠し戸棚へしまい込むと、鍵をかけた。


 こんなに長い時間、彼女と過ごすのは初めてだ。俺たちはいっしょに食事をし、二人で本を読み、同じベッドで眠る。毎朝目覚めると、彼女と瞳が合う。手を伸ばせば、たやすく彼女に届く。俺たちはたくさんの話をした。──お互いの家族。ふるさと。好きな本。謁見のことは、すでに宰相閣下へ伝えてあるそうだ。エディットの休暇明け、俺の伺候の許可も出た。


 王宮へ行く朝がきた。


 侍女のバルバラが、俺の赤毛を整えてくれる。前髪を上げ、額を出して後ろになでつけると、うん、われながら大人っぽいんじゃないだろうか。礼服の生地はほとんど黒に近く、タイの色はエディットの制服と同じ、濃い灰色を選んだ。靴の(かかと)は当たり前の高さ。かさ上げしなくても、このうちにきたころと比べれば、多少は背が伸びている。


「──どうでしょうか」


 鏡の中の俺の向こうに、制服に着替えたエディットが映っている。


「………………」


 眉を寄せ腕を組み、怖いまでに真剣な表情である。振り返って見上げると、頭のてっぺんからつま先まで、とっくりと何往復もながめられた。


「エディット?」

「…………」

「僕、変じゃありませんか?」

「……ああ」


 一応はうなずいてくれたけど、どういうわけか、エディットはくるりと後ろを向いてしまう。俺はあわてて彼女の前に回り込んだ。


「やっぱり、おかしいでしょうか」


 正直あせる。もしかして、ぜんぜん似合わない?


「いや……」


 どうしてほっぺたが赤いんだろう。エディットは、こほん、と咳払いをした。


「なかなか……」


 なかなか?


 結婚指輪をはめた手指へ、彼女の指がからんでくる。もう一方の手は、俺の腰に回る。おそらく服にしわがつかないよう、彼女は優しく俺を抱き寄せた。


「……悪くない」


『まあまあ』よりは()()かなあ──顎に指がかかってキスされるあいだ、俺はこっそり考える。


 王宮へ──


 主宮殿の車寄せで馬車を降り、エディットとならんで正面階段をのぼる。馬車の紋章に気づいた衛兵が、扉に両手をかけた。ゆっくりと開く巨大な扉の先へ、俺たちは足を踏み入れる。


 俺はまっすぐ前を向き、胸を張って歩いた。すれ違う人々が俺を見る。けげんそうな顔、驚いたような目つき、ひそひそと交わす声──()()エレメントルート伯爵、赤毛のちびが俺の本当の姿だと、すでに話題になっているようだ。そのほうがいい。説明する手間が(はぶ)けて、いっそ話が早い。


「キトリー領主、伯爵、カイル=エレメントルート卿。近衛隊、王后陛下親衛隊長、エディット夫人──」


 触れの声が高らかに響く。大きな音を立て、謁見の間の扉が開かれる。中の人々がいっせいにこちらを向いた。


 純白の衣をまとった始まりの大神が、御子を大地へつかわす姿を描いた天井画が真上にある。謁見の間は、おごそかな空間だった。玉座まで敷かれた深紅の絨毯。俺とエディットは、神々の像のように居ならぶ高官たちのあいだを進み出た。


 正面に座るのは、アセルス国王、マティウス二世。


 ──大丈夫。


 エディットの落ちついた瞳が俺を見る。俺も彼女を見返す。俺の守護精霊(ぞるがんど)、カローロの声は聞こえない。俺が恐れるようなことは、きっとなにも起こらない。


 険しく厳しい、暗いまなざしを持つ国王。若いころの彼はひどく粗暴で、残忍とさえいえる気質だったという。けれど、現在のアセルス王国はまずまず平和で、裕福な国だ。周辺の国々とも良好な関係を築いている。


 隣には王后、アントニエッタさま。俺たちを見つめる瞳が気がかりそうだ。王后さまの故郷ハティア王国は、とても小さく、貧しい国である。ほかには誰一人、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


