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フィリップ・ジールマン・テレリア・ディルク=レールケ伯爵。
ダーヴィドの館で相対した、仮面の男を思わせる体つきと声を持つ人物。──王弟シベリウスとともに、蒼の塔を訪れた貴族の一人だ。
「レールケ卿は、かつては国王陛下、王弟殿下ご兄弟の学友だったと聞いたね。先年お亡くなりになった父君が、国王陛下ご幼少のみぎりの守役だよ。とにもかくにも名門一族だ」
現在の彼は王弟殿下の右腕なんだが、と、オドネルはつけ加えた。幼なじみであり、片腕。エディットに対する秘書のオーリーンのようなあいだがらだと考えればいいだろうか。
「瞳の色かね? 確か、暗い色だったように記憶しているが」
オドネルは思い出そうとするように、こめかみへ人さし指の先を添える。
「旦那さま」
グレイは、俺に制された理由を知りたいようだ。──カローロの気配は、鳴りをひそめている。
「あとをつけるのは、危険な気がしたので……」
「どうして危険なんです?」
勇気を出して顔を上げた。俺の従者は、俺より遥かに力のある魔法使いだ。彼の青灰色の瞳を、思いきって見つめ返す。
「僕の守護精霊が、そう言ったからです」
するとグレイは、ずいぶん難しい顔で考え込んでしまった。のんきものの彼にしては珍しい。
「……でしたら、やめておいて正解ですね」
問い詰められるかと身構えたのに、大真面目にうなずかれた。拍子抜けする俺に、オドネルが解説してくれる。
「守護精霊は、あるじの不利益になる行動はとらないからね」
「どんな精霊と契約したんですか、旦那さま」
グレイは瞳を輝かせ、興味津々だ。まるで知りたがりの子どもと同じである。俺は急いでかぶりを振った。
「ひ、秘密です」
「秘密ですか。残念だなあ」
こだわりのない、のどかな笑みだ。オドネルもつられたように笑い出した。
「それでいいんだよ、カイルくん。たやすく契約のことを口にして、精霊が気を悪くするといけない」
グレイのたれ目が丸くなった。「えっ、そうなんですか?」
「そうとも。彼らはあれでなかなか感じやすいんだ」
「へええー」
うちのは大ざっぱな連中ばかりだもんですから、と、グレイは恐縮したように頭をかいた。
……だとしても、どうしてカローロは、レールケ伯爵のあとをつけるのは危険だと思ったんだろう。
「それがカイルくんの守護精霊の能力なのかもしれないね」
首をかしげていた俺は、オドネルの穏やかな声音に振り返った。
これが、カローロの能力……
「そのうちわかるようになるよ。彼と親しくなるうちにね」
そう言って、オドネルはうなずいた。
──俺たちは、いつもより早めに帰宅することにした。レールケ伯爵の件を報告する必要があるからだ。なにより今夜は、エディットの出発前夜でもある。
王宮騎士団の中でも、近衛隊は王族の巡啓に付き従うことに慣れている。遠征のしたくはすでに調い、あとは明日にそなえて体を休めるばかりだ。
しかし夕食後、エディットはオーリーンを部屋まで呼び寄せ、最後の打ち合わせをおこなっていた。エレメントルート伯爵家本邸は、日ごろから少数精鋭を通している。けれど、明日からは司令官である彼女自身が不在になる。警護において重きをなす従者の一人も欠けてしまう。別邸から心きいたものを何人かよこしてもらい、邸内で寝泊まりさせることになるらしい。
「フィリップ=レールケ伯爵か……」
エディットはつぶやいて瞳を上げた。「彼は、爵位授与式にも出席していたな?」
「はい」
オーリーンがうなずいた。
「例の日の、在宅証明が取れない一人でもありますな」
俺が仮面の男と出会った日のことだ。
オーリーンは、爵位授与式に出席していた男性貴族の「例の日」の滞在場所を、片っぱしから調べさせていた。
