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65

 かつて、魔法使いは『兵器』だった時代があった。


 魔法使いは言葉をあやつる。魔法使いは言葉に力を与える。『呪文』という彼らの言葉はその手に宿り、指先へ、そして『魔法』となって現れる──


 ガラスが割れた音は、一階の奥のほうからだ。グレイは顔を振り向けた。


「──『ヴィルヘルミナ』」


 呼びかけに(こた)え、丈の高い従者の影が、ぞろりと動く。陰々と、地の底から響くような()()()があった。


『お呼びでしょうか』

「行けるか?」

『ええ、どうにか』


 明らかに人ではないのに、女の声だと俺にもわかる。──ふっと、グレイの足元の(うごめ)きが消えた。俺が手にした燭台の小さな光で作られた、ごく当たり前の薄い影に戻っている。


 俺は唾をのんだ。さっきグレイは、「結界をぐちゃぐちゃにかき回されている気がする」と言った。おそらく屋敷の近くに魔法使いがいて、彼の魔法を(さまた)げている。


「グレイ!」


 暗い廊下の向こうから、侍女のバルバラが走ってきた。今夜の夜番を務める彼女は、メイド服でも寝間着姿でもない。黒装束の両腕に手甲をはめた完全武装だ。息を切らし、いつもはさらりと整った金茶の髪が少々乱れている。


「旦那さまも、起きていらしたんですね。──グレイ、思ったよりも大勢きたみたいよ。今の音は?」

「食堂からだと思います。今、様子を見に行かせました。皆さんは?」

「マイルズが起こしてまわってるわ」

「なら大丈夫ですね」


 グレイが笑みを見せた。彼を見上げるバルバラが、ほっと肩の力を抜いた。──そのとき、再びガラスの割れる激しい音が響き渡った。今度は食堂とは反対側、一階の居間のほうからだ。


「!」


 バルバラの顔色が変わった。グレイも眉をひそめた。俺にもわかった。きなくさい──()()()()()()()()()()


「バルバラ、旦那さまをお願いします」

「わかった!」


 グレイが長い脚で二段飛ばしに階段を駆け降りる。玄関ホールに降り立つ寸前、


 ガツン! バキン!!


 外から誰かが玄関を破ろうとしている。大扉のベルが今さらのように、けたたましく敵襲を告げた。メキ、メキ、メキ、──分厚いオーク材の扉に、ひびが入ってゆく。


 グレイが足を止めたのは一瞬だった。


「『つなぎとめろ(あでしおん)』!」


 ギシッ──扉に彫り込まれた(ひいらぎ)の紋章がゆがんだ。ガン、ガン、と斧を振り下ろす音は続いている。だが、まるで土嚢を積んで押さえたかのごとく、揺れとひび割れが止まった。


 それを見届け、グレイは居間へ向かって走り出す。


 ガシャーン!!


 背後で大きな音がして、俺は振り返った。俺の──エディットの部屋からだ。


 急いでノブをつかんだ。「旦那さま!」とバルバラが叫んだが、かまわなかった。扉を開けた瞬間、風になびいて波打つカーテンの()()が、目に飛び込んできた。


 バルコニーに人影が見えた。松明(たいまつ)の炎が人魂のようにゆらゆら揺れる。割られた窓ガラスのあいだから太い腕が伸び、掛け金をはずしている。


「いたぞ!」


 男のわめく声。彼らが狙っているのは、俺だ。それと──


 この部屋に隠されている、()()()()()


「旦那さま! 下がって!」


 窓は乱暴に蹴り開けられた。侵入してきた黒ずくめの男たちの前へ、バルバラが飛び出した。襲ってくる鉄槌をかいくぐって回り込むと、大男の膝の裏に蹴りを入れる。


 一人目が大きくよろめいた。すぐさま身を沈めたバルバラは、二人目のナイフをかわして顎へ一撃を見舞う。──最後の一人が松明をかざす。書棚に火をつけようとしている。


 だめだ!


「『そそり立て(とぅーりす)』!」


 言葉は想像を(いざな)う。短い呪文でひと息に魔力を引き出す。──にごった半透明の壁が、燃え盛る炎の前に立ちはだかった。松明の男はたたらを踏んだ。


 どおん、と、地響きがした。バルバラが食らわせた痛打に、大男が大の字にひっくり返ったのだ。小柄な侍女はすばやく鉄槌を奪い取り、振りかぶった。


「うおっ」


 ナイフの男が飛びのいて避ける。松明の男も押されて後ずさった。風に(あお)られたカーテンへ松明の炎が吹き流れ、一気に燃え広がる。浮き足立って逃げようとする男の袖にも火の粉がかかった。


 思い出せ、水の呪文(うた)。『ダルトンの呪文の書』にあったはずだ。俺はアルノーの実家の庭にささやかな雨を降らせて、小さな虹をかけるのが好きだった。──空気の中の水分をかき集め、残らずこの手に吸い上げる。


