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どうして、エディットが……?
彼女はまつわりつく外套をはねのけ、レイピアをかまえて、そこにいた。
「……わたしの夫は、どこだ」
石壁にかこまれただだっ広い通路、柱ごとに灯る小さな明かりが揺れた。凄烈な怒りを抑えてくり返す声音に怖じけたものか。兵士は震える指で、後ろをさす。
──エディットが、こちらを向いた。
瞳を大きく瞠った。ほんのわずか、唇を開いた。──柄尻を、ガツン、と兵士の頭に食らわせる。気の毒な若い兵士は、たちどころにのびてしまった。
「カイル!」
檻をもぶった斬るかという剣幕である。エディットは鉄格子に取りついた。
「無事か?!」
「………………」
「カイル! 返事をしろ!!」
「……は、はい」
「待ってろ、今そっちへ行く」
彼女の姿が扉の陰に見えなくなった。取っ手をつかんでガチャガチャ揺さぶる音がする。──それで俺は、われに返った。
「……開きません、開かないんです」
鉄扉の向こうから、エディットが勢いよく戻ってくる。「なんだと?」
「ふ、ふさがれていて、魔法で」
「あなたにも開けられないのか?」
「はい……」
残念ながら……
ただでさえ険しかった美貌が、いちだんと険しくなった。彼女は眉間にしわを寄せて怒鳴った。
「グレイ!」
キン! カキン!──向こうではひっきりなしに、つるぎを打ち合わせる音が続いている。「あっちだ!」「追え!」などと、幾人かの声もする。
「グレイ! 早くこい!」
「……ちょっと待ってくださーい……」
湿った通路にこだまする声の調子は、どう考えても取り込み中だろう。が、まるで頓着せずにエディットは叫んだ。
「いいからこい!!」
──どたばたと足音が近づいてきた。角を曲がってきたのは、背高従者のグレイである。彼のあとにはお供がいた。剣を振りかざしたダーヴィドの私兵が二名、ならずもの一名の、計三名だ。
「おいっ! 止まれ!」
「待てやこらァ!」
「やや! これはこれは旦那さま!」
グレイはかついでいた長剣を、横に一閃させた。「ご無事でしたか!」
「早く開けろ!」
エディットは眉をつり上げ、今にも地団太を踏まんばかりだ。
「そ、そうはおっしゃいましても、少々、お待ちを」
三筋のやいばをすばやく流しつつ、グレイはしどろもどろである。
「グレイ! まだかっ!!」
「はっ、はいっ!──もー、わがままなんだから……」
「なにか言ったか?!」
「い、いいえ!」
「──この野郎!」
ならずものが大刀をぶん回す。長い手足が器用にかわした先に、兵士二人がおどりかかった。
「ただいますぐに!」
それをがっきと受け止めて、グレイは大きな声を張り上げた。「『開門』!」
次の瞬間──
ドカン! と、鉄扉が吹っ飛んだ。いや、吹っ飛んだというのは比喩だ。勢いよく全開して石壁にたたきつけられた。
地下を揺るがすすさまじい轟音と、結構な地響きがした。土埃を透かして見れば、通路にならぶ扉がすべて開ききっている。俺の牢のすみにすえてある水がめの蓋までが、音を立てて転がってきた。
「……………………」
俺とエディットは、はからずも見つめ合った。……この分なら、地上の玄関扉や衣装戸棚の引き出しまで、残らず開いているのかも。
いつのまにやら、三人いたはずの追っ手が一人欠けている。真向かいの牢の扉が完全にはずれ、通路に倒れていた。どうやら姿が見えないならずものは、下敷きになってしまったようだ。居どころが悪かったとしか言いようがない。
「お待たせいたしました!」
すっかり腰を抜かした兵士二人はうっちゃらかして、グレイは、どうだ、という顔をした。
「ご苦労だった」
エディットはグレイにうなずいてみせた。レイピアを鞘に収め、牢の中へ飛び込んでくる。へたり込んだ俺の前に、片膝をつく。
おぼろな明かりのもと、つやめく長い黒髪が揺れて、床へ流れ落ちた。
「カイル、大丈夫か」
「あの、どうして、どうやって、ここへ……?」
まだ信じられない。夢にまで見た彼女の瞳が、目の前にある。俺は冷たい床に伏して眠ったままなのか、とすら思う。
「知らせてくれた人がいた」
この色だ──深く澄んだ、真摯な光をたたえた紫。俺のつたない魔法では、どうしても描ききれない。
「あなたが魔法を教わっているオドネルという人の、昔なじみだと言っていた」
デメトリオか……!
