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53

 明日になれば、エディットはハティアに向けて旅立ってしまう。


「軍の飯はまずいんです。昔っから相場が決まってます」


 厨房では料理長のネロが決めつける。彼は大きい。どれだけ食べたらこんなに大きくなれるんだろう、というくらいに大きい。


 薄くなりかけた頭に手ぬぐいを巻いて、額の汗をふきふき、ネロは保存食の準備に余念がない。日持ちのするさまざまな食料──燻製肉、チーズ、堅焼き菓子、乾燥果物(ドライフルーツ)、チョコレート、黄金(こがね)色の蜂蜜酒がなみなみの大瓶まで、調理台にところせましだ。


「夜中にこっそり食べる()()()ほど、行軍の疲れが取れるものはありゃしません」


 ネロは堅パンの切れはしに、スモークチーズをひょいと載せた。


「ないしょで独り占めしてもいいし、手柄を立てた部下へのご褒美にしたっていい。うまい食いものはね、なんにでも役に立つんですよ、旦那さま」


 差し出されたのを、ひと口ほおばってみる。──なるほどうまい。


 乾燥果物を小袋に詰めながら、ネロはご機嫌に鼻歌交じりだ。あのエディットが、一人でこそこそ甘いものを飲み込んでる図なんて、想像しづらいけど。


 俺は居間へ足を向けた。するとそこでは、執事のワトキンスが、手にした革の小箱をじっとりとにらみつけている。


「……軍医など、あてになるものではございません」


 と、執事は暗黒のまなこを光らせて言う。いつも以上に生気を吸い取られそうな、常闇(とこやみ)のまなざしである。軍医に恨みがあるのだろうか。


 彼が小箱に押し込めていたのは、何種類もの薬だった。痛み止め、気つけ薬、膏薬、解毒剤、胃薬、熱さまし……こんなに? 多過ぎない?


「とんでもないことでございます」


 カッ──と、ワトキンスは両の瞳を見開いた。


「そなえあれば憂いなし、と申します。お役に立てばよし、立たなければなおよし……」


 そ、そうですね。すみません。


 エディットの旅じたくは、もはや佳境を迎えたと言ってよい。


 彼女は朝から出かけているし、みんなは忙しい。どうせ俺の部屋には誰もこない。読みかけの本を開いても、気が乗らずに閉じてしまう。


『カイル』


 声がした。俺の守護精霊(ぞるがんど)、カローロである。彼はいつでも俺の近くにいるが、姿を見せるのは俺が望んだときだけだ。だが、()()()があれば、彼のほうから呼んでくる。


「……なに? カローロ」


 きたぞ、と、俺だけに聞こえる声が言う。──()をおかず、ノックの音がした。


「旦那さま、本日のお出かけはいかがなさいますか?」


 従者のグレイの声である。


「はい、行きます」


 俺は立ち上がった。


 廊下へ出ると、背高従者が神妙な顔で控えていた。どうもこの男は食えない。俺が守護精霊を持ったことを知っているのかいないのか、至ってそ知らぬふうだ。


 ──(あお)の塔では、オドネルが一人でおおわらわだった。


 いつもの黒のローブの裾を、腰まで高々とからげている。彼がこうやって貧相なすねをむき出しにしているとき、ユーリ=ローランドは決まって留守だ。


 床にも、机や棚の上にも、開いた書物が好き放題に散らかっていた。この人は読みかけの本をそのままに、思いつきで次のを開くのでこのようになる。ユーリに叱られるまでほったらかしが(つね)なのに、今日は自ら片付けようというのか。いつにない機敏な動きで、本を閉じては積み上げていく。


