63 ことづて
(はてさて)
己れが人当たりの悪いこわもてであると、ボリスは充分に承知していた。うっかり考えを見せてしまわぬよう、せいぜい顔をしかめてみる。
ボリスが一人店を離れたすきに、あるじは捕らわれた。目的があるじなら、ただちに連れ去ってしまえばよい。なのに彼らはわざわざこの場にとどまっている。──これはもう、ボリスが戻るのを待っていたとしか思えない。
「……きさまら、なにが目的だ」
柳眉をひそめ、小暗い紫の瞳がじろりと周囲をめぐる。中通りをはさんだ向かいの路地から五人。建物の陰からも、四、五人。ボリスのあとからくるのも合わせれば、二十人に一人か二人、欠ける程度か。いずれも薄汚い、いかにも街の掃きだめといった連中だ。
おおかた、ぬかるみにはまっていた馬車も、彼らの仲間だろう。わざわざそんな舞台をしつらえ、ここまでの人数を集めたのだ。あるじとボリス、そろって生け捕りにするつもりと見た。
「目的かい?」
白いうなじに向けて短剣を差しつける男が、へらへらと笑う。汚らしい長い金髪を、馬の尾のように後ろでくくった若造だ。
「あんたらを捕まえたら、金がたんまりもらえるんだよぉ」
あるじは斜め後ろをねめつけた。「……誰から?」
「そりゃ、あのラムジィ旦那からに決まってら」
と、若造は顎をしゃくる。見れば、押し出しのいい中年の男が手下を従え、泥水をびしゃびしゃ跳ね上げて通りを渡ってくるところだった。──あれが「ラムジィ旦那」か。
「よお、あんた……すっげえ美人だなぁ」
若造の下卑た目つきに、薄気味の悪い光が混じる。言葉通りに舌なめずりする彼の息が、あるじの首筋へかかりそうになった。
「こらあっ、ビリー! 離れろ!」
若造は一気に興ざめた顔になった。「旦那ぁ」
「馬鹿! おまえなんかが触れていいおかたじゃないぞ!」
「ちぇ、いいじゃねえか。減るもんじゃなし」
「いいや、減る、減っちまう! エディット姫のお美しさが、すり減っちまうよ!」
小蝿でも追い払うように両手を振り回し、ラムジィ旦那は断言した。ほほう、と、再びボリスは感心する。となれば、彼はあるじが誰でなにものか、はきとわかったうえで、このひと幕に加担している。
「申し訳ございませんねえ、エディット姫」
ラムジィはもみ手でもしかねない満面の笑みだ。目と目のあいだが離れた鮃みたいな顔の、いかにも好色そうな男である。身なりは商人ふうだが、ほかのやくざものと同様、腰には小剣を帯びている。
「あたしといっしょに、ご足労ねがえますかね?」
「どこへ」
ぴしゃりと厳しいあるじの声音に、ラムジィは感極まったように身を震わせた。
「きていただければ、おわかりになりますよ。さ、さ」
みっしりと毛の生えたごつい手が、本の包みを抱えた細い手首へ伸びてゆく。──が、紫の瞳にすさまじい殺気が込められているのを感じ取ったか。ラムジィはそそくさと手を引き、打たれたように甲をさする。
そこへ、向こうの角から箱型の乗り合い馬車が曲がってきた。ラムジィは馬鹿ていねいなお辞儀をした。
「さ、どうぞ、エディット姫。お宅さまのお乗りものに比べれば、すこおしばかり、座り心地が悪いかもしれませんがね」
「──おい、おっさん」
大柄な若いのが、ボリスの背を剣先でこづく。「あんたもだ。乗りな」
この場から、離れようというらしい。
ボリスの腰の長剣も取り上げられた。後ろ手に、やけにぎゅうぎゅう縛られる。ラムジィ、あるじ、ビリーに続き、馬車のステップへ足をかける。横長の座席には、すでに一味の腕自慢らしいのが二人、わがもの顔でふんぞり返っていた。手にはぎらりと光る大刀だ。ご念の入ったことである。
「待った待った!」
馬車の扉が閉められるまぎわ、もう一人、貧相な中年男が息せき切って駆けつけてきた。
「ひどいじゃないか、ラムジィさん。あたしを置いていきなさるおつもりかえ」