ふうっと気が遠くなりかける。エディットが息をのんだ。
「カイル!」
……ああ、まただ。
この国に、たった一人の王宮魔法士、ジュリアン=オドネル。彼の存在が、彼の言葉が、暗いところにひとりぼっちでいる俺を、すくい上げてくれる。
俺を本当の名前で呼ぶ人は、今この世に二人しかいない。そのうちの一人が彼だ。俺をいにしえの英雄の名で呼ぶのは、オドネルのほかに、
「カイル、目を開けろ、カイル!」
ほかには、彼女だけ。
ためらいがちな両手が、俺の肩をつかんだ。何度も打ちつけた痛みに、心ならずも顔をゆがめてしまう。──と、ふいに脇と膝の下へ、腕を差し入れられた。
え?
体が浮き上がる。急いで目を開けて、ぎょっとした。美の女神もかくやといううるわしい面差しが、至近距離だ。
「──姫さま!」
こちらも長剣を片手に、俺の従者、ドワーフおじさんが駆けつけてくる。
「お早く。退路は確保してあります」
息ひとつ切らさずに言い、鉄格子越しにエディットに抱き上げられた俺へ目を向ける。いつもは謹厳極まりない瞳が、少しだけなごんだ。「……旦那さま」
エディットはきりりとうなずいた。
「よし、撤収だ。カイル、つかまっていてくれよ」
ええっ?!
「私は一階の応援に戻ります。グレイ、お二方を頼むぞ」
「承知!」
お願いだから、ちょっと待って!!
誰一人待ってくれやしなかった。ドワーフおじさんは通路を引き返してゆき、グレイ、エディット──と俺──の順にあとへ続く。角を曲がり、しばらく走って階段を駆け上がる。
意外と! 思ってたより! 大きいんですけど!! ──胸が!!!
身の置きどころがないとは、まさしくだ。しかし、結局は彼女の首にかじりついているよりほかはない。
一階へ出ると、騒ぎはいっそう大きくなった。広間の真ん中で大勢の兵士にかこまれているのは、小山のように巨大な料理長、ネロだ。門のかんぬきらしい太い角材を振り回し、敵をなぎ払う。
「おお、エディットさま! 早くあちらへ!」
彼がお鍋と包丁以外の得物を手にするなんて、思いもよらなかった。四、五人がまとめて吹っ飛んだすきに、ドワーフおじさんが加勢した。さすがの剣さばきで、次々と兵たちを切り伏せていく。
「グレイ! エディットさま!」
向こうの出口から、侍女のバルバラが俺たちを呼ぶ。彼女もいつものメイド服ではない。エディットと同じような黒の上下で、いかにも頑丈そうな金属の手甲をはめていた。足元では、彼女がたたきのめしたとおぼしき男が二人、目を回している。
「ダーヴィドに気づかれました。じきに戻ってきます」
バルバラが息をはずませながら言う。やつの外出先にもすでに知らせが行ったそうだ。「エディットさまは、旦那さまと、早く!」
「──いたぞ! こっちだ!」
「エディットさま、早く行って!」
廊下の角から、剣を手にした兵士が数人現れる。エディットは力強くうなずいた。
「わかった。バルバラも無理はするな」
「はい!」
小柄な侍女は、バキバキと十指を鳴らした。大きく息を吸いこんで、追っ手のほうへ駆け出してゆく。
「僕、歩けます!」
ようやく口をはさむすきができた。「もう下ろしてください!」
だって、俺を抱えて走り続けたエディットの息も、相当あがっている。いや、いろいろそれだけじゃないけど!