「カイルくん、いいところにきてくれた。手伝ってくれないか」

「はい。でも、ユーリ先生はどうしたんですか?」

「ああ、ローランドくんには──」


 オドネルはせかせかと言いかけたが、俺を見ていぶかしげに言葉を切った。


「顔色がよくないようだが、気分でも悪いのかね?」

「いいえ」


 俺は驚いてかぶりを振った。まったくそんなことはない。夜も眠れているし、食事だってとれている。


「そうかね。ならいいんだが」


 ユーリは元魔法士のなんとか伯爵家まで、魔法関連の蔵書を借りに出かけたらしい。夕方までは戻らない、と、どうにか大机を(から)にしたオドネルは気ぜわしく言う。


「……オドネルさんは」


 石の床一片ごとをわざわざ埋めたみたいに、広げた書物がびっしりと敷き詰められている。踏んでしまわないよう注意深く歩きながら、俺は尋ねてしまった。


「ユーリ先生が一人で出かけても、気にならないんですか?」

「気になる? なにがかね?」


 なにがって……


「………………」


 ちゃんと()()へ、帰ってくるのかどうか。


 オドネルは眉を上げた。かたわらの棚の上に、手にしていた数冊の本を積み上げる。それから俺に向き直った。


「われわれが住まううるわしのアセルティアは、昼間から女性の一人歩きができないほど治安の悪い街ではないよ」

「…………」

「それに、彼女は若いが世慣れていて、とてもしっかりした人だ。貴族の屋敷へ出向いて交渉ごとをおこなうにしろ、安心して任せておける」

「じゃあ」


 なんとなく、反抗的な気分がこみ上げてきた。「オドネルさんは、ユーリ先生のことが少しも心配じゃないって言うんですね?」


「………………」


 オドネルは目をぱちくりさせた。そして──薄い唇の両はしを持ち上げて、笑みを見せた。


「カイルくん」

「……はい」

「きみが心で思う気持ちに、名前を付けてみるといい」


 ……名前?


「そうとも。きみがきみだけの精霊に名付けたのと同じだよ」


 王宮魔法士は、額の上に左手を掲げた。呪文を(うた)うときのように、くるりと人差し指をめぐらせる。


「名前は万物の始まりだ。物に、事象に、現象に、もしも名前がなかったら、言葉は生まれなかった。──名前とは実存の(あかし)、名前こそが本質だと、前に言ったろう?」

「え、ええ……」


 確かに召喚魔法の講義に出てはきた。だが、それがさっきの問いとなんの関係があるのか、俺にはわからない。


 俺より遥かに大人であるジュリアン=オドネルの、これもまた彼なりの()()()()のひとつだったと気づいたのは、ずっとずっとあとのことである。


 ポーン、ポーン……時計が鐘を打ち始める。オドネルは飛び上がった。


「こんな話をしている場合じゃない。カイルくん、急がなくては」

「なにがあるんですか?」

「視察だよ。なんともはや突然のお達しでね。まもなく()()殿()()()()()()()()()()()()()()()


 それは、まごうことなき一大事である。


 人手は一人でも多いほうがいい。俺は扉の外で待っていたグレイを、塔の中に招き入れた。


「すまないね。よろしく頼むよ」


 威厳をかき集めるためか、ローブの裾を下ろして整えつつ、オドネルは昂然と(おもて)を上げる。


「できるだけお手伝いさせていただきます」


 と、極めてにこやかに従者は返す。


 立場は違えど魔法士同士。しかも彼らは同じ女性を(たた)え合った男同士でもある。高みから見下ろす鷹揚な青灰色のたれ目と、理知的で温和な焦げ茶色の双眸が出会う。バチバチと火花が音を立てて散った──ような気がしなくもない。が、いずれにせよ一瞬のできごとだった。


 三人になって、がぜん作業ははかどった。グレイは俺たちが拾い集めた本やなにかを、手当たり次第に高いところへ積んでいく。さしたる時間もかからず、塔の中の混沌ぶりはいくらか落ちついた。足の踏み場もできた。


「きみたちはこちらに隠れていたまえ」


 オドネルにはひと通りのことを話してある。俺とグレイは、王弟に姿を見せないほうがいい。


 大きな本棚と衝立(ついたて)で仕切ってある一画に案内された。オドネルが日ごろ寝起きしている私的な場所だ。少々意外だが、寝台はこざっぱりと片付いており、黒いローブが一着、棚から棚へ渡したひもに干してあった。向こうからこちら側が見えないようローブをずらし、俺は寝台へ腰を下ろした。グレイは身の丈をちぢこめるようにして床に剣を立てて、うずくまった。


 ──国王マティウス二世の二歳違いの弟、シベリウス。


 クローディア王女の父親で、以前お茶会に招かれたクララさまの夫君。国王から王立魔法学院の再建を任された、この蒼の塔の最高責任者だ。


 そして──若き日のセドリック=エレメントルートに果たし合いを申し込んだ、エルヴィン王女の二人の兄の一人である。


 やがて、入口付近がにぎやかになった。


 衝立に近づき、向こうの様子をうかがってみる。──入ってきたのは男性ばかりが五人。王弟はどの男か、ひと目でわかる。


 彼は生き写しといってよいほど国王に似通っている。整った目鼻立ち、雨に濡れた地面のように濃い茶色の髪と瞳。背格好もほとんど変わらないのに、彼らを取り違えることはない。国王が()であるなら、王弟は()。影と光、硬質な石とやわらかな羽毛、そのくらい、彼らは身にまとう空気が違う。


