47
俺には今、目標が三つある。
──コン、コン、コン。
扉をたたいて、少し待つ。俺が抱えているのは二冊の本だ。一冊は午前中に読み終えた。もう一冊は、まだ読んでいる真っ最中。
「入れ」
お邪魔しまーす。
エディットはいつも帰りが遅い。王后さまの「ご陪食」とやらで、うちでは夕食をとらないこともしばしばだ。
だから、彼女といっしょに食事をするのは難しい。料理長のネロはがっかりしてるけど、仕事なのでしかたがない。
「──カイル」
手にした書類から目を上げて、エディットはにこりと笑んだ。
外では木枯らしが庭木をざわざわ揺さぶっている。でも部屋の中では、暖炉に火が入っている。湯上がりの彼女は、湿りけの残った黒髪を高く結い上げ、頬がほのかに桜色だ。
エディットは長椅子の背にかけていた肘を下ろし、少しだけ右に寄った。これは俺に、隣へ座れって言ってるんだよね。
彼女の左隣に腰を下ろす。ものすごくいいにおいがする。俺は読み終えた本をテーブルに置き、読みかけの本を膝の上で開く。彼女の瞳は、すでに書類へ戻っている。
「………………」
広いマホガニーの天板の上には、無造作に散らばった書類や手紙が何枚も。もちろん、蒼の塔のオドネルほどの散らかしようではないけれど。
書き連ねた言葉の中に、「キトリー」とか「ガルドルート」といった、領地に関する地名が混じる。治水工事にかかる予算の承認を求める内容だ。
「それって」
余計なことかも、と思いながら、つい俺は口を開く。エディットは首をかしげた。
「本当は、僕がしなければいけない仕事でしょうか」
すると、彼女の瞳が丸くなった。この人は一見そっけなくて無愛想だけど、意外と顔に出るたちだ。今のは俺の台詞にびっくりしたらしい。
だって俺は、よく考えたら──よく考えなくても──エレメントルート伯爵、キトリーの領主である。まだ領地へはいっぺんも足を向けていないが、領主には領民の暮らしを守り、助ける役目がある。少なくとも、俺の実家の家族はみんながそうしている。
……あ。
唇がほころんだ。彼女はまた、笑ったのだ。
「うん」
大つぶの紫水晶みたいな瞳が、俺を見て、ふと、なごむ。
「そのうち、頼む」
そのうち。
「今はまだ、いろいろと難しい時期だ。これがすんだら……」
これがすんだら。
──俺の、ひとつ目の目標は。
「あの……」
言いかけたところへ、ノックの音が。──秘書のオーリーンが入ってきた。彼は銀縁眼鏡の奥から俺を見下ろすと、すぐさまエディットへ向き直った。
二人は国許のなんとかという豪商が、王都の商業権を手に入れたがっているという話を始めた。俺は本の頁をめくる。──男は古文書を調べ、まだ見ぬ海底神殿の場所を見極める。そして、深海に棲まう精霊から、水中でも呼吸ができる、不思議な力を借り受ける。いよいよ彼は、東の果ての海へ身を投じるのだ。
「──かしこまりました。そのように取り計らいましょう」
オーリーンは、エディットが署名した書類を数枚受け取った。「では、おやすみなさいませ、旦那さま、奥さま」
エディットが唇をとがらせた。秘書はそ知らぬふうに眼鏡を押し上げる。しかつめらしく一礼し、出ていった。
よし、今だ。──俺が息を吸いこんだ、そのとき。
「カイル」
「は、はいっ!」
「さっき、なにか言いかけなかったか?」
言います、今。今すぐ。
なのに、またしてもノックの音である。もうー、今度は誰?