「おお、これはお客人」
あるじの隣へ陣取ったラムジィは、彼女の肩へ腕を回そうとしたり、引っ込めたりと落ちつかない。この思いきりの悪さでは決して大物にはなれまいが、手刀を食らって不格好な鼻がさらに曲がってしまわずにすむので、賢明ともいえる。
「うちで待っていてくだされば、じきに吉報をお届けできるものを」
「そうは参りませんよ」
「お客人」は、空いた座席にどさりと座り込んだ。薄い眉を寄せて、ぷりぷりと怒っている。
「王都の親分から、『サンドロ、おまえ自身の目ン玉できっちり見届けるまでは、帰ってきたら承知しないよ』と、きついお達しなんでね」
(おやおや)
こちらの御仁が依頼ぬしか。なるほど身に着けた外套や帽子は、ほかの連中よりいくらか垢ぬけている。この寒空のもと、王都からノエル市まで三日はかかる道のりを、わざわざ出張ってきたようだ。
「……どこへ行く」
馬車が走り出すと、あるじが冷たい声で問うた。ラムジィ旦那は「お客人」が嫌な顔をしているのもかまわず、うっとりと上機嫌だ。
「美しい女騎士とは聞いていたけれど、まさかここまでとはね!──サンドロさん、本当にやらなくっちゃだめなのかい?」
「だめだよ、ラムジィさん。うちの親分がどれほどおっかないか、あんたもわかっていなさるだろう」
鮃の目をしたラムジィは、ますます気色の悪い上目になり、彫像のように整ったあるじの横顔を見つめた。「……惜しいねえ、じつに惜しい」
「ラムジィさん!」
「うるさいな。──ねえ、エディット姫。あたしゃ、あんたにひとつ、提案したいことがあるんだよ」
平然と見返すあるじに、ラムジィは分厚い唇の両はしを持ち上げた。
「王后陛下のお供なんかやめちまって、このままあたしのところへこないかい?」
あるじは、二、三度瞬きした。
「この馬車は、あなたの住まいに向かっているのか」
「いいや、残念ながら違う。あんたがたをノエルで一番の名所へお連れしようと思ってね」
車窓からの風景は街中を抜け、次第に家並みがまばらになる。向かう先は、郊外なのだ。ラムジィは、にんまりと笑った。
「……これから行くのは、マイリンゲンの滝さ」
(なるほど)
これで彼らがボリスを待っていた理由がわかった。あるじとボリス、主従ともども殺してしまおうという腹だ。事故にでも見せかけたいのか。あるじ一人をさらっただけでは、ボリスに騒がれてしまう。
「あんたがあたしの言いなりになるんなら、従者の命は助けてやってもいいんだよ」
ラムジィが目くばせし、ボリスは隣のやくざものから剣で脇腹をつつかれた。──おお、ここはひと声発しなければ。
「ひっ……姫さまっ……」
われながら無念そうな声が出た。ボリスの小芝居になにを思ったか、あるじの瞳が丸くなった。さらにその様子をどう解釈したのか、ラムジィはニタニタとうれしそうだ。
あるじはいかにも憤りを抑えるように、大きく息を吐き出した。「……考えておこう」
「旦那はずりぃよぉ。結局てめえのもんにするのかよぉ」
あるじに短剣を突きつけるビリーが、ずいぶんなふくれっつらになっている。
「うるさい。飽きたらおまえにも貸してやる」
「けちだなあ。飽きたんなら、俺にくれよ」
「ああ、やるやる。いくらでもくれてやる。飽きたらな」
「冗談も大概にしなさいよ、ラムジィさん」
「お客人」ことサンドロは、苦虫を噛みつぶしたような顔で言う。
──馬車がガタガタと音を立てて揺れ始める。いつのまにか、葉の落ちた木々にかこまれた、ひとけのない山道だ。
「……金なら出すぞ」
冬枯れた外の景色をながめていたあるじがつぶやいた。すかさずラムジィが目をむいたので、サンドロが飛び上がった。
「ラムジィさん! あんた、約束を反故にするつもりじゃなかろうね!」
あるじはビリーの短剣をけだるげに払いのけ、軍靴を履いた長く形のいい脚を組んだ。
「わたしは裕福だぞ。その男が支払う三倍の金を出そう」
