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 ……そんな。


 思わず、息をのんだ。


 ──舞い落ちる花びらを美しく刺しゅうしたテーブルクロスの下で、俺のこぶしにそっと添えられた手があった。


 エディットはまっすぐに前を、正面に座るアントニエッタ王后を見つめていた。彼女の手のひらは冷たい。俺と同じように、彼女も知らなかったのだ。


 アントニエッタさまの母上が、重い病気であるという。そのお見舞いに、エディットをともなう。だから彼女が親衛隊の隊長になる。


 ゆく先はハティア王国。王都の遥かかなた。草原のただ中にある、ずうっと向こうの南の国。


「僕もおばあさまにお会いしたい!」


 テオドア王子が叫ぶ。アントニエッタさまの瞳が、せつなげに(かげ)った。


「ゆうべもお話ししたでしょう、テオドア。行けるのはお母さまだけなのよ」

「どうして?!」


 そうだよ。どうしてだよ。


「嫌だ! 僕も母上といっしょに行く!」


 俺も行く。いっしょに行く。


「いっしょに行けたらどんなにいいかしら」


 アントニエッタさまは幼い息子の手を握り、小さな体を引き寄せた。


「あなたはアセルスに一人きりの王子ですもの。もしもお父さまになにかがあれば、あなたが国王になるからよ。あなたはこの国にいなくてはいけないの」


 俺は王子さまじゃない。俺ならいなくなっても、誰一人困らない。誰にも迷惑はかけない。


「ひと月と半分だけよ。テオドア、待っていてくれるでしょう?」

「………………」


 ひと月半も──


 テオドア王子は、唇をかみしめて黙り込んだ。


 八歳の少年は、懸命に涙をこらえようとしている。この年ごろの子どもがひと月半も母親とはなればなれになるなんて、きっとこの世の終わりか、それ以上の絶望的な悲劇に違いない。


「……さぞやおさびしいことでしょうね。大丈夫、時間はすぐに経ちますよ」


 優しい声で耳元にささやかれ、ハッとした。左隣に座るホフマン夫人が、気がかりそうに俺をのぞき込んでいた。


 俺はまた、考えることがまるまる顔に出ていたらしい。いっしょに行けるわけがない。思いやりに満ちたまなざしに、恥ずかしくなった。急いで目を上げる。


「お気づかいいただいて、ありがとうございます」


 当たり前の声で、言えた。


 国王マティウス二世は、妻と子のやり取りを黙ってながめていた。


「……テオドア」


 (おごそ)かとさえいえる口調で、王は息子の名を呼んだ。テオドア王子を差し招く。辺りはしんと静まり返った。


「はい、父上」

「父といっしょに、母上の帰りを待っていよう」


 ──それは、思いがけなく温かみにあふれた声だった。


 手のつけられない乱暴ものだったそうだ。丸腰の平民を斬ったといううわさもあると聞いた。ただのうわさではない証拠に、彼は三十を過ぎてもなお、次代の王に指名されなかった。


 それなのに。


 暗い色をしたマティウス二世の瞳は、テオドア王子の瞳を、しっかりと見つめて言う。


「父もさびしいが、おまえとともに待とう。テオドア、できるな?」

「はい……」


 ひく、と、王子の喉が鳴る。


「お帰りを、お待ちしています。母上……」


 国王は、息子の頭の上に大きな手のひらを載せた。


 ──帰りの馬車の中で、エディットは一度も口を開こうとしなかった。


 屋敷へ着くなり、彼女は全員を居間へ召集した。みんなに向かい、晩餐の席で発表されたハティア行きの件と、それがための隊長昇進であったことを告げる。


「……なんだと思う、これは」


 問いかけとも自問ともつかないエディットのつぶやきに、オーリーンは眉を片方つり上げた。


「表向きは、理にかなっておりますな」

「理にかなっている? どこが!」


 エディットはいらいらと居間中を歩き回る。どうしても納得できないようだ。オーリーンがなだめるように言葉をつなぐ。


「王后陛下が女性騎士の同道を望まれたことがです。ましてや長い道中、気心の知れた身内にそばにいてもらいたいと思われるのは、ごく自然なこと」

「隊長に昇進までさせる必要があるか?!」

「随行を確実にするためでしょう。決して断られないようにと」


 秘書をにらみつける彼女の瞳は、いかにも疑わしげだ。


「……本当に、誰の作為もないと思うのか」


 オーリーンは首を振った。「いいえ」


「…………」


 あからさまに理屈に合わない箇所はない。だが、かすかな違和感があった。服のボタンをひとつずつ掛け違えているような、靴ひもの長さが左右で少しずつ異なっているような──二人はそう感じている。


 これは()の罠なのか?


 だとしても、いったいどこまでが?


 すべての心がかりをひと息で吐き出そうとするように、エディットは深いため息をついた。


「カイル」

「はい」

()()貴族は、いたか」


 仮面の男の件である。


「背格好が似た人なら、何人か……」


 男性の出席者は、近衛隊の役付きのもの、つまりは武官が大半を占めていた。文官にも見える線の細い男は多くない。俺は四人ばかりの名前を挙げた。ただし、俺を見て顔色を変えたり、露骨な態度を取ったものは一人もいなかった。