「「……失礼いたします」」
執事のワトキンスと、侍女のバルバラだった。二人はしずしずとお茶のセットを運んできた。お菓子のお皿には可愛らしいチョコレートが盛られ、しかもよく見ると、ひとつぶひとつぶがこまかくもすべて異なる意匠である。飾りつけをしたネロの気合いが伝わってくるようだ。
「……………………」
そそくさとテーブルの上を整頓するバルバラは、やけにすまし顔だ。ワトキンスの眼光なんか、いつにも増してギラついている。お茶とお菓子をならべ終え、ようやく彼らは去った。今度こそ、俺たちは二人きり。
カップを手にすると、温かい湯気がほんのり頬をくすぐった。
「……すぐじゃなくてもいいんです」
訊くのは怖い。でも──勇気出せ、俺。
「義父上と義母上のことを、僕に聞かせてもらえませんか」
琥珀色のお茶がたゆたうカップから、目を離せなかった。ずっと尋ねたいと思っていたのだ。けれど、不幸な亡くなりかただったという両親の話を、彼女は口にしたくないかもしれない。
「……………………」
沈黙は長かった。
「……そうだな」
顔を上げると、エディットの生真面目な瞳が、俺を見ていた。
「知りたいか? たいして珍しくもない話だが」
──知りたいのは、あなたのこと。
俺がうなずくと、彼女は少し笑う。
「これから徐々に話していこう。……それでかまわないだろうか」
「はい、もちろん」
彼女は手にした書類へ再び目を戻してしまう。俺も本を開き直した。
……ひとつ目の目標は、なんとかなったかな。
二人だけの時間が、ゆっくりと静かに流れてゆく。──やがて仕事がひと段落したのか、エディットは両手を組み合わせ、天井へ向けて軽く伸びをした。
「それ、面白かったです」
テーブルの上に置いてある、読み終えた本のことを言ってみる。
「……そうだろう?」
彼女はふうっと息を吐き出した。根をつめていたのか、少し疲れているように見えた。
エディットの朝は早い。だから寝るのも俺より早い。俺の二つ目の目標を達する機会は、まさしく今。
じきに寝じたくのため、彼女は立ち上がってしまう。そうなる前に、早く。
急いで手を伸ばした。しっかりと鍛えてある彼女の二の腕をつかむ。引き寄せ──られないかもしれないので、俺から腰を浮かせて、戸惑うようにこちらを見た彼女の、
俺の唇は、雪のように白く、やわらかな頬に触れた。
「……………………」
長いまつ毛にふちどられた瞳が、ぱっちりと瞬いた。
あっ、しまった。彼女はまだ、寝るって言ってなかったのに。
「……おやすみなさい」
とりあえず、言ってみた。
もう引っ込みがつかない。顔が一気に熱くなってくる。俺は勢いよく立ち上がった。はずみで膝から本が転がり落ちてしまって、あわてて拾い上げる。
「うん……おやすみ」
エディットが応えたのは耳に入っていた。でも、彼女の顔を見られない。心臓がどきどきして、どうにも収まる気配がない。
口に出してしまったからには、自室へ帰ることになる。扉を開けたとき、我慢できずに振り返った。瞳が合う。──よかった、怒ってないみたい。
「おやすみなさい!」
もういっぺん言って、廊下へ駆け出した。こぶしをぐっと握りしめる。──成功。目標達成。俺からの、おやすみのキス。
そして三つ目の目標。──翌日の、蒼の塔。
「……カイルくん、いいかね」
向かい合うオドネルが、なみなみならぬ意欲を見せて、俺に言う。
「召喚魔法だからといって、なにも気負う必要はないんだよ。魔力を外へ伝える方法は、想像魔法と少しも変わらない」
「はい」
「それでは、待っていたまえ」
言うなり、くるりと俺に背を向ける。ローブの裾を両手で持ち上げ、サンダルをバタバタさせて遠ざかってゆく。
いつもなら大量のガラクタと山盛りの本がごちゃまぜの、蒼の塔である。が、今日は部屋の真ん中だけが、ぽっかりと空いている。何日も前から、三人でせっせと片付けたのだ。
オドネルは横倒しにした大机の陰へ駆け込んだ。彼の隣では、机のへりをつかんだユーリが目から上だけのぞかせている。
「──さあ、いいぞ! 始まりの大神の頭上に輝く雷にかけて、いざとなれば私が天から龍王を呼んでみせる! 心置きなくやりたまえ!」
気負っているのはいったいどっちなの……
ようするに、彼らは避難しているのである。