「さ、三倍!」
ぽかんと口を開けたラムジィは、目の前の美女が王女の娘であることを思い出したようだ。鮃の目玉がきょときょと動く。どうするのが一番得なのか、考えているらしい。
「ラムジィさん! 欲をかくのもいいかげんにおしよ!」
「しかしなあ、こちらの女騎士さまは、三倍とおっしゃるんだぜ?」
「な、なら、あたしが親分に掛け合ってやる! 四倍だ!」
「わたしは五倍でもかまわないが」
「いいねえ。夢のようだ」
ラムジィは恍惚と笑みを浮かべた。流れる黒髪、長いまつ毛がふちどる涼しげな目元。清らかで、それでいて誘うような赤い唇──あるじの顔から肢体へ、さらにはつま先までを、じっとりとなめるようにながめていく。
「……ただねえ、エディット姫。あんたにはもう、あたしに支払う金なんざ、銅貨一枚だって残っちゃいないからねえ」
「なに?」
あるじが眉をひそめる。──鞭を打つ音と、二頭の馬のいななきが響いた。馬車は大きく揺れて、停止した。
「ラムジィさん! そら、着いたよ!」
「うるせえなあ。──おい、みんな降りろ。どっちにしたって従者のほうは片付けるんだ」
──そこは山あいの、ぽっかりと開けた土地だった。砂利の上にはところどころ雪が残り、木立の向こうから、ごうごうと激しい滝の音がする。
「どういう意味だ」
あるじはラムジィに詰め寄った。彼女の唇が震えているのは、寒さのせいばかりではあるまい。ラムジィは口笛でも吹きそうに、すっとぼけた顔をした。
「なんのお話ですかい?」
次の馬車が山道をガラゴロやってくる。得物を手に、わらわらと降りてきたのは大勢のやくざものだ。逃げ道はふさがれたが、あるじは見向きもしない。
「どういう意味だと訊いているんだ。わたしには払う金など残っていないと、さっき言っただろう」
「そうとも、エディット姫!」
彼らのほかには人っ子一人おらず、泣いてもわめいても助けはこないのだ。やにさがったラムジィは、勝ち誇ったように言い放った。
「あんたのお屋敷は、今ごろなにもかも灰になっちまってるのさ!」
「なんだと?!」
あるじの顔が蒼白になった。
ボリスは彼女が、胸にしっかりと抱えていた包みを、ざらめのような雪の上に取り落としてしまうのではないかと思った。
だが、そうではなかった。震える彼女の白い手は、油紙にくるんで十字にひもをかけた三冊の本を強くつかみ、決して離そうとしない。
「なにをした! いつだ!」
「昨夜さね。──そうだろ、お客人」
ラムジィがサンドロのほうを振り返る。王都からきた貧相な中年男は、しかたがなさそうにため息をつき、肩をすくめた。
「ああ、そのはずだよ」
「あんたが『手紙』を隠したまんま、いつまでたっても出さないからさ。──親分はたいそう怒っていなさる。なら全部燃やしてしまえって、言いつけたってんだからね。これであんたさえいなくなれば、仇討ちも、みーんな、なしだ」
ラムジィはわざとらしく口をすぼめ、己れの二の腕をさすってみせた。
「怖い怖い。ダーヴィド親分を怒らせるのはよしたほうがいい。命あっての物種だ。──サンドロさん、やっぱりあんたの言う通りにしよう」
「おお、ラムジィさん!」
「さっき四倍とお言いだったのを、忘れるんじゃないよ」
ラムジィは抜け目なくつけ加えた。
「さ、おしゃべりはおしまいだ。二人とも、滝つぼめがけて飛んでもらおうか。なんなら手伝ってやってもいいんだよ」
潮どきだ。
ボリスは叫んだ。声を限りにふりしぼった。「──カトラス!」
びゅう、と、一陣の風が吹いた。
見えないなにかがボリスの背後を矢のように駆け抜ける。ぶつり──手首を縛った縄が切れた。
──瞬間、ボリスは身を沈めた。からんだ縄をほどきざま、正面から振りかぶってきた男に当て身を食らわせる。即座に大刀を奪い取ると、もう一人のみぞおちに、柄尻をたたき込んだ。
