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「師匠」
ユーリ=ローランドは、グレイが飄々と姿を消した扉へ目をやった。まだ充分驚きを残した声でつぶやく。「……ありがとうございました」
それに対してオドネルは、なんの話かね、とでも言わんばかりに、軽く眉を上げただけだ。
「二人とも、かけたまえ」
いつもの大机へ手を伸べる。
──なんとも言いようのない、不思議な気分だった。
オドネルの態度は、俺の想像とは異なった。日ごろこの手の話題に対峙するときの彼、つまり、ユーリへの想いを毛筋ほども悟られまいと、あわてふためく様子とは似ても似つかない。
ふうん……
「では、カイルくん。これからおこなう『契約の儀式』について説明しよう」
俺の従者がユーリを不快にさせたなら申し訳なく思う。でも、どうしてだろう。俺の頬はゆるんでしまう。
俺たちは席についた。オドネルは目元をなごませて口を開いた。
「人ならざるものは、多くの人がいる場所には姿を見せないと思われがちだ。──神々しかり、精霊もまたしかり」
焦げ茶色の瞳はいつでも優しく、痩せて高い頬骨や、口の端にしばしば浮かぶしわは大人びて、とても思慮深く見える。
「だが、考えてもみてごらん。天地には神々が在り、森羅万象には精霊が宿る。彼らはわれわれがいるこの世界の、ほんの少し階層がずれただけの場所にいる。むろん種類は地域によってさまざまだ。かといって、迷宮まで出向かなければ、会えないわけじゃない」
うん。こうやって楽しそうに話す彼を、俺はじつにいいと思うんだ。
「ましてや蒼の塔は王宮の一部だ。千年にも及ぶアセルス王国の歴史が染みついた、古くからある建造物だ。──王宮は、王都で最も神域に近い」
黒いローブをまとう右手が指し示すのにつられ、俺も辺りを見回した。石造りの壁と、たくさんの小窓が取り巻く広い部屋。棚へ押し込められたり、机に積み上げられた無数の本。埃をかぶった金属の道具類。乾いた植物が山盛りの籠や箱。──すでに見慣れた、いつもの光景。
「カイルくん、呪文を覚えてきたかね?」
「はい」
「大変よろしい」
オドネルは満足そうに、両の手のひらをこすり合わせた。
「これからきみは、『門』を開けて呼びかけるんだ。この蒼の塔、王宮に棲まう精霊たちへ」
森羅万象には精霊が宿る。この塔の中にも、たとえ目には見えなかろうと、神や精霊の気配はそこかしこにある。
「声が届くか、応じてもらえるかは、カイルくんの力量次第だ。きみの気配を気に入るものがいれば、向こうから近寄ってくる」
姿が見えたら名前を付けてやりなさい、と、オドネルは言う。愛馬が仔を産んだら名付けるように、子どもが気に入りの人形を、愛称で呼ぶように。心に浮かんだ言葉でかまわない。相手がそれを受け入れれば──
守護精霊、あるいは、案内人とも呼ばれる、俺だけの精霊になる。
「カイルくん、持っているだろう?」
オドネルが自分の左胸を指でつついた。意味がわかり、俺は上着の胸ポケットをさぐる。──必ずここに入れている。彼にもらった幸運の護符だ。
「それを握って──ああ、左手で。右の手は使わない。争う意志がないことを示さなければね。そう、それでいい」
小さなメダルには、ほかでは見かけない文様と、精霊の言葉が刻まれている。
「気持ちが充分落ちついてからでかまわない。よければ、始めたまえ」
「はい」
俺は大きく息を吸いこんだ。目を閉じる。──なにも見えなくなると、塔の中はとても静かだ。聞こえてくるもろもろの気配は、遠いところでほんのわずか。
人ならざるものに、呼びかける。
「『よをことほいでかみがみにもうす』……」
誰かに俺の声が聞こえるだろうか。誰かに俺が見えるだろうか。
「……『ささげるにえは あめつちをうごかすわがちから』」
護符を握る、左の手指に力を込める。俺の魔力を感じ取り、興味を持ってくれるものがいるだろうか。
「『ささげるにえは わがたましいをあらわすまことのな』」
俺は今まで、自分から誰かに呼びかけたことがあるだろうか。俺自身を知ってもらいたいと、強く願ったことがあるだろうか。
「『さかいにいますかみのみつかい ためしたまえ』……」
詠い終えて目を開けた。──机をはさんで座るユーリが、オドネルを見ている。術を行使する俺ではなく、かたわらの彼へ瞳を向けている。
あ……
彼女の頭上を、なにかが通り過ぎた。
もう一度。
ひらり、と、光が中空でひるがえる。ナナカマドの実のような、つややかな赤。いや、森の木の葉の緑。それとも、澄みきった空の青?