俺の魔力がどれほどのものか把握しきれていないから、というのが、王宮魔法士ジュリアン=オドネルの主張だった。これから俺が唱えるのは、以前ユーリがやって見せたのと同じ、炎の精霊の力を借りる呪文である。蒼の塔には古くて貴重な書物がたくさんある。燃え移ったら大変なことになる。
周囲に水を満たしたバケツをいくつも配置した。石の床は、掃き清めてちりひとつない。ぽつんと中央に、蓋を開けた金属の箱。たきぎがひとたば、無造作につっこんである。
──魔法使いは、言葉に力を与えるもの。
召喚魔法とは、神々の坐す高みへ至るための努力だ。人よりも高位のものへ言葉をつくして呼びかけ、応えてもらう。
多くの人間が知らないだけで、神々や精霊は名前を秘してはいない。人との交わりを拒んでもいない。神の怒りに触れまいとするあまり、神のもとへ近づく努力を怠るのは間違いだ。神々は、自分たちが忘れ去られることなど、望んではいないのだから。
火の神の眷族は人間に寛大だ、と、オドネルは言った。炎を司る神の末裔。辺りに火の粉をまき散らす、いたずらもので残酷な、人間好きの精霊は、長く長く美しい調べの名前を持つ。契約に従い、その名前のほんの一部を、俺は口にする。
──詠う。
燃え盛る炎を、俺のこの手に。人々が暖を取り、煮炊きをする、あつかいを間違えればすべてを灰燼と化す偉大な力の片はしを借りる言葉。
たきぎを目で見つめ、指で示す。
「……『シツ』」
指先から炎が出るわけではない。俺自身の魔力で、離れたたきぎまで、借りた力を届けるんだ。
「……………………」
しばらく待った。
大机の向こうから、オドネルとユーリが固唾をのむ気配がひしひしと伝わってくる。かなりの圧力だが、あせらないあせらない。俺は晩成型なんだから。
なおも待った。
……もしかして、届いてない? 俺の魔力。
確かめようと足を一歩踏み出したとき、パチ、と、小枝のはぜる音がした。
あっ。
急いで箱の中をのぞき込む。ひとすじの煙とともに、乾いた木の焦げるにおいもする。──火かき棒を差し入れてみた。箱の奥深く、一番底の小枝に赤い光が灯っている。空気を得て、すぐに大きくなってくる。
わあ。
ひと呼吸するあいだに、炎はめらめらと立ち昇った。燃料があるとはいえ、俺が想像魔法でつけられる炎なら、こうはいかないと思う。火力はずっと強いようだ。
「ティ坊ちゃま、やりましたね!」
「おめでとう、カイルくん!」
オドネルとユーリが駆け寄ってきた。こんな、ものものしい準備なんて、ぜんぜん必要なかった。でも二人とも喜んでくれているから、まあいいや。三つ目の目標も達成だ。
「せっかくですから、ティ坊ちゃまがつけた火でお湯を沸かしてお茶にしましょうか」
とは、ユーリ先生の提案だ。
彼女が換気のために窓を開け、外の井戸まで水を汲みに行くあいだ、オドネルと俺は机や椅子を元に戻すことになった。
「カイルくんは、召喚魔法で、覚えたい呪文が、あるんだろう?」
大机をひっくり返し、二人で引きずるように運びながら、オドネルが問うてくる。
「は、はいっ」
俺も息を切らしながら答える。
「僕の、『魔導書』に、ある」
「ふううむ」
そこで机は入口近くのいつもの場所へとたどり着いた。もういっぺんひっくり返すと、俺たちの息はすっかり上がってしまった。
ユーリが戻ってきた。たきぎが燃える箱の両脇に椅子を置き、背もたれにやかんを引っ掛けた鉄の棒を渡す。これで即席のかまどができあがりだ。
「──でも、ティ坊ちゃまも愛ですよねえ」
俺は、俺の元家庭教師が唐突に口にした台詞に目をむいた。
「ユーリ先生、どういう意味ですか?」
「え? 坊ちゃまがもっと魔法を覚えようとしているのって、エディット姫のためなんでしょう?」
「ええ、そうですが……」
このところ俺が考え続けているのは、どうしたらエディットの役に立てるのか、それにつきる。
「……ローランドくん、ローランドくん」
オドネルがゴホゴホ妙な咳払いをする。しかし、ユーリは気づいているのかいないのか、あっさりと続けた。
「それって、エディット姫を愛してるからじゃないんですか?」
──えっ?
え? え? え?
俺の頭に浮かんだのは、それだけだ。
そうなの? 俺、そういうことなの??