あの式典は、単に貴族が爵位を授かるだけの儀式と考えれば出席者が多く、王家に連なるものの結婚披露宴と考えれば、ささやかといってもよい規模だった。アセルス王国の貴族は、役付きでなければ一年の大半を領地で過ごす。爵位授与式の当日は王都にいても、その後国許へ帰ってしまったものも多い。
だから、確かめるには相当な労力を要したはずだ。それをオーリーンはあっさりと言ってのける。
「現在は二十名足らずにしぼられました。レールケ伯爵も、ふくまれております」
「カイルの印象ではどうなんだ?」
顔全体を隠し、手袋まではめていたとはいえ、仮面の男を直接見たのは俺一人だ。
「かなり、似ていると感じました」
「王后陛下の晩餐会の出席者と比べるとどうだ?」
エディットのハティア行きを知らされた隊長就任の祝いの席だ。あのとき俺は、仮面の男に背格好の似た人物として四名の貴族を挙げた。その四人となら……
「……ゾンターク公爵と同じくらい、でしょうか」
この国の宰相だ。彼にもまた、在宅証明がない。背丈、体つき、声──美男子の彼は一見仮面の男と結びつきにくい。しかし美貌を差し引き、輪郭だけを思い浮かべれば、彼はかなり疑わしい人物である。独身で、地位のわりには簡素な暮らしをしているためか、公式行事以外の動向を探りづらいようだ。
「わかった。これで時間切れだな」
エディットは大きく息を吐き出した。
「あとは神々へ、わたしたちが戻るまで、なにも起こらないことを祈るとしよう。──オーリーン、留守を頼むぞ」
「かしこまりました」
切れものの秘書が軽く頭を下げるのを、俺はぼんやりとながめていた。──エディットが留守のあいだ、なにごとかが起こるだろうか。もしも彼女のハティア行きが誰かに仕組まれたものなら、大いにありえる話だ。
エディットの隊長就任とハティアへの旅が、悪意を持った誰かに仕組まれたものであるのなら。
「……カイル」
名を呼ばれてわれに返った。──いつのまにか、オーリーンの姿はない。隣にかけているエディットが、俺を見ていた。
「どうした? 顔色がよくないぞ」
昼間オドネルにも訊かれたが、俺には特段の変化もないのだ。首を振るしかない。
「僕はなんでもありません」
「……そうか」
納得してくれたのか、エディットはうなずき、卓上からティーカップを取り上げる。
こうして彼女の部屋で話ができるのも、今夜で終わりだ。明日になれば、エディットはいなくなってしまう。
彼女の瞳の色を映していた庭のサルビアも、みんな散ってしまった。夜のように黒く、つややかな長い髪。誇張なく女神像を思わせる、整った横顔と透き通った肌。
手が伸びてきた。甲が、俺の頬に触れる。「──熱は、ないな」
「もちろんです」
俺はいったい、エディットの目にどう見えているのか。彼女の出発は明朝である。彼女はもう休まなければならない。俺は立ち上がった。
「おやすみなさい」
「カイル」
手首をつかまれた。「どうしたんだ」
「別に、なにも」
振りほどこうとした。けれど、当たり前だが、彼女の手はびくともしない。
「……オーリーンさんから聞きました」
床に目を落とす。どうしても、彼女の顔が見られない。
「ありがとうございました。部屋の……鍵のこと。明日の晩から、僕が『手紙』を見張りますので」
この部屋の書棚の奥に隠された『証拠の手紙』。誰かが押し入ってきたときにそなえ、俺がここで寝泊まりすることになったのだ。
「……僕はもう寝ます」
「カイル」
「手を、放してください」
エディットが指をほどいた。指先が手首から離れた刹那、心臓が凍りついてしまうかと思うくらいに心が痛くなった。俺は、自分から放せと言ったのに。
「カイル、こっちを向け」
──俺はほかにも、彼女に言いたいことがあったんじゃないのか?
