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再び、銀星館の夜は更ける。
全員が力を合わせ、倒れた棚や、散らかった衣装だの家財道具だのを元に戻してゆく。
エディットも俺も、手伝いを申し出た。だが、お客さまだから、とか、病人だから、と、相手にしてもらえない。結局俺たちは長椅子の上に追いやられ、てきぱきと立ち働くみんなをながめているだけだった。
なんとまあ、手ぎわがいいことだろう。どこもかしこも瞬く間に元通りだ。俺たちが下手な手出しをしていたら、かえって邪魔になったに違いない。
片付けが佳境に差しかかったころ、この界隈の町役人だという男が一人、銀星館を訪れた。小柄だがはしっこそうな若者で、やくざどもは適当に追い払ったから、と、知らせにきてくれたのだ。
「ひでえ真似しやがるなあ」
役人は、あきれたように顔をしかめた。荒らされた室内と、鍵を壊された裏口を見分しての言である。
「ほどほどのところで見逃してやってくださいな」
苦笑いしながらラウラが頼むと、役人は肩をすくめ、「わかってらァ」と、片目をつむってみせた。
銀星館の数少ない男衆は、通いである。住み込みは若い女の子ばかりだ。裏口の扉のノブには頑丈なロープを縛りつけ、柱まで伸ばしてぐるぐる巻きにされた。
このすきにお屋敷まで使いを出しましょう、と、ラウラは言う。明るくなって、迎えの馬車に乗り込んでしまえば、いくらダーヴィド一家といえど、手出しはできない。──だから泊まっておいきなさいな、と優しく言われ、俺たちはその言葉に甘えることにした。
「──寒くない?」
「はい」
俺は楽人の一人から、寝間着代わりにシャツを借りていた。体の大きな男の人のものだ。ぶかぶかの袖は、まくってもまくってもすぐ落ちてくる。
つい先ほど戸棚へしまったばかりの毛布をラウラの指図で引っ張り出し、寝台へ広げる。──俺は彼女の部屋を一人で使わせてもらうことになっていた。なんだか申し訳なく思うが、男は俺だけだからしかたがない。ラウラもエディットも、女の子たちの部屋に分かれて休むのだ。
「ラウラさん」
「なあに?」
「本を見てもいいですか?」
寝台の向こうに、背の高い書棚がひとつ。
銀髪の老婦人は微笑んだ。
「どうぞ。かまいませんよ」
コツン、と、杖で床を鳴らし、寝台の棚へランプを載せてくれる。眠る前に読みたいのだということを、よくわかっていらっしゃる。
人の本棚をのぞくのは楽しい。多いのは算術や経理の本だ。『金もうけの秘訣』なんてのもあった。中段の棚には、踊るように手足を振り上げたり、旗を持った小さな人形がいくつも飾ってある。その後ろに、楽譜だとか衣装のデザインを書き留めた帳面のほか、俺にも読めそうな物語の題名も見えた。
ちょっと意外だ。引き裂かれた幼なじみの男女の悲恋、機械人形を愛した青年の物語、浮気ものの公爵夫人を諷した戯曲──そんな中、最果ての国に生まれた老剣士が、弟子をお供に東方をめざす漫遊記。
俺は異国を旅する物語が大好きだ。自分がめったに出歩かないせいかもしれない。それを抜き取って振り返ると、口元に手を当てたラウラが、くすくす笑う。
「みんな、男の子ねえ」
みんな?