「『落つる水(あくろふぁーろ) 流れる水(りべーろ) 湧き出ずる水(ふぉんとーろ)』」


 早く、少しでも早く。頭の中に、大量の水を思い浮かべるんだ。


「うわあああ!!」


 男の服に火が移った。炎を払おうとしてか、松明を床へ落としてしまう。俺は右手で男を指した。


「『天よりくだる大いなる水よ 地に(たた)えるすべての水よ 満ち満ちて絶え間なく降りそそげ』!」


 ジューッ……


 男の全身から真っ白な水蒸気が立ちのぼる。だが、まだ足りない。バルバラが、絨毯をはってせまりくる炎をものともせずに、松明を拾い上げた。


「このアマ!」


 バルコニーの向こうまで松明を放り投げた侍女の背に、ナイフの男が飛びかかった。


「旦那さま! バルバラさん!」


 ドスンドスンドスンドスン──大男が倒れたときより何倍も重い地響きが、異様な速さで俺のそばを駆け抜けた。


「──なっ?!」


 突如現れた巨大な影は、ぎょっと立ちすくむナイフの男めがけて突進した。トロルにも負けない巨漢の体当たりをまともに食らい、男はあっけなく昏倒した。


「旦那さまっ!」


 料理長のネロが、白煙に咳き込みながら、悲痛な顔つきで俺を振り返った。


「もうだめだ! 早く逃げて!」

「ネロ! みんなは?!」


 バルバラはまだあきらめていない。焦げた男のほうもぶん殴って気絶させると、しゃにむにカーテンを引きちぎろうとしている。


「食堂の火が消せないんです! じきにこっちまで煙がきちまう!」

「ええっ?! グレイはなにをしてるのよ!」

「そ、それが……」


 ネロの丸顔は(すす)で真っ黒だった。彼がぐいと袖でぬぐうと、頬の煤も横一文字に伸びてしまう。「向こうにも、魔法使いが」


 やっぱりそうか。──胸の鼓動が速くなる。俺は一人だけ知っている。()()()()()()()()()()()使()()


 でも今は、それどころじゃない。


 このまま逃げちゃいけないんだ。ここは、この部屋は、たくさんの書棚とたくさんの本は、セドリック卿がエディットに遺した形見だ。全部燃やしてしまうなんて、絶対にさせてたまるか。


 けれど、俺の霧雨みたいな水の魔法では、カーテンと絨毯を燃やす炎を広げないようにするので精いっぱいだ。


「ネロ! いいから手伝って!」


 バルバラにもわかっている。寝室から毛布を持ち出して絨毯にかぶせ、なんとかもみ消そうとする。ネロも大あわてで加わった。


 白煙が瞬く間に部屋中に立ちこめる。息が苦しい。それでもネロの巨体が踏みしだくと、絨毯の炎はたちどころに消えた。肉や魚を巧みにさばく大きな手がカーテンを引きちぎり、これも踏み消してしまう。


「早く! まだみんなが一階(した)で!」


 言いながら、ネロは三人の侵入者をひとまとめに廊下へ引きずり出し、俺が扉に鍵をかけた。せめて、これ以上エディットの部屋を荒らされたくない。


 まだ魔力は残っている。俺には最高の教師が二人もついているのだ。魔法の明かりで廊下を照らす。──行く手にはネロが打ち倒した賊が何人も、うめき声をあげて転がっている。


 吹き抜けから玄関ホールを見下ろす。大扉はグレイの魔法のおかげで破られていない。しかし二階の廊下の先は、煙が満ちてなにも見えない。厨房へ通じる裏階段を使うのは無理だ。


「……図書室はどうなっているかしら」


 焼け焦げだらけになった服の袖で口元を覆って、バルバラがつぶやいた。俺はかぶりを振った。


「先にみんなの無事を確かめましょう」


 ネロの先導で、俺たちは正面階段を降りてゆく。一段ごとに煙が濃くなり、玄関ホールへ降り立ったところでネロが振り返った。


「旦那さま、こいつは一度──」

「ネロ、危ない!」


 バルバラが叫んだ。俺はとっさに指を向けた。「『矢玉となれ(くーぐろ)』!」


 振り下ろされるやいばに、カチン! と、豆つぶほどの光弾が跳ね返った。グレイのお手本に比べれば極小といってよい大きさと威力だが、ほんの少し、切っ先がそれた。


 ネロにはそれで充分だった。丸太のような(かいな)がうなりをあげる。煤だらけの()()()()()は見事に飛ばされて、壁にぶち当たった。


「旦那さま、一度外へ出ましょう。これじゃあ、食堂まで行くのは無茶だ」

「でも」

「オーリーンさまは引きどきをわかっています。裏口から退避しているはずよ」


 バルバラも言う。グレイはともかく、秘書のオーリーン、執事のワトキンス、下男のマイルズと、別邸から泊まり込みにきている四人のゆくえがわからない。けれど、煙が晴れる気配は一向になく、剣戟(けんげき)の音も聞こえてこない。このままでは俺のみならず、この二人まで煙に巻かれてしまう。


