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暗い水面を、ひたひたと舟はゆく。
「旦那さま」
流れに棹をさすマイルズが、ぐすん、と、鼻をすすりあげた。「本当に、ご無事でようございました」
「……ありがとうございます」
今さらのように気恥ずかしくなった。みんな心配してくれていたのだ。
覆いをかけて光量をしぼったカンテラが、小舟の艫に置かれている。エディットは舳先の近くに腰を下ろし、まっすぐ前を見つめていた。白い頬を引き締め、厳しい横顔のままである。
なにか話しかけようと思った。が、言葉が出てこない。
「……伏せていろ」
エディットが身を低くしてつぶやいた。マイルズはただちに棹を寝かせ、腰をかがめる。俺も二人にならって小さくなった。
風が水面をすべる。対岸の蒲の穂の群れを揺らして過ぎてゆく。向こうの林の中に、松明を掲げた人影がいくつも動いた。せかすような怒号も飛び交う。──あれは、俺が今朝まで捕らわれていた姐御たちの隠れ家だ。
ばらばらと走り出てきた男たちは、数人ずつふた手に分かれた。一方は水路に沿って上流へ、もう一方は下流へと向かってゆく。俺たちが脱出した報があそこにまで届いたのか。
流れに身を任せた舟は喧騒を行き過ぎ、また川べりから人の気配がなくなった。だがエディットは、なおもささやく。
「追っ手だ」
見れば、ずっと後方の川面で、明かりがちらちら動いている。向こうも舟を出したようだ。
「マイルズ」
「へい、エディットさま」
「この先で、わたしたちを降ろしてくれないか」
「へ、へえっ?」
「あなた一人なら、あれをやり過ごせる。すまないが、みんなを迎えに戻ってほしい」
「へえ……で、ですが」
エディットは振り返った。
「頼む」
下男は眉尻を下げてあるじの生真面目な顔を見つめ、ちぢれた金髪をガリガリかき回した。──じきに立ち上がり、棹をつかむ。
「承知しやした!」
威勢よく応える。
赤々と燃える街路灯の美しい繁華街が近づいてきた。俺たちは、大きく弧を描いた石橋の下で舟を降りた。ここまでくると水路の幅が広くなり、すれ違う荷足り舟や渡し舟も増えている。
俺はマイルズの外套を借りた。エディットも、たぐいまれなる美貌をフードで覆い隠す。マイルズは俺たちを振り返り振り返り、さらなる下流へと漕ぎ去っていった。彼はこのあと少しのあいだ身を隠し、それからダーヴィドの館のほうへ戻るのだ。
「……行くぞ」
エディットが、俺の右手を強くつかんだ。闇に浮かんで見えるほど白い手なのに、手のひらの感触は硬い。これは、彼女が幼いころから戦い続けてきた証でもある。
「ここは、どこなんですか?」
足早にゆく彼女と歩調を合わせるため、俺はほとんど駆け足になる。
「オレース街だ」
いらえは今までとまったく同じ。簡潔で、じつにそっけない。
……オレース街?
