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「カイル、待て」
「待ちません」
俺は居間をあとにする。みんなはとっくに仕事へ戻ってしまった。エディットが休暇のあいだ、蒼の塔はお休みだ。俺は二階の図書室に避難するつもりである。
「カイル!」
怒った声のエディットが、すぐに追いかけてくる。
「どういう意味か、わかって言っているのか」
「もちろんです」
急ぎ足で階段をのぼり、廊下をゆく。壁に飾られた、この家のご先祖さまたちの肖像画の前を通り過ぎる。立派な燕尾服の、いかめしいひげを生やした老人は、エディットのおじいさまだ。その隣、ひときわ大きな金の額縁の絵が義父上と義母上──セドリック卿とエルヴィン夫人。二人の結婚式の姿。
「カイル、わたしの話を聞いてくれ」
「嫌です」
図書室の扉を開ける。ずらりとならぶ書棚と書物は、本邸襲撃の際にも無事だった。代々のあるじが、手に入れた順にただ突っ込んだのだろう。ほとんど整理も分類もされていないのがいい。どこになんの本があるか、俺はいまだに把握しきっていない。訪れるたびにわくわくする。まるで本の森を探検するような気分になれる。
今日はどれにしようかなあ。本当は、魔法使いの時間旅行のお話の続きが読みたいけど、彼女は本なんか読む気分じゃなさそうなんだもの。
エディットが俺の行く手に立ちはだかった。それはそれは恐ろしい目でにらむので、俺は回れ右をする。反対側の書棚を見ようとしたら、もういっぺん回り込まれた。ドン、と乱暴に棚へ手をつき、ぐぐっと顔を寄せてくる。
「話を聞け、カイル」
憤懣をこらえる代わりのように、エディットは大きく息を吐き出した。
「わたしがこんなことを言うのは、おかしいかもしれない。だがせめて──」
「僕にお城へ行ってほしくないんですか?」
しかたがない。俺はため息をついて彼女を見上げた。
休暇が明けたら、エディットは国王マティウス二世に謁見を申し込む。ダーヴィド捕縛の許可を得るためで、そこには俺の同席が不可欠だ。
だいたい、いっしょに行ってくれと言い出したのは、エディットなのだ。ダーヴィド一家に拉致され、屋敷にいるところを襲われた俺が、彼女とともに旗頭に立つ。当然だろう。俺がいるのといないのとでは、人の見方がまったく変わる。
なのにエディットは、俺が仮装──金髪のかつらと上げ底の靴で──をせずに王宮へ行くのが不満なのだ。思いきり口がとんがっている。
「もちろん、行ってほしくないわけじゃない」
「だったら別にいいでしょう」
どんな格好で出かけようが、俺の勝手だ。けれど、エディットは納得しようとしない。
「頼む、カイル、よく考えてくれ。いざというとき、あなただと気づかれていなければ、どこにだって逃がしようがあるんだ」
「僕はなにがあっても、どこにも逃げたりしません」
俺は首を振った。
「それに、じっくり見られたらばれるんですから、あんな程度の変装は意味ないです」
そもそも顔の造りはそのままで、一見したときの印象を変えていただけなのだ。実際仮面の男は、ひと目で俺の正体を見破った。効果のほどは知れている。
さらにいえば。
「本当の僕はこんなだって、もう結構知られちゃってます」
「なんだと?」
「エディットも、いっしょだったじゃありませんか。オレース街で」
ダーヴィドの館から逃げたあと、俺たちは大勢の人に姿を見られている。王都の住人に顔を知られたエディットと連れ立っていたのは誰なのか、気づいた人も多いのではなかろうか。ダーヴィド一家全員にも、俺の人相書きが回されてしまっただろう。
などと述べると、エディットは、ぐっと真一文字に唇を結ぶ。
「このあいだの襲撃のあとだって、そうですよ」
俺は改装中の様子を彼女に告げる。そりゃあもう、ものすごいありさまだったのだ。内外装や家具に関わるあらゆる商売の人々が、昼夜を問わず本邸めがけて押し寄せた。
昼間は追い出されて蒼の塔へ出かけていたが、日が暮れれば帰らざるを得ない。俺が「旦那さま」なことは、みんなの態度で一目瞭然だ。
ようするに、俺がエディットの夫のエレメントルート伯爵で、人前では姿を変えていたことは、王都中に知れ渡っていると考えたほうがいい。人の口に戸は立てられないのである。
「オーリーンめ……」
エディットはたいそう悔しげに歯噛みする。俺は目の前の棚から手近な一冊を抜き取った。──迷宮の奥深くまでたった一人で乗り込み、魔物を狩って宝を得るのをなりわいにする男の物語だ。
「オーリーンさんのせいじゃありません。あんな状況で隠れているなんて、無理です」
衣装部屋まで職人が入ったのだ。俺が姿を見られず過ごせる場所など、どこにもなかった。──でもたぶん、秘書は見られてもかまわないと思っていたに違いないけど。
俺は、こちらをにらむ紫の瞳を、きっちりと見つめた。
「だからもう、僕は変装はしません」
よし、言い切った。
「…………」
エディットがむくれているのを尻目に、俺は棚へ本を戻す。──魔物狩りの男の気分じゃないな、今日は。もっと愉快なお話がいい。
上の段に、面白そうな題名を見つけた。向こうから脚立を運んでくる。踏み板をのぼって天板に足をかけたとき、俺の腰に腕が回った。
「あっ」
問答無用だ。背中が彼女の胸のふくらみに当たる。エディットは俺を抱きかかえて、脚立に腰を下ろした。俺は彼女の膝の上に、横抱きに座らされる。
そんな目でのぞき込むのはずるい。胸がどきどきしてしまう。不服そうな唇に、口づけしたくなってくる。
「カイル」
「ぜ、絶対に、変装は嫌です」
怖い声を出したって無駄だ。俺は急いでかぶりを振った。「降ろしてもらえませんか?」
足を伸ばしたが、床まで届かない。身じろぎしても、彼女は俺を放さない。
「エディット、誰かがきたら──」
「…………」
「あっ、やっ、やめてください」
「…………」
「だっ、だめです! こんなところで……あっ!」
言い負かされたからって、こういう仕返しするの、よしてくれない?!
脚のあいだへ手が伸びてくる。叫び出しそうになった唇は、唇で覆われた。ここは図書室なのに。ついつい応えてしまう自分が憎い。
──顔を離したとき、エディットの瞳には憂いの影が残っていた。
俺を心配してくれるのはわかる。でも、俺の本当の姿を知るのは、敵ばかりじゃない。銀星館のラウラや女の子たちは言わずもがなだ。俺が身につけるものをあつらえてくれた仕立て屋や靴屋の人たち。王家の離宮でおばあさまのお世話をしていた人々。彼らにはきっと、あらかじめこちらの意図を伝えてあった。エディットには、ずっと前から大勢の味方がいたんだ。
俺は彼女の肩に、頭をもたれた。
「このあいだの夜……」
「ん?」
「僕は、エディットがうちにいなくて、よかったと思っています」
襲撃の晩、彼女が留守でよかった。
両親の思い出が残るこの屋敷を、大勢のごろつきどもが泥足で踏みにじる。エディットが、そんなさまを見ずにすんでよかった。窓を割り、扉を破り、火をかけようとする暴漢たちをまのあたりにしたら、彼女の心はどれだけ傷つき、怒りに震えただろう。
「…………」
俺の髪へ、ためらいがちに頬が寄せられる。
「わたしの身勝手のせいで、あなたを巻き込んでしまった」
「…………」
「あなたには、本当に申し訳ないことをした……」
彼女の背中へ回した腕に、俺は黙って力を込めた。そんなことはありません、と否定するのも、そうですね、と肯定するのも、どちらもたやすい。
けれど、口にしたくない。言葉にしてしまったら、俺たちが今こうしていること全部がかき消えてしまいそうだ。
彼女に罪の意識を持ってほしくないと思うのは、俺のわがままだろうか。だって俺は、彼女が俺にしてくれるすべてのことが罪悪感のためだなんて、思いたくないんだ。
だからお願い。もう、言わないで。
彼女の唇へ、そっと接吻する。俺がもっと強ければ、自分で自分の身を守ることができれば、彼女は安心してくれるだろうか。
うーん、どうかなあ……と、俺は思う。彼女は相当過保護な心配性だ。──でも俺だって、気になってるんですけど。
「ノエルの街で襲われたのって、ぜんぜん平気だったんですよね?」
「当たり前だ」
さも心外なことを訊かれた、と言うふうに、エディットの柳眉がちょっと上がる。
彼女とドワーフおじさん、グレイの父親までそろっていたのだ。近衛騎士の助けもあったっていうし、たいしたことじゃないのはわかってるんだけど……
ふふん、と、エディットは頬に不敵な笑みを浮かべた。
「見ただろう?」
「え」
「かすり傷ひとつない」
……どこに?
「い、いいえ、僕は見てません」
「ふーん? そうか?」
「はい、ぜんぜん、な、なんにも見ていません」
勢いよく首を振る俺を見て、エディットはくすくす笑う。そうして俺たちは、もう一度、唇を重ねた。
もちろんこれは、ずっとあとから知ったことになる。
俺の想像は、あながちまとはずれでもなかった。去年の夏、大聖堂で執り行われた結婚式の際、多くの人々が金色の長髪の『エレメントルート伯爵』を目にしていた。その彼と、本当の俺はいささか違っていることが、少しずつうわさになって広まっていた。
襲撃を受けた本邸を改装するあいだ、多くの職人や商人たちが、邸内で一人の少年の姿を垣間見た。ゆるく巻いた短い赤毛に緑の瞳、やわらかな目鼻立ちの華奢な子ども。職人たちと直接口をきくことはなかったが、次第に皆にはわかった。──彼こそが、『伯爵』その人であると。
もう十四年近くも昔、セドリック=エレメントルート卿は、王宮の奥深く、主宮殿の一画でなにものかに殺害された。つまるところは、主宮殿に出入りできる身分のものが犯人に違いないのだ。エディット姫は夫となる少年の身を守るため、高位の人々には決して彼の本当の姿を見せないようにしていた──
そんなふうにして、少しずつ、少しずつ。