 爵位授与式でまみえた王弟は、ごく円満な人柄と見受けられた。けれど、彼も妹のためになら相手の男へやいばを向けることも(いと)わない人間のはずだ。


「……旦那さま」


 俺の()から衝立の外をのぞいていたグレイがささやいた。たれ目がいつもより多少鋭くなっている。「あのかたがたは、いかがですか」


 彼が言うのは仮面の男のことだ。──長身、痩せぎすの文人肌。茶色の瞳の、若くはない高位の貴族。国王も王弟も、仮面の男その人ではないと調べがついている。同伴者は、側近らしい男性が二人と、護衛の若い近衛騎士が二人。


「……まだ、わかりません」


 俺も小声で返す。二人の貴族はどちらも中年だ。一方は背が低く、でっぷりとした体格だから(はぶ)いてもかまわないだろう。もう一方が長身だ。中背のオドネルより、明らかに背が高い。


 アセルス人にはありふれた、濃い茶色の髪である。離れているので瞳の色まではわからない。面長の顔立ちには品があり、やや頬がこけて青白い。線の細い、痩せた男だ。


「どうかね、オドネルくん」


 太った貴族が、珍しそうに周囲を見回しながら問うている。


「おかげさまで、材料は順調に集まっておりますよ」


 オドネルはすまして返す。「新たな教本の執筆にも取りかかっております」


「開校までにはどのくらいかかりそうだね?」

「さ……いささか人手が不足しておりまして。来年中に目処が立てば上々、というところですな」

「──そういえば」


 王弟が口を開いた。彼は国王と、声まで似ている。


「オドネルくんには、以前助手の世話を頼まれていたね」


 兄ほど重苦しくはない、やわらかみのある気さくな口ぶりだ。


「申し訳ない。うっかり忘れていたよ」


 話しながら、一同は棚の陰に隠れて見えなくなった。王弟が頭でも下げたのだろうか。オドネルが大あわてで、おおとんでもない! もったいなきお言葉! などと叫んでいる。


 もう一人の貴族は黙ったままだ。──俺はあの男の、声が聞きたいのに。


 オドネルは授業に取り入れる予定の魔法の種類を説明したり、教科書の下書きを見せたりしているようだ。受け答えするのは太った貴族のほうである。長身の貴族と思われる声は、一度も聞こえてこない。


「──では、いずれまた、進捗を聞かせてもらうよ」


 滞在はわずか二十分足らずだった。室内をほんのひとめぐりしただけで、一同は扉へ向かう。──そのとき王弟が、一歩下がって付き従う長身の貴族に目を向けた。


「フィリップ、次の予定は?」

「コーティアからの使節団に、国王陛下のご名代で謁見を」


 この声は……


「似てますか?」


 グレイに問われて、俺はうなずいた。「はい、そんな気が……」


「あとをつけましょう」


 魔法剣士は、ひょいと右手を上げた。「『虫よ(べーぬ)示すものへ(りぶりーろ)』……」 


 ──ふいにカローロが、俺の上着の袖を引いた。


「グレイさん、待って」

「え」


 おそらくグレイは小霊のたぐいを召喚して、フィリップと呼ばれた貴族を追跡させようとした。しかし俺は、彼の手をとどめた。従者はただちに詠唱をやめた。


 そうこうしているうちに、王弟一行は扉を開けて出ていってしまう。かまわない。『フィリップ』の身元は、オドネルが知っているだろう。


 カローロが、俺の守護精霊(ぞるがんど)が、俺を引き止めた。そのほうが俺にとっては重要だった。


「旦那さま、どうなさったんです?」


 ()かれても、すぐには答えられない。カローロがグレイを止めさせたのはなぜなのか、俺にもよくわかっていないからだ。


 オドネルが衝立の向こうから顔をのぞかせた。「どうかしたのかね?」


「オドネルさん」


 俺は立ち上がった。ずっと床にかがみ込んでいたので、膝が少々しびれている。脚をさすりながら、『フィリップ』とは誰なのかを尋ねてみる。


「ああ」


 オドネルはうなずいた。


「レールケ卿だよ。シベリウス殿下の側近だ。──フィリップ・ジールマン・テレリア・ディルク=レールケ伯爵」





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