68
「カイル!」
エディットの瞳が、俺を見つけて輝いた。
長い黒髪がひるがえる。彼女がこっちに向かってくる。まるで駆けくらべする男の子みたいに息をはずませて──そのまま腕を引かれて抱きしめられた。ふんわり落ちる彼女の外套が、俺まで包み込むように肩を覆う。
「……ただいま」
耳元でささやくのは、間違いなく彼女の声。
「……おかえりなさい」
「うん」
顔を見る暇なんてなかった。唇を唇で覆われた。──苦しくなって身じろぎすると、ほんの少し、腕をゆるめてくれる。顔をもぎ離すようにして、なんとか息をつく。
「あ、あ、あ、あの」
「ん?」
吸いこまれそうに深い紫の瞳に見つめられると、どんどん頬が熱くなってしまう。
「みんなが、見てます……」
……断るまでもなく、ここは玄関ホールのど真ん中である。
およそ一か月半ぶりに、エディットがわが家へ帰ってきたのだ。オーリーンをはじめ、ワトキンス、グレイ、バルバラ、ネロ──全員が勢ぞろいでお出迎えだ。彼女の従者のドワーフおじさんと、馬車をうっちゃらかしてきたらしいマイルズまで入ってきた。多少そらしたところで、俺の目線にやり場なんて、どこにもない。
しかし、抗議もむなしく、彼女の腕はしっかりと俺を抱えたままだ。
「そうだな」
珊瑚色の唇が、やわらかく微笑んだ。「あなたはわたしだけを見ていればいい」
顎に指をかけて持ち上げられる。そんなことを言われても、簡単に見ていられるなら、苦労はしない。
──あっ、そうだ! 今こそ目をつぶればいいんじゃない?!
思いっきり目を閉じた。確かに誰の姿も見えなくなった。ただちに唇をふたがれる。息が止まってしまいそうだが、俺にはなにをどうすることもできない。全身から力が抜けてゆく。
硬い銀の胸当てに、くらくらと身を預けてしまった。俺の腰を抱き寄せて、エディットは一人一人を順々に見回した。
「みんな、留守中よくやってくれた」
凜と張った声には、万感の思いが込められていた。
「奥さま、おかえりなさいませ」
一同を代表するように、秘書のオーリーンが前へ出て頭を下げた。下男のマイルズが、ぐすん、とすすり上げる。執事のワトキンスは射るようなまなざしを向けて、彼女に問う。
「お食事はいかがなさいますか」
「うん──いや、まず湯殿のしたくを頼む。次に食事だ」
「かしこまりました」
彼女がうちで夕食をとるとわかったとたん、料理長のネロの丸顔が、お日さまみたいに明るくなった。
「……エディットさま、先にお着替えを」
侍女のバルバラが口ごもりながら言い、ちら、とグレイを見返った。背高従者はみんなの輪の外で一人しょぼんとうつむいている。──だがこれは、避けて通ることのできない道だ。
エディットはうなずいた。
「ああ、そうしよう。カイル、あなたは食事をすませたのか」
「いいえ、まだです。あの……いっしょにと思って」
俺を見るエディットの瞳が、どういうわけか意地悪そうに瞬いた。
「いっしょに? 誰と?」
え?
「えーと、よかったら、二人で、いっしょに……」
「ふうん」
ずいぶん面白くなさそうな口をされた。「……なかなか手ごわいな」
「?」
「なんでもない。こっちの話だ」
言うなり身をかがめる。──戸惑う暇もなく、俺の体はたちまち浮き上がった。もちろん誰も魔法なんて使っていない。俺は彼女に軽々と抱き上げられたのだ。
「あ、あの!」
「ん? なんだ?」
「や、やめてください! 下ろして!」
なんで? どうして? 俺はぜんぜん、具合が悪いわけじゃない。
俺が少々暴れたところで、エディットはまったく頓着せずに涼しい顔だ。胸の鼓動は限りなく速く打ち、全身がほてるように熱い。
「それはわたしに言っているのか?」
エディットは階段へ足を向ける。俺たちのあとを、お祭りの行列みたいにみんながぞろぞろついてくる。
「そうです! 早く下ろしてください!」
「前より重くなったな。また背が伸びたんじゃないか?」
俺の背丈の話なんて、今はどうでもいいことじゃない?!