「お兄さまたちも、うちへ泊まるときはみんなその本を選んだのよ」
俺は少しばかり、変な顔をしたかもしれない。ラウラは瞳をなごませた。
「……アウグスさまは、わたしの騎士なの」
彼女が言うのは、七人兄弟の一番上、アウグスブレヒトのことだ。
「この街で商いをしていると、今夜みたいなできごとは、しょっちゅうなのよ。──もう十六年か、十七年前になるかしら。わたしが通りでやくざものに因縁をつけられたとき、助けに入ってくださったのがアウグスさまだわ」
俺は思わず目をぱちくりさせてしまった。長兄は、俺の兄だけあって腕っぷしの強い猛者ではぜんぜんない。ましてや、今の俺と同じ年のころならなおさらだろう。
それを告げると、ラウラは声をあげて笑った。「ええ、確かにそうね」
じゃあ、そんな兄さまが、どうして。
ラウラは杖を支えに寝台へ腰を下ろした。──彼女の瞳は、昔の長兄を思い出すように俺を見つめる。ほのかに青みがかった緑のまなざしが、やっぱり初めてではない気がする。俺は彼女の隣へ腰かけた。
「きっと、とても怖かったでしょうね」
恐ろしいに決まってる。俺たちを追ってきたような乱暴もの幾人もを相手に、十五、六歳の少年が、一人でなんて。
「『おまえたち、ご婦人になにをするか!』って──声も体も震わせながらおっしゃってくださったこと、わたしは生涯忘れません」
それを機に、周りの大人たちが仲裁に入った。長兄にもラウラにもさしたる怪我はなく、ことなきを得たそうだ。
へえええー……
あの穏やかなアウグス兄さまが──俺は、愛妻家で子ぼんのうな、今の長兄を思い出す。
「……わたしは今まで、彼ほど勇気のある人に出会ったことがないわ」
まるで神へ祈りを捧げるように、しわ深い手指をそっと組み合わせる。ひそやかな、しかし、思いを込めた声音で、ラウラは言う。
「本当よ」
──やがて俺は一人になり、寝台へ横になった。
老剣士の旅物語は、想像通りに面白かった。熱が下がったのか、それとも上がっているのか、自分ではよくわからない。ただ、清潔でやわらかな夜具の感触が温かく、心地よい。
コン、コン、コン。
扉がたたかれた。ラウラが戻ってきたのか。俺は本を閉じて起き上がった。
「どうぞ」
遠慮がちに顔をのぞかせたのは、エディットだった。
「……少し、いいだろうか?」
彼女は長い黒髪をほどき、質素な木綿の部屋着に着替えていた。誰かの服を借りたのだろう。剣を手にしてはいても、そうして長いスカートをはくだけで彼女の果敢さは鳴りをひそめ、ひどく女性らしく見えた。
エディットが腰を下ろすと、寝台のはしが少し沈んだ。鞘に収めたレイピアを、膝の上に横たえる。
「………………」
しばらくのあいだ、彼女は自分の剣の、複雑な曲線を描いた鍔をじっと見つめていた。
ようやく、口を開く。
「……わたしはあなたに、謝らなければいけないことがある」
「え」
「あなたが拉致されたのも、結局は父の手紙の件だろう?」
ああ、その話。
『証拠の手紙』を狙うダーヴィドの配下には、二組が存在した。
一方は「アーノルド組」。近衛騎士を介して俺をコンラート広場へ呼び出したが、おそらくはオーリーンが手を回し、一網打尽になったと聞く。しかし、もう一方の「ベリンダ組」が行き合った俺を捕らえ、監禁した。──つまるところは、どちらの目的も同じだった。
エディットは、俺のほうを見ようとしない。
「カイル」
「はい」
「わたしは、あなたに言わなければと、ずっと思っていた。あの手紙は……」
言葉にするのをためらうように、瞳を伏せる。「以前見せたあの手紙は、じつは」
「……偽物なんでしょう?」
俺が尋ねると、エディットはこちらへ顔を振り向けた。あっけにとられたように口を開ける。
「どうして、それを」
──やっぱりそうか。
俺を捕らえた姐御たちの隠れ家でも、連れていかれたダーヴィドの館でも、誰もが『証拠の手紙』のことを知っていた。それはエディットが──秘書のオーリーンが、かもしれないが──画策して、うわさをまいたからと考えれば納得できる。目的は、敵を屋敷までおびき寄せるためだ。
『十三年前、エディットさまの父君、セドリック=エレメントルート卿は、王宮でなにものかに殺害された。犯人は不明のまま、いまだに捕らえられておりません。──その殺害犯を、われわれは追っている』