その名前を、確かに耳にしたことがある。
思い出せないままに、灯火の下へ出た。日暮れからまだいくばくも経たない。繁華街というより、ここはにぎやかな歓楽街だ。
通りは広いが、ごちゃごちゃと連なる建物はどれも丈が低い。なにを商うのか、見たこともない派手な看板に目を奪われる。道ゆく人々は大半が地味な身なりで、いかにも貧しげだ。だが、皆が貧乏でつらそうだったわけではない。酔った男たちは大きな声で笑い、女と連れ立って歩き、騒ぎ、楽しそうなものばかりである。
「きゃあっ!」
近くで、女の悲鳴があがった。
野卑なごろつきが、若い女の被きものをはぎ取っている。周囲にはたちまち人だかりができた。
「うるせえ! どけ! 見せもんじゃねえぞ!」
相棒のちんぴらが、足を止めた人々を追い払う。晩秋のこととて、帽子や頭巾をかぶる人は多い。彼らは男女連れの顔を確かめているようだ。目当ての人物ではないと見るや、突き飛ばすように押しのける。また違う男と女を捕まえては、同じことをくり返している。
彼らが探しているのは、俺たちだ。
「……カイル」
エディットに耳打ちされる。「……わたしから離れるなよ」
「は、はい」
周りの反応に合わせるように、エディットは俺の手を引き、少しずつ人垣から離れていく。だんだんと足早になりつつも、さりげなく小路の角を曲がる。
しかし、思いのほか、追っ手の数は多かった。
曲がった先では、別のならずものが待ちかまえていた。なかなかがたいのいい、中年男の二人組だ。一人は顔中すごいひげ、もう一人は額に大きな刺青である。店先の篝火に照らされたこわもてと、できるだけ目を合わせないようにする。
けれどひげづらが、行き過ぎようとした俺たちを、ぎょろりとにらみつけた。「よう、そこのお二人さん、すまねえが」
ぶらぶらとこちらに歩み寄ってくる。薄汚い男の手が、エディットの外套のフードへ伸びた。
「ちょいとお顔を拝見」
気楽な調子でひげは言ったが、次の瞬間、あんぐりと口を開けて固まった。
フードが落ちた。あらわになった面は、あまりにも美しい。ひげは一歩、後ずさった。エディットの涼やかな目元が、鋭くなる。
彼女の手が、ずっと握りしめていた俺の手を離した。
外套の裾が跳ね上がった。シュ、と、わずかな刃音を立てて、彼女が抜剣したのだ。──再び、左手が俺の右手に戻ってくる。
「があーっ!!」
まるで猛獣のように吠え、今度は刺青のほうが俺たちに突進してきた。
エディットが前へ踏み込んだ。くるりと手首を返す。甲高い金属音とともに、男の手から短刀が飛ばされた。
「うらぁ! 見つけたぞぉ!!」
ひるみもせず、刺青男は素手でつかみかかってくる。エディットは俺の背に腕を回して軽々と避けた。
勢い余って道ばたに転がった男へ、キャーッ! と、女たちの金切り声が響き渡る。篝火のもと、さらけ出された凜々しい美貌に、誰かが指をさして叫んだ。「──見て! エディット姫よ!」
「エディットさまだ!」
「あいつら、ダーヴィド一家のやつらだぞ!」
「エディット姫に加勢しろ!」
石を拾って投げつけるものが現れた。刺青男が丸太のような両腕を振り回し、ひげづらが呼ぶ声に、ちんぴらの一団が通りから駆けつける。酔った若い連中が薪ざっぽを片手に参戦する。罵声が入り交じり、騒ぎは見る間に大きくなった。
「……カイル」
背を押される。フードをかぶり直したエディットが、息をはずませていた。「逃げるぞ」
「は、はい!」
彼女に肩を抱かれるようにして、俺は押し寄せる人波に逆らい、走った。
「どこかに隠れましょう!」
もつれる足を懸命に進めながら、俺は言った。エレメントルート伯爵家の本邸があるお屋敷街まで、まだ道のりは遠そうだ。このままでは同じような騒ぎをくり返してしまう。いくらエディットでも、こんな調子で襲撃を受け続ければ持たないだろう。ならいっそ、しばらく隠れて人目を避け、あとから迎えにきてもらう手だてを考えたほうがいい。
「隠れる? どこへ?」
問い返してくるエディットの声も、いささか疲れているようだ。当たり前だ。いくら王宮騎士でも、彼女は女の子なんだから。
それに、そのころ俺は思い出していたのだ。──夏の終わりまで王都に滞在していた二人の兄、次兄のマクシミリアンと、三兄のレオンハルト。彼らが別れぎわに言った言葉。
──ティ、なにか困ったことがあったら、オレース街にある『銀星館』へ行け。
──本当に困ったときだけだぞ。
「なにかあったら頼るよう、兄たちに言われたんです。銀星館って、知りませんか?」
エディットは眉をひそめた。
「銀星館?」
彼女は銀星館を知らなかった。ようやく人いきれから逃れ、俺は暗い建物の陰へエディットを押し込んだ。
「ここで待っていてください。誰かに訊いてみます」
「カイル」
「大丈夫ですよ。僕一人のほうが目立ちませんから」
彼女はなにかを言いかけるように、わずかに唇を開いた。その瞳を、俺は下からのぞき込む。「……すぐに戻ります」
つないだ手を、俺からほどいた。
なるべくダーヴィド一家の息がかかっていなさそうな人に尋ねなければならない。俺は通り沿いにならぶ屋台に目をつけた。いいにおいのする串ものを焼く、人の好さそうな老人がいる。
「あのう……すみません」
俺は少しだけ外套のフードをずらした。顔を隠していては、かえって警戒されてしまう。
「銀星館ってどこにあるか、ご存じですか?」
老人は俺を見て目を丸くした。「坊やが行くのかい?」
「はい、そうです」
ん?