黒く煤けた天井に、大きな翼が輝いた。長い尾。とがったくちばしがある。羽ばたくごと、ぼやけていた輪郭が形を取る。──鳥だ。
ユーリが息をのんだ。オドネルも目を瞠っている。彼らにも、見えている。
「おいで……」
立ち上がり、護符を握った左手を差し伸べてみる。翼が虹のように色を変える。そのたびに、こまかな光のつぶが辺りへ散った。
ゆったりと、波打つように翼は大きく上下する。円を描いて回りながら、薄青いガラス玉みたいな瞳が、こちらを見た。そして──ひときわ高い棚のてっぺんへ、片方ずつ脚を下ろした。長い長い垂り尾が、床とのなかばまで差しかかり、輝く翼を静かにたたむ。
首を優雅にかしげ、こちらを見ている。俺はくり返し呼びかけた。心に浮かんできた言葉で。「……おいで、カローロ」
思い出してつけ加える。『契約』とは、互いの名前を呼び交わすことだ。──捧げる贄は、わが魂を表す真実の名。
「僕は……カイル」
再び──
カローロは、両の翼の先までを、思いきり伸ばすように広げた。そのとき確かに、彼が俺の名前を呼んだように思った。ふんわりと羽をはためかせ、ひと飛びで目の前の大机へ舞い降りる。
「これは驚いた……!」
いよいよ耐えかねたように、オドネルが声をあげた。
「カイルくん、これは、導きの神の眷族だよ!」
「導き、の神……ですか?」
「そうとも。『天を駆け地を駆け言の葉を伝うる神』とも、『翼神』とも呼ばれる」
翼神。
たたんだカローロの翼は色を変えるのをやめ、まるで俺の手の中の護符のような、鈍い銀色に落ちついた。目の上と長い首に沿って、濃い色の筋が入っている。頭は白に近く、背は灰色に近い。極端に尾の長い鷺のような印象だ。
「導きの神の末裔が人の守護精霊になるとは、あまり聞かない話だが」
オドネルは机に両手をついて慎重に立ち上がる。──彼の身の丈と、天板の中央で羽を休めるカローロとが、ちょうど同じくらいの高さになった。
カローロの澄んだ瞳は恐れげもなく、ほっそりとした首をめぐらせる。
オドネルは、ほれぼれとため息をついた。
「なんとも美しいものだねえ……! まのあたりにしたのは、初めてだよ!」
「これから僕、どうしたらいいんでしょう」
まさかこんなに大きな鳥を、うちまで肩にとまらせて帰るわけにもいかないだろう。
「大丈夫、守護精霊は求められなければ姿を見せないよ。──できるだけ言葉をかけてやりなさい。カイルくんの魔力が、彼の糧になるからね」
「すごいですね、ティ坊ちゃま……」
ユーリは呆然とカローロの姿を見つめていた。「師匠、わたしもいつか、こんな精霊を呼び出せるようになりますか?」
「もちろん。ローランドくんにも必ずできるようになる」
ジュリアン=オドネルは、彼の最初の弟子にして、ほかの誰よりも美しいと讃える女性へ目を移す。──いつもと同じ、穏やかで優しい瞳をユーリに向ける。
「きみのように努力を惜しまず勉学に励む人なら、きっとね」
◆◇◆
その夜、報告のために、オーリーンがエディットの部屋を訪れていた。
「ハティア王妃、王后陛下の母后の病の件ですが──」
有能な秘書は、銀縁眼鏡を押し上げつつ、この一両日で判明した事実を簡潔に述べてゆく。──曰く、隣国ハティアから王妃重篤の知らせが届いたのはおよそ二週間前。王后が国王に帰国を願い出、異例ともいえる里帰りが認められたのは、その直後だそうだ。国王は年の離れた若妻にかくも甘い、と、批判的な声もないではないらしい。
テオドア王子がアントニエッタ王后と同行できない理由は、彼がアセルス唯一の王子であるからだけではない。王后が必ずアセルスへ戻ってくるように──でもあるのだ。