 一階の居間も窓が破られ、すでに踏み荒らされた跡があった。俺たちは炎を避けてテラスへ転がり出た。暗い空に、もうもうと白い煙が立ちのぼる。


「そんな!」


 泣き出しそうなネロの声に顔を上げる。見れば、厨房と周辺の部屋の窓から、真っ赤な炎が噴き出している。


「あああ、俺の城が……」


 ネロが手にした()()()()を放り出し、積もった雪の上によろよろ膝を折ると、ズシン、と辺りが揺れた。


「──グレイ!!」


 バルバラが口に両手をあてて叫んだ。彼女の視線を追って、俺も空を見上げる。


 西にかたむいた月。夜空に瞬く星々とほのかな雪明かり。窓から壁をなめるようにのぼる炎で、わずかに見える。屋根の上に、誰かがいる。


 ──まさか。


 背の高い従者が手にした長剣に、光がきらりと反射した。向かい合うのは黒くて長い衣の人影だ。もしかしてあれは、ローブじゃないのか。グレイが相対しているのは、魔法使いだ。


「見て!」


 バルバラが指さす先の上空で、白銀に輝く大狼が牙をむく。正面には黄金のたてがみをなびかせた巨大な獅子。あの獅子は、グレイの精霊だ。


 ガアアーッ!!──獅子が、大気を震わすような咆哮をあげた。


「なにやってるのよ、このダメ魔法使い! 早くしなさいってば!」


 バルバラが地団駄を踏み、獅子の雄叫びに負けない大声で怒鳴りつけた。「このままじゃ、お屋敷が全部燃えちゃうじゃないの!」


 屋根の上のグレイは大きく体をのけぞらせた。彼のことだ。「ややや、そいつは一大事」とでも言ったに違いない。


 長剣を天に向けて掲げた。なにかを叫ぶ声。──刹那、空には闇を切り裂くひとすじの稲妻が(ひらめ)いた。


 獅子が(くう)を蹴って大狼に飛びかかる。夜空に再び稲妻が走る。にわかに暗い雲が垂れこめて、地響きかと思うほどの雷鳴が(とどろ)く。たたきつけるような大つぶの雨が降り出した。突風が巻き起こり、吹き飛ばされそうになる。


「旦那さま!」


 バルバラに腕を取られた。そのバルバラごと、俺の体は浮き上がった。ネロに抱えられるようにしてテラスを降りる。俺たちは前庭の真ん中にある大樹の下まで運ばれた。


 グレイの底知れぬ魔力を感じる。すさまじいまでの風雨が、容赦なく俺たちを襲う。木の幹とネロの巨体に押しつぶされそうに(かば)われて、俺はどうにか屋敷のほうへ目を向けた。


 ──滝そのものの勢いの、横殴りの雨だ。割れた窓からどんどん邸内へ流れ込む。紅蓮(ぐれん)の炎がみるみるうちに小さくなってゆく。


「やった!」


 バルバラが歓声をあげ、ネロは「俺の、俺の厨房(キッチン)が助かった……」と、またむせび泣いている。


 稲妻が幾筋も輝き、雷鳴がくり返し轟いた。木陰にいようと俺たちはとっくにずぶ濡れだ。(たけ)り狂った大狼の喉笛へ、勢いよく獅子が食らいつく。ついにはグレイが叫ぶ呪文とともに、魔法使いがふっ飛ばされた。


 長い黒衣の人影はもんどりうって倒れ、屋根から転がり落ちた。いっぺん二階のバルコニーに引っかかり、くるりと一回転して雪の積もった植え込みへ──


「ネロさん、放して!」

「旦那さま?!」

「お願いです、早く!」


 ドサッ、と、落ちた音がする。俺はネロの腹の肉を押し上げて、急いで駆け出した。風はいくらか弱まったが、前が見えないほどの雨だ。ぐしゃぐしゃになった雪に足を取られる。泳ぐようにして、植え込みに倒れた人影まで、やっとたどり着く。


 雨と寒さのせいばかりではなく、俺の両手は震えてしまう。びしょぬれになったローブの体を引き起こした。フードをめくる。


「うう……」


 しわがれた声にどきりとする。けれど、男の髪は白くなかった。俺は呪文をつぶやき明かりを(とも)す。短い茶色の髪。どう見ても中年だし、苦しそうに開いた目は青い。()の瞳は黒だった。


 よかった。俺は大きく息を吐き出した。──この魔法使いは、ダーヴィドの館で俺を助けてくれたデメトリオじゃない。





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