39
館は広大で、まるで古城のようだった。
ダーヴィドに呼ばれ、私兵らしいのが幾人も現れた。俺がほとんど引きずられるようにして連れていかれた先は、地下である。暗くじめじめした通路に、兵たちの手によって明かりが灯されてゆく。姐御のねぐらで押し込められた地下倉など比べものにならないほどの、堅牢な鉄格子が浮かび上がった。
ぴちょん……ぴちょん……ぴちょん……
どこかで水の垂れる音が、かすかに響いている。
牢はどこもがらんどうで、ほかに囚人の姿はない。一番奥の鉄扉が開けられた。ダーヴィドが俺を、石張りの硬い床へ放り出す。
「あのおかたのいないところで、ゆっくり話がしたかったのだよ……」
俺を見下ろして笑うまなざしが、不気味な光をたたえている。いよいよ残忍な本性を現したか。
「本当は知っているんだろう? 手紙はどこに隠してある?」
──答えてしまったほうが、いいんだろうか。
そんな考えが頭をよぎる。
きっとエディットは、わざと王都中に『証拠の手紙』のうわさを振りまいた。手紙を餌にして、敵をおびき寄せるためだ。俺がありかをしゃべったほうが、かえって彼女の計画通りになるんじゃないのか?
でも。
──だめだ。俺には言えない。
言ってしまえば、こいつがまた姐御の一味のようなやつらを屋敷へ送る。襲撃は、エディットが家にいるときかもしれない。そうしたら、彼女がこんなふうに、傷ついたり、怪我をしたり──死んでしまうことだって、あるかもしれない。
俺には言えない。
「知りません……」
かぶりを振ると、ダーヴィドはいまいましげに俺をねめつけて舌打ちした。
「しぶとい子どもだ」
何度も殴られ、足蹴にされた。俺はうずくまってひたすら耐えた。引き起こされ、殴られ、床に倒れ──くり返すうちに、ろくに痛みすら感じなくなってくる。やがてダーヴィドは、大きな息を吐いて音を上げた。
「これ以上痕を残すのは得策ではないな……少しやりかたを変えようか」
「どうするのだ……?」
問うているのはデメトリオ──魔法使いの声だ。
「それはこれから考えるとしよう」
笑いをふくんだダーヴィドの声と靴音が、二歩ばかり、俺から離れた。すぐに立ち止まる。
「エレメントルート伯爵、おまえさんは、例の手紙を読んだかね?」
「いいえ……」
知らない。エディットは、俺に手紙の中までは見せなかった。──彼女は書棚の奥から古びた封書を取り出し、こちらへ向けて掲げただけ。
「私はね