「のちほど、爵位授与式の出席者と照らし合わせましょう」


 聞き返しもせずにうなずく秘書が頼もしい。


 エディットは、みんなを見回した。「調べのほうはどうなっている」


 侍女のバルバラが、きびきびと前へ進み出た。


「ホフマン隊長が国王陛下の部隊に戻るお話は、かなり以前からあったようです」


 バルバラは、国王付きの現隊長の名を口にした。「彼の引退は、年頭から決まっていたらしいので」


「わたしがホフマン隊長の後任候補となったのはいつだ」

「当初からのようですね。エディットさまに限らず、副隊長のお三方は全員」


 現在副隊長職にあるものから次の隊長を選ぶ。当然のなりゆきである。ただ、王后付きの部隊はそうなのに、国王付きの部隊では違う流れになっている。


「国王さまの部隊の、病気の副隊長さんのことですが……」


 下男のマイルズが、おずおずと口を出す。


「前々からの持病が悪くなったって気の毒なお話で……別段おかしなうわさもありませんでしたよ。今は療治のために、国許へお帰りになっていなさるとか」

「そうか……」


 うなずきはする。しかし、エディットの表情は晴れない。


「わかった。引き続き、王后陛下の母君──ハティア王妃の(やまい)の件、本当にそこまで重篤なのか、知らせがきたのはいつなのか、裏を取ってくれ」

「そのようにいたしましょう」


 と、オーリーンが(こた)えた。


 エディットは瞳を伏せて、しばらく考えているようだった。


「──ボリス」

「は」

「供をしろ」


 彼女が幼いころから剣の師を務めてきたという中年の従者にも、それは少なからず意外な言葉だったようだ。ドワーフによく似たいかつい顔が、けげんそうになる。「……どちらへ?」


「ハティアだ。決まっているだろう」

「え!」


 頓狂な声をあげたのは、背高の若い従者のほうである。無理もない。現在エディットのお付きは彼、グレイだ。同行するなら自分だと、当然思っていたはずだ。


「お供はなんとしても私が!」


 青灰色のたれ目が、いつになくとんがっている。グレイは憤然と胸にこぶしをあてた。


「不肖、このグレイヴ・スティレット=レーヴァテイン、必ずやエディットさまの、ひいては王后陛下のお役に立ってみせましょう!」

「………………」


 美麗な弧を描くエディットの眉が、わずかにひそめられた。


「……グレイ」

「はいっ!」

「あなたをともなうわけにはいかない」

「そ、そんな! どうしてなんです?!」


 口にするかするまいか、エディットは少々迷ったようである。が、結局彼女は、グレイの前に立った。


「わたしがなにも知らないと思うのか」

「え」


 エディットは大きく腕を組み、遥か頭上で目をしばしばさせている従者の顔を、きっぱりと見上げる。


「わたしの供で王宮へ出入りするのをいいことに、女官たちに粉をかけているだろう」


 とたんに背後のバルバラの目が三角になった。グレイは直立不動の姿勢をとった。


「い、いいえ! まさか、めっそうもございません!」

「嘘をつけ。王后陛下のご旅行には多くの侍女、女官が付き従う。そんな中にあなたを連れていけば、どうなると思う?」

「どうにもなりませんよ。ほ、本当ですって」


 グレイは必死である。だが、エディットはそっけなく首を振った。


「だめだ」

「エディットさま!」

「だめなものはだめだ」

「──待ってください」


 俺はエディットをさえぎった。紫の瞳が、じろりとこちらを向く。


「なんだ、カイル」

「お願いします。グレイさんを連れていってください」

「なに?」


 俺が口を出すのは筋が違うかもしれない。でも、ここでひるんでいてはだめだ。


 あれは、クローディア王女がうちへ遊びにきたときだ。エディットは、今とまったく同じように言った。


 ──グレイを置いていく。


 ひょろひょろでとぼけた顔をしたこの青年は、エレメントルート伯爵家で一番強い男だ。きっと剣の腕だけなら、ドワーフおじさんのほうが(まさ)るだろう。しかし、グレイは魔法使いでもある。それもおそらく、生まれた時代が異なれば、相当の()()になったであろう強大な魔力を持つ。


 彼は俺の最初の従者である。彼の性格では俺のお付きが務まらずに代わってしまったが、エディットは俺に最強の守護者をつけたのだ。


 いつだってそうだ。──俺は、今の自分の姿を見下ろす。赤毛を隠す金色の髪。背丈を変える厚底の靴。いつもいつも彼女は俺を(かば)い護り、危ないものから遠ざけようとしている。


 俺がグレイのような男だったらどんなにいいだろう。俺がいっしょに行って彼女を守れたら、と、心の底から思う。でも、悔しいけど、今の俺にそんな力はないんだ。


「僕のことなら大丈夫です。ですから、お供には」

「だめだ」


 エディットは断固として言い切った。「もう決めた。供はボリスだ。──いいな、ボリス」


「は、承りました」

「でも!」

「カイル、この屋敷に住むのはあなただけじゃない」


 それは、そうかもしれないけど、でも。


 彼女の瞳は、決して揺らぐことのない強固な意志を宿していた。


「この話は終わりだ。出発まで日がないぞ。オーリーン、可能な限り情報を集めてくれ」

「かしこまりました」


 長くつややかな黒髪がひるがえる。剣を手に、エディットは足早に居間を出ていく。がっくりと肩を落としたグレイを、マイルズと料理長のネロが慰めている。


「待ってください!」

「……旦那さま」


 バルバラが、静かに俺の腕を押さえた。「お着替えを先にすませましょう? ね?」


「………………」


 俺はうなずいた。「……はい」


 かつらの糊をきれいに落とすには、特別な薬をもちいる。俺が湯殿を使い、二階へ行ってみると、エディットの部屋はすでに明かりが消えていた。俺はすごすごと自室に引き返した。


 ──このとき、エディットがハティアへ出発するまで、あと五日。






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