「カイル」
両肩に、温かな手が添えられた。エディットが俺の背後に立ったのだ。機会は今しかない。明日の今ごろ、彼女はこの部屋にはいないんだ。
「前に……」
俺は、唾をのむ。
「通行証を返してくれて、僕を、蒼の塔へ行かせてくれたこと……」
「…………」
「ずっと、お礼を言わなくちゃって思ってたのに、僕はなにも言ってなくて……」
彼女の邪魔をしないことが、結婚の条件だった。俺が王宮で目立ったり、あれ以上の騒ぎを起こしていたら、父親の仇を探す彼女の不利になったかもしれない。なのに彼女は、俺のやりたいことをやらせてくれた。
「それから──」
ダーヴィドの館まで、俺を助けにきてくれたことも。
彼女にとって俺は、夫という肩書きを持つだけの、ほかにはなんの価値もない存在だった。でも、彼女は身の危険を冒して、俺を。
「カイル」
くり返し呼ぶ声と、肩をつかむ両手に力が入った。──体ごと振り向かされる。エディットを見上げたとき、俺の胸は高く鳴った。彼女の真摯な瞳には、俺の姿が映っている。
……ああ、そうか。
ようやく気がついた。俺は彼女と離れたくない。いつも、いつでもいっしょにいたい。
──きみが心で思う気持ちに、名前を付けてみるといい。
オドネルの言葉を思い出す。だから俺はこんなに悲しいのか。だから俺は彼女のことが知りたくて、彼女のためになりたいと思うのか。──俺は、彼女が好きなんだ。
俺はもっと、エディットの近くに行きたい。
手を伸ばした。彼女の頬に触れるのは、これで二度目。彼女は俺より背が高い。だから俺は、幾分背伸びをするようになる。──そうして珊瑚色の唇へ、自分の唇を押し当てた。
「………………」
再び踵が床についたとき、エディットは何度も瞬きをくり返していた。
「……前から思っていたんだが」
少しずつ、彼女の白い頬には血の気がのぼってくる。ささやくように俺に言う。「つ、次からは、目を閉じることにしないか。お互いに」
目?
「そのほうが、いいんでしょうか」
「……うん」
「わかりました」
うなずいた頤に指をかけられた。俺はエディットのうなじへ、両腕を回す。今度は彼女がいくらか前かがみになり、俺へ──
目をつむるのを忘れていた。顔を離してから、俺は少し笑ってしまった。これはなかなか頃合いが難しい。
エディットも、くすりと笑う。
「……すぐに帰ってくる」
「はい」
「だから、泣くな」
俺は服の袖で目をぬぐい、どうにか笑顔を作った。「……はい。早く帰ってきてください」
そっと、引き寄せられる。今度は頬に接吻される。とても離れがたく思う。だが、
「……おやすみなさい」
明日の朝早く、彼女は旅立つのだ。
「……おやすみ」
──一瞬、彼女の唇もゆがんだように見えたのは、俺の気のせいだろうか。
翌朝、王后アントニエッタさまは、母后に会うため故郷のハティア王国へ向けて出発した。百名を超える近衛騎士を引き連れて従うのは、新たに親衛隊長に就任したエディットである。彼女の凜々しい隊長姿をひと目見ようと、大通りは大変な人出になった。
俺はグレイとともに、大通りまで見送りに出た。だが、人々の頭のあいだからほんのわずか、馬上にある彼女の姿が垣間見えただけだった。
彼女の部屋のテーブルには、約束通り、鍵が残されていた。部屋の扉の鍵と、『証拠の手紙』を隠した戸棚を開ける小さな鍵。俺はオドネルからもらった幸運の護符に結んであるひもをほどき、いっしょに結わえておくことにした。
──これからひと月半、エディットが戻るまでのあいだ、必ず俺がこの部屋を守ってみせる。