「ちいっと、早えんじゃねえのかえ?」
串を焼く白い煙の向こうで、真っ白な眉を下げて、老人は苦笑いをする。
──俺なんかが行くのは、そぐわないような場所なのか?
ともあれ、老人は見た目通りに親切だった。商う品を買うわけでもなくものを尋ねる俺へ、快く答えてくれる。──ここから東に、二町ばかし行った先だよ。大きなひとつ星の看板があるから、じきにわかるさ。
「ありがとうございます」
礼を言い、エディットのもとへ駆け戻った。彼女はちゃんと、別れたところで待っていた。
「場所がわかりました。こっちです」
再び、彼女の手を握る。
たった二町の道のりが、ひどく遠くに感じられた。辻ごとにやくざものが検問をもうけている。さっきの騒ぎで時を食ってしまったすきに、ダーヴィドの手がすっかり回っているようだ。
大きな、ひとつ星の看板。
本当にすぐ見つかった。道を教えてくれたおじいさんの眉よりも、なお白い純白の星。石壁に掲げられた看板には、ひとつ星の隣に凝った飾り文字で、『銀星館』と描かれている。
建ちならぶほかの店より盛大な篝火と、ずらりと軒に下がったぼんぼりのせいで、この一角はまるで昼間のような明るさだ。騒々しい音楽と大勢の人。呼び込みの声も囂しく、出入りするのは男ばかり。
ここはなんだろう? 劇場か?
俺はエディットと顔を見合わせた。あんまり人が多いので、正面から入るのはためらわれる。塀を回り、裏口を探す。
たどり着いた勝手口らしき扉の向こうも、にぎやかだった。それでも、聞こえてくるのが女の人の声だけなので、俺は少しほっとした。──軽く扉をたたいてみる。
が。
ギャーッハッハッハァ、と、ものすごい笑い声がして、俺の控えめなノックの音など、瞬時にかき消されてしまった。俺はめげずにもう一度、たたいてみた。
「はあーい! だあれ?!」
今度は気づいてもらえたらしい。──と、息をつく暇さえなく、扉は内から開いた。俺は危うく鼻柱を打ちつけるところだった。
「どちらさまぁ?」
出てきた若い娘に、ぎょっとした。──言い訳はなしにしよう。真っ先に目に入ったのは、ほんの申し訳程度の布、それも金ぴかの布を当てた乳房である。大きさは舐瓜ほどもあるだろうか。また、じつに見事にくびれた腰で、おへそなんか丸出しだ。その下も、極小の三角で覆われているだけ。
気を取り直して上を見る。ぽってりした唇は派手な赤。とろんと酒に酔ったような青い瞳。濃いくまどりのまぶたには銀粉を散らしている。亜麻色の髪のてっぺんに、孔雀の羽根を生やした金の冠。
俺は思わずエディットを振り返ってしまった。フードを持ち上げた彼女の瞳も、まん丸になっている。
娘は唇に人差し指をあて、しなを作って色っぽく小首をかしげた。
「あんたたち誰ぇ? なんかご用ぉ?」
ねえ、ちょっと兄さまたち……ここ、なんのお店なの?