オーリーンは、はっきりと「犯人は不明」だと言っていた。それは、その通りなんだろう。殺害犯が誰なのか、わかっているなら、わざわざ探す必要はない。
つまり、証拠となりうる手紙など、はなから存在しなかったのではないか──と、俺は考えたのだ。
本当に、セドリック=エレメントルート卿殺害犯の手がかりが記された手紙があるなら、それを証拠として犯人を告発すればいい。蜘蛛のごとく網を張り、『証拠の手紙』にかかる敵を待ちかまえる──考えてみれば、回りくどい話だ。
手紙は偽物だと仮定すれば、なぜそんな真似をしたのか、説明がつく。
俺がそのようなことを述べるあいだ、エディットは驚きを隠せないように瞳を見開いていた。
「十三年間誰にも知られていなかった『手紙』が唐突に出てくるのも、おかしな話ですし……」
口にしてから、思い出す。
唐突、でもないのか。エレオノーラ王太后──おばあさまが亡くなるまでは、表立った行動を起こすわけにはいかなかった、と、オーリーンが言っていたっけ。
その言葉が意味するところは。
彼らが、セドリック=エレメントルート卿殺害犯、もしくは、犯行の黒幕と考えている人物は……
エディットは、大きく息を吐き出した。
「──カイル」
「はい」
「くわしい話は、帰ってからゆっくり聞かせてもらうが……今、ひとつだけ教えてもらえるか」
「なんでしょうか」
菫の瞳に、苦痛の色が混じる。
「ダーヴィドは……」
「…………」
「あの手紙がどこに隠してあるか、知ったのか」
俺は首を振った。「いいえ」
「やつはあなたを……その……脅したんだろう?」
では、彼女はラウラから聞いたのだ。──俺がダーヴィドにくり返し殴られ、蹴られた痕。
「はい。でも、僕には言えませんでした」
「なぜ」
きっと、俺がすんなり白状したほうが、エディットにはよかったんだよね。
拷問、というほどのものではない。彼ならもっとすさまじい、どんな剛のものでもたちまち口を割るような、あまたの仕打ちを心得ている。そんな目に遭わずにすんだのは、ダーヴィドが俺を人質に使うつもりで手かげんしたからだ。
それと、そうなる前に、デメトリオが俺の居場所を彼女に知らせてくれたから。
「隠し場所を知られたら、また、ダーヴィドの配下がうちにきます」
「ああ、くるだろうな」
むしろ、それが彼女の目的なのはわかってたんだけど……
「……危ない目に遭うからです」
「誰が」
──あなたがですよ。美しいエディット姫。
俺は口にしなかったのに、あっさりばれた。エディットは瞳を丸くした。
「わたしがか?!」
そうです……
どうやら彼女の剣の腕は並の男を上回るし、やせっぽちのちびとはいえ、俺なんか簡単にだっこできちゃうくらい鍛えてあるわけで。
「わたしが?! 危険な目に遭うから?!」
彼女は腰を浮かせている。驚くのも無理はない。無理はないけど、そう思っちゃったんだからしかたがないでしょう。
「──うるさーい! 痴話喧嘩なら、よそでやって!」
隣の部屋から声がかかった。エディットは、すとん、と、夜具の上に腰を落とした。
馬鹿らしいと思うよね……うん、俺もちょっとそう思う……
「……カイル」
「はい」
まだ呆然といってもいい表情のまま、エディットはつぶやいた。「……そこを、よけろ」
え?
「詰めろ。壁のほうに」
なんで?
「わたしもここで寝る」
……はっ?!
自慢じゃないが、俺は言われたことが腑に落ちるまで時間を要するたちだ。それをぼんやりであると人は言う。いや、誰に言われなくても自分で思う。俺は、明敏とか、利発といった言葉とは縁遠い。
しかしながら、いかな俺だとて、彼女が今、なにを口にしたのかくらいは理解できる。俺の奥さまは俺に対し、いっしょに、同じ寝台でお休みになると、こうおっしゃったのだ。
俺の驚愕のさまは間違いなく顔に出ていたはずである。エディットは開き直ったように顎を持ち上げた。
「なにが悪い。わたしたちは夫婦だろう」
いやそれは、確かにそうかもしれないが。
「あちらの部屋は人が多い」
言い訳めいた言葉をつけ加える。エディットは俺を壁ぎわへ押しのけ、夜具のはしをめくり上げた。ほんのいくらか、頬が赤くなっているような気がしなくもない。
胸にレイピアをかき抱いた戦乙女が、俺の今夜の寝場所へもぐり込んでくる。エディットは上掛けを強く引き、くるりと背を向けてしまった。
「………………」
あのさあ!
ねえ、わかってる?!
こう見えても俺、一応男なんですけど?!