「平気ですから!」
なんてことはない。掛け値なし。間違いなし。言葉通り。──今さらながら、地に足がついてよろけた俺を、エディットの腕が支えてくれる。
「なにをもたもたしている……!」
間一髪。このうえさっきまでの格好を彼に見られるくらいなら、地下牢で一人孤独に朽ち果てたほうが、遥かにましだ。
がさごそと、ローブの裾をさばきつつ現れたのは、デメトリオだった。
黒衣の魔法使いは深くかぶったフードを持ち上げ、エディットと俺、そして、かたわらのグレイを見回した。黒いまなこがちらりと見えたが、どうやら彼はかんかんに怒っている。
「あんたが魔法士か?! いったいどういうつもりなんだ……?!」
デメトリオはグレイの胸に骨ばった指を突きつけ、ぼそぼそと罵った。
「……恩を仇で返すとは、このことだな! あんたも魔法使いと名のつく生きものなら、ロードリアスの精霊がどれだけ繊細か、聞き及んではおらんのか?!」
「は、いえ、申し訳ありません。その、緊急事態だったものでして」
グレイが二メートルの高みからしきりと頭を下げる。察するに、彼が無理矢理扉をこじ開けたのがよくなかったらしい。デメトリオは憤懣やるかたなく、どうしたって収まりがつかないようだ。
「なんたる馬鹿魔力だ! 俺はお宅の秘書とやらに、解呪の法を伝えたはずだぞ?! もう彼女との契約はぶち壊しだ! あれをわがものとするのに幾年月をかけたと思う。きさまもいっぺん行ってみるがいい。西の最果てロードリアスの地、灼熱の迷宮へな……!」
「それは大変申し訳ないことをした」
進み出たのはエディットである。「わたしに魔法や精霊のことはわからないが、幾重にもお詫び申し上げる」
「あんたか」
デメトリオは、やや鼻白んだような声音に変わった。
「家来のしつけが行き届いていないんじゃないのか……?」
「すまない。彼はわたしの命令に従っただけだ」
エディットの紫のまなざしが、魔法使いの昏い瞳を、ひたと見つめる。
「責任はすべてわたしにある。どうか許してほしい」
「……ふん」
デメトリオはフードをかたむけ、きびすを返した。
「早くこい……ダーヴィドが、ほうぼうに知らせをやって人を集めている。逃げ切れるかわからんぞ」
「グレイ、あなたはここに残ってくれ。みんなを頼む」
エディットは従者へささやきかけた。
「ほどほどに暴れてこい。いいか、ほどほどに、だぞ」
「かしこまりました」
いつもはのんびりと鷹揚なグレイが、唇を引き結んだ。
「エディットさま、旦那さまも、ご無事で」
「うん」
にこり、と心安くうなずき、エディットは俺の腕を取った。小走りにデメトリオのあとを追いながら、振り返ってみる。──グレイがバルバラにつかみかかったならずものへ、長剣を振りかぶったところだった。
「──お二人とも、早く早く!!」
通用口から出たところで、声がかかった。──流れる水路に小舟が一艘待っている。手には長い棹、艫に立つのは下男のマイルズだ。じりじりと伸び上がってこちらを見ているものだから、舟がずいぶん揺れている。
デメトリオはローブの腕を上げ、舟着き場を指し示した。
「……さあ、行け。ここは結界を張って人が入れないようにしてあるが、今だけだ」
「あなたはいっしょにこないのか」
エディットが魔法使いに問う。彼は俺を逃がすため、みんなをこの館へ引き入れたのだ。ただではすむまい。しかし、デメトリオはしわがれた笑い声を立てた。
「なに、ダーヴィドは俺を手放したりはせんよ」
魔法使いはフードの下から、再び瞳をのぞかせた。
「エレメントルート伯爵……」
「は、はい」
長い白髪に似合わない、若々しい不思議な笑顔。
「ジュリアンさまへ、俺がよろしく言っていたと伝えてくれるか」
「はい、伝えます。オドネルさんは蒼の塔にいます。訪ねていけば、いつでも会えますよ」
「いや……」
かぶりを振る。そして彼は、左手の人差し指と中指をそろえ、俺の額にそっと添えた。
「勇敢な伯爵閣下に、これから先も、始まりの大神の加護があるように……」
「ありがとう、心から感謝する」
と、エディットが言った。
俺とエディットは、マイルズが棹をあやつる小舟に乗り移った。もう日はすっかり落ちている。舟着き場から俺たちを見送ってくれるデメトリオの黒いローブ姿は、すぐに宵闇にまぎれて見えなくなった。
──このまま水路をくだっていけば、王都の真ん中まで戻ることができるのである。