あるじがラムジィを蹴り倒していた。情けなくひっくり返った彼の小剣を抜き放つ。ビリーの短剣を跳ね上げ、包みを持った左手でサンドロへ肘打ちをくれる。つかみかかってきた巨漢に足をかけて転ばせる。身をひねり、向かってくる男たちをかわしつつ、切り飛ばしていく。
「うわあっ!」
突如、四方八方につむじ風が巻き起こった。荒くれものたちへ次々とかまいたちが放たれる。やくざどもは叫び声をあげ、その場に倒れ伏した。
「エディットさま!」
風を収め、長剣を手に走り寄ってきたのは、くすんだ金髪に背の高い壮年の男──カトラス・エストック=レーヴァテイン。魔法剣士のグレイの父親だ。
「お怪我はございませんか!」
「カトラス!」
あるじは剣を投げ捨て、カトラスの外套にしがみついた。
「大変だ。ダーヴィドが、本邸に火を放った」
「なんですって?!」
「──隊長ぉ!」
何頭もの馬が疾駆する蹄の音が近づいてくる。振り返れば、すでに見慣れた近衛隊の騎馬の一団だ。先駆けるのはあるじの副官、ハーラーである。彼が手綱をしぼると、葦毛の馬はいなないて前足を上げた。
「やあ、ご無事でしたね! こっちもうまくいきました!」
馬上のハーラーは快活に白い歯を見せる。
「ついに捕まえましたよ! 内通者は、第二小隊のグンダーです!」
近衛隊のあとから、刺股や棍棒をかまえたノエルの町役人たちが続く。疾風にやられたやくざどもへ飛びかかり、くんずほぐれつの大捕りものが始まった。
「どうかしましたか?」
ハーラーが馬を降り、けげんな顔でこちらへ近づいてきた。
なにかが起こるなら、このノエル市だ。ボリスもあるじもそう考えていた。遠征隊の隊長を務める彼女から警護の騎士が離れるなど、まずないと言ってよい。私的な買いものに出かける今日は、数少ない貴重な機会だ。それを知る誰かが行動に出た結果が、これだ。
敵はなにをどうするつもりか。知りたければ、向こうの手に乗ってやるのが一番である。このような事態にそなえ、キトリーからカトラスが姿を隠して同行していた。待ち伏せがあるなら誰かが外へ連絡を取る。そちらはハーラーに任せてあった。
あるじの手の一方は本の包みを、もう一方はカトラスの外套のはしを離さずにいる。
「……隊長、どうしたんです?」
ボリスとカトラス、二人の深刻な面持ちを確かめてから、忠実な副官はもう一度問うた。あるじは決然と顔を上げた。
「ハーラー、王都のわたしの屋敷が、昨夜襲撃を受けたらしい」
「ええっ?!」
あるじは唇をかみしめる。しぼり出した声はかすれ、瞳がうるみを帯びていた。「わたしはまだ、帰るわけにはいかない……」
そのときカトラスが、一片の雲もない澄みきった空に向けて、手を伸べた。
「エディットさま、あれを」
日は西へかたむきつつある。あるじは天を振り仰いだ。その視線の先を、ボリスも見た。ハーラーは大きく口を開けた。
天空に高く円を描いて飛ぶのは、鳥だった。──ただの鳥ではない。虹色の光を放ち、輝く翼を大きく広げた、尾の長い鳥。
「……弱ったなあ。名前がわからない」
カトラスは、まぶしげに瞳を細めてつぶやいた。懐からなにかをつかみ出す。差し出した左の手のひらには、碧玉のつぶがいくつか載っている。
「さあ、おいで」
青みがかった石ころが、まるで餌であるかのようだった。鳥は彼の姿を認めた。用心深く、何度も何度も旋回をくり返す。少しずつ、ゆっくりとこちらへ降りてくる。
カトラスの腕にようやく翼をたたんだとき、ボリスは気がついた。──羽音がまったくしなかった。魔法剣士が手にした小石と同じ色合いの、薄青く丸い瞳。
「よしよし、おまえは使いにきたんだね?」
カトラスは虹色の鳥に碧玉をひとつぶ与え、優しく言葉をかけた。かたわらで固唾をのんでいるあるじへ、のどかな笑みを向ける。
「大丈夫ですよ、エディットさま。──あなたが大切に思う人は、みんな無事だそうですから」