 一段下がって王弟夫妻。シベリウス殿下は、国王の魂から闇の部分を抜き取り、代わりに光をそそぎ込んだみたいに、ものやわらかな表情だ。兄であるマティウス王子廃嫡の話が幾度持ち上がっても、決して兄を押しのけようとしなかったと聞く。彼は常に国王のそばにいて、治世の補佐に尽力を惜しまない。隣には相愛のクララ夫人。


 ──いた。


 レールケ伯爵だ。俺たちが仮面の男と目する貴族。彼は王弟シベリウスの側近だ。相変わらず病身のように青白い顔で、夫妻の斜め後ろにひっそりと控えている。


 俺たちは玉座の前で片膝をつき、(こうべ)を垂れた。


「エレメントルート卿」


 謁見の間は静まり返る。国王のかたわらに立ち、口を開いた宰相ゾンターク公爵の(おもて)は美しい。平静で感情を表さず、(あお)の塔でオドネルといっしょにいた俺が、今の俺と同一人物だと気づいているかはわからない。


「こたびのことは、いわば特例と考えられよ。先日の、貴卿(きけい)の屋敷で起こった火災、ならびに一連の騒動について、なにか申し入れがあるとの(よし)

「は、はい」


 俺は目を上げず、玉座の下の段を見て答えた。


「国王陛下のお膝元をお騒がせし、まことに申し訳ございませんでした」

「これは殊勝な心がけ」


 宰相は、うすあかい唇に微笑みを浮かべた。どうやら俺は褒められたと見える。


()(かた)にも尋ねたき儀があり、参内を差し許した。暴漢に屋敷を襲われるなど、尋常の仕儀ではあるまい」

「はい」


 国王は、領主に預けた土地で起こる事柄に、めったなことでは介入しない。王都にある各領主の私邸も、領地の一部と解される。しかし、王都は国王の治める地、王都の民はすべて国王の民である。疑念は至極もっともだ。


()()()()を働いた(やから)の首魁に心当たりがあるとは、まことか?」

「はい。ダーヴィドといい、無頼のものをたばねる香具師(やし)の元締めです」

「なにゆえ、そやつのしわざとわかる」

「すでに」


 俺は、軽く息を吸いこむ。


「襲撃に加担した何名かを捕らえ、ダーヴィドの命によって私の屋敷を襲ったという自白を取りました」


 おお、と、高官たちのあいだでどよめきが起こる。どことなく、意外なことを耳にした、というよりも、やはり、というたぐいの声だ。それだけダーヴィドがエレメントルート伯爵家と敵対していることは、世間に知れ渡っている。


「なるほど……」


 コツ──靴音がして、ゾンターク公の足が一歩、こちらへ踏み出した。


「なぜ、こなたの屋敷が襲われる?」

「以前から、狙われていました」

「ほう……以前から」

「はい。私は昨年の十一月、ダーヴィドの手のものに拉致され、監禁されました。私の妻も」


 俺は、かたわらで同じように(ひざまず)くエディットを見返る。


「ハティア王国からの帰路、ダーヴィドの配下に襲われました」

「──まあ!」


 小さな叫びは王后さまの声だ。彼女は知らなかったのだ。エディットが伏せていたのだろう。


()()?」


 宰相の声音は執拗ではない。むしろ彼は、釈明の機会を与えてくれている。公平な人なのか。それともなにか思惑があるのか。


「おそらく、私たちが」


 少しだけ、目線を上げてしまう。「妻の父を殺害した(かたき)を、探しているからです」


「セドリックか……」


 (こた)えたのは、宰相ではありえない重々しい声だ。どきり、と、胸が鳴った。


「……(おもて)を上げよ」


 知らず知らず、体が震えていた。マティウス二世に会うのは、もうこれで三度目なのに。──俺はゆっくりと、頭を持ち上げる。


 俺を見据える小暗い瞳と目が合った。(かげ)りはあるが端整な目鼻立ち。荘厳な玉座にどっしりと構えるさまには、若きころの猛々しさの名残か、武人のおもむきがある。今が戦乱の世であったなら、彼はどれほど勇ましく頼もしい王だろうか。


「われらが妹、エルヴィンの娘、エディット……」


 国王は、静かに俺の妻へ呼びかけた。





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