「……わたしのために、あなたが力を尽くしてくれたと聞いた」
甘い声音で耳元にささやかれる。「……ありがとう、カイル」
だから、そう思ってるならどうしてこんな意地悪するの?! せっかく久しぶりに会えたのに──なんだか泣きたい気持ちになってくる。
エディットは階段のなかばでピタリと足を止めた。じっ、と、俺から瞳を離さない。
「そんなに下ろしてほしいのか」
こんなところで立ち止まったら、危ないじゃないか。下手によろけて転びでもしたら、俺が彼女に怪我をさせてしまう。
俺は急いでエディットの外套にしがみついた。──伝わってくるのは、温かくてやわらかな彼女の体温と、艶のある髪のにおい。
「カイル、どうなんだ?」
「え」
「本当に下ろしてほしいのか?」
まるで怒ったみたいな口ぶりだ。紫水晶の瞳が、すねてるように俺をにらむ。
「え、ええっと……」
「………………」
「僕は……」
ちょっと悔しいけど……
「いいえ……下ろしてほしくありません……」
すると、エディットはすばやく目をそらした。──あっ! 今のなに? 今、にやっとしたよね? 絶対勝ったと思ったでしょ?
ワトキンスが先に立ち、扉を開けた。彼女にとっては久しぶりの自分の部屋だ。俺はようやく床に足を下ろすことが許された。呆然と瞳を見開くエディットを見上げる。──後ろでは、グレイがますます肩をすぼめていた。高い背丈をちぢめて、どこかへ消え去ってしまいたいという様子だ。
割られた窓も、燃えてしまったカーテンも絨毯も、すべてが元通りになっている。理不尽な暴力にさらされた無惨なさまを、少しだって彼女に見せまいと、オーリーンはお金も労力も惜しまなかった。けれど──
「……私の力が及ばず、まことに申し訳ございませんでした」
銀縁眼鏡の奥で、オーリーンはひどく沈痛な面持ちである。
「いや……」
エディットは静かに首を振る。──壁に沿ってならんだ書架の前には大きな机が用意されて、ありったけの本が積み上げられていた。
カーテンや絨毯なら、同じ布地や意匠のものを用意すればいい。焼け焦げた家具は修繕し、壁紙だって張り替えてしまえばいい。どこにも煤の跡ひとつ残っていない。だが、水に濡れた本だけは、どうすることもできなかった。
屋敷を襲った暴漢たちは、何組かに分かれて窓を割り、松明を中に投げ入れた。梯子をかけて二階へ上がってきた組は、エディットの部屋と俺の部屋に押し入った。
炎を消し止めたのは、グレイが魔法で降らせたすさまじい雨だった。天の底が抜けたかと思うほどの豪雨が、割られたり、開けられていた窓や扉から室内に流れ込んだ。
窓が無事だった図書室に水は入らず、大きな被害はなかった。しかし、俺が寝起きしていたエディットの部屋は、鉄槌でガラスを割られ、バルコニーの窓が開け放たれていた。
だから。
セドリック=エレメントルート卿が集めた書物の半分以上は、水を吸って大きくふくらみ、乾いたあとも、ごわごわにゆがんでしまった。紙と紙とが張りつき、無理に開こうとすると破れてしまいそうな本もある。
「あの、これを……」
俺は上着のポケットから、ぼろぼろの封筒を取り出した。元は『証拠の手紙』だった残骸である。
ひとつだけ言い訳をするなら──万が一にも、誰かに奪われてしまわないように、と思ったのだ。
俺はあの夜、襲撃の直前に、隠し戸棚から手紙を取り出して身につけていた。その後雨に打たれてずぶ濡れになったため、ポケットに入れた封筒も、ぐずぐずのよれよれになっていた。表書きはインクがにじみ、もうなにが書いてあるのかさえわからない。
「うん」
エディットは笑みを見せた。俺の手から封書を受け取って、表書きをそっとなでる。そして、顔を上げた。
「──ボリス」
「は」
エディットと同じく旅装のままの、ドワーフおじさんが進み出た。
「すぐに代わりのものを作らせてくれ」
「承りました」
「いつごろになる?」