アントニエッタさまは、母上の病状が思わしくないことを、以前から知っていた。政治的な配慮もあり、公にはしていなかったのだ。しかし、いよいよ快癒は難しいとの知らせを受け、思い余って夫君である国王の慈悲にすがった。──今のところ、これ以上の情報はない、とオーリーンは言う。
「……そうか、わかった」
エディットはうなずいた。ハティア行きが決まってからの彼女は、今までに比べれば帰宅が早い。旅の準備のためである。
「では、私はこれで失礼いたします」
秘書が出ていくと、エディットは俺を見て、かすかな笑みを浮かべた。
「わたしが間違っていたのかもしれない」
「間違い?」
「王后陛下は、わたしの随行を心から望んでくださっているようなんだ。隊長職が手に余るなら、帰国後は元の副隊長に戻してもいいとまでおっしゃる。──本当に、それだけなのかもしれないな」
本当に誰の策謀でもなければいい──俺もうなずいた。
「……王后陛下はおつらそうだ」
エディットの声が沈んだ。彼女は父親だけでなく、母親も亡くしている。生まれてくるはずだった弟と二人、命を落としてしまった。国王、王弟兄弟の妹、銀の髪のエルヴィン姫。
母親の話になると、エディットは口が重くなる。──父親のセドリック=エレメントルート卿は、王都に参勤の際、王宮の主宮殿でなにものかに殺害された。エディットは国許のキトリーにいた。
けれど、エルヴィン夫人は、亡くなるその日まで彼女とともに暮らしていた。日に日に大きくなる母親のおなかを、エディットはずっと見ていたはずだ。生まれてくるのは弟か妹か、心待ちにしていただろう。セドリック卿の訃報を耳にしたエルヴィン夫人は、お産に耐えられなかったのかもしれない。幼い娘を残して、逝ってしまった。
「ともかく、三日後には出発だ。なんとしても、王后陛下を無事ハティアまでお連れしなければ」
切れ長の瞳に強い光が宿る。俺は彼女の硬く整った横顔を見つめながら、思いきって口を開いた。
「お願いがあります」
「なんだ?」
「僕に部屋の鍵を貸してもらえないでしょうか。ここで寝泊まりしたいんです」
前から決めていた。もしもエディットのハティア行きが誰かに仕組まれたことであれば、留守中『証拠の手紙』を奪いに屋敷へくるものがいるのではないか。
もとより手紙は偽物である。しかし、敵はそれを知らない。手先はダーヴィド一家と知れたが、裏にいるらしい仮面の男の正体は、いまだつかめていないのだ。なら、襲撃は望むところだ。敵のさらなる手がかりを、得られるかもしれないのだから。
番をするのが俺では心もとないだろう。だが、俺にはもう守護精霊がいる。……カローロにどんな能力があるのか、まだぜんぜん知らないんだけどさ。
エディットは瞳を大きく瞠っていた。瞬きひとつしやしない。──まあ、驚かれても当然か。俺って今まで、やる気のあるところを見せてなかったからね。
「カイル……」
「はい」
「それは、少し、時期尚早だと思うんだが」
エディットは俺から目をそらし、卓上のティーカップへ手を伸ばした。その指が、わずかに震えているようだ。
「わたしは……」
「…………」
「誤解しないでもらいたい。わ、わたしは別に、嫌だと言っているわけじゃない」
ん?
カチカチカチカチカチ──カップとソーサーが触れ合う音が、小刻みに続いている。お茶に口をつけようとはせず、彼女はひどく真剣な、悲壮ともとれる表情である。
「だが、出発が近い。今のわたしにはそういうことを考える余裕がないんだ。どうかわかってくれないか」
ええと……?
「僕が言ったのは、出発の日の朝に鍵をもらえれば、って意味で……」
俺が留守中エディットの部屋で寝起きするってこと……だよ?
──今宵を過ぎれば、彼女がハティアへ出発するまで、あと二日。