「そうですな。七日ばかりいただけましたら」
あ、そんなに簡単に作れるものなんだ……
偽物でよかった……と言ってしまっては、あまりにもグレイに申し訳ない。
「グレイ」
「はい……」
エディットが呼ぶと、みんなの後ろから魔法剣士がしおたれた姿を現した。
「エディットさま、私は本当に、取り返しのつかないことをいたしました……」
「なにを言う」
高いところにある若い従者の顔を見上げ、エディットは強くかぶりを振った。たばねた髪がしっぽのように揺れたほどだ。
「グレイ、ありがとう。あなたがいてくれてよかった。おかげでわたしは、なにひとつ失わずにすんだ」
「エディットさま……」
みるみるうちに青灰色のたれ目がうるんでしまう。全員が安堵の息をもらす。グレイはお仕着せの袖でしきりと目をこする。
──食事やお風呂のしたくがある。みんなは部屋を出ていった。誰もがそれぞれ浮き足立ったように上機嫌で、にこにこしている。着替えの手伝いに残ったバルバラへ、ドワーフおじさんがこっそりなにかを手渡していた。
俺は長椅子に座ってエディットを待っていた。かくれんぼの鬼になったみたいに目をつむり、ずっと胸をどきどきさせていた。
室内はとても静かだ。エディットがバルバラに言葉をかけているのが、ここまで聞こえてくる。時折、暖炉で薪のはぜる音が二人の会話に混じる。──ややたって、侍女が出てゆく扉の音。
「……カイル」
後ろから、声がした。
俺は目を開けて、ゆっくりと振り返った。
──まぼろしじゃない。
部屋着に着替え、髪をほどいたエディットが立っていた。穏やかな瞳の色で、美しい微笑みを浮かべて、俺を見ている。エディットが、本当に帰ってきたんだ。
彼女は両手を後ろに回していた。かすかなきぬずれの音をさせて近づいてくると、俺の隣に腰を下ろした。四角い紙包みを膝の上に載せる。
「ノエルという街で買ってきた」
「え」
「あなたの気に入るといいんだが……」
不安そうにも見えるまなざしが、まるでこちらの様子をうかがうようだ。
……俺に?
「ありがとう、ございます……」
受け取れば、ずしりと重い。即座にわかった。茶色い紙の下の感触、これは、本だ。俺は十字にかけられたひもを夢中で解いた。
「………………」
三冊も。
すごい。これは大昔に滅んだルクトレアの建国王、トニ=ルクトレアと五人の仲間の冒険譚の、後日談だ。続きがあったなんて知らなかった。もう一冊は、時間をさかのぼる呪文を見つけた魔法使いが、未来を変えて大もうけをたくらむ物語。そして、最後が──
「本屋の主人が言うには、それには『秘法』が書かれているらしい」
エディットは、くすりと笑う。「どんな秘術なのかは知らないが……」
いかにもな雰囲気の漂う、古びた革表紙である。題名とおぼしき箇所には、書かれた、というより、刻まれたような深い溝が、蛇のようにのたくっている。これは異国の文字だろうか。
「カイル、知ってるか? この大陸から海を渡って南に行くと、もうひとつ大陸があるそうだ」
「まさか」
「その大陸からきた魔法使いが持ってきたという話だ、この本は」
白い手が伸びてきた。エディットの指の背が、俺の頬に触れる。
「……あなたがいつか、大魔法使いになったときに、読み解いてみるといい」
「…………」
いきなり我慢できなくなって、俺は腰を浮かせた。彼女の唇へ、すばやく口づけする。
お互いの額と額が触れた。俺たちはなんとなく笑い合う。三冊の本の中から、時間旅行をする魔法使いのお話を選ぶ。膝の上で見返しをめくると、エディットが肩を寄せて俺の手元をのぞき込んでくる。
ずいぶん長いあいだ、そんなふうにして、いっしょに文字を目で追った。彼女がいいと言ったら、俺が頁をめくるのだ。
俺たちがなかなか降りてこないから、みんなはやきもきしていたようだ。──くじ引きに負けたマイルズが、お湯が冷めると言って呼びにきたのは、およそ一時間ほど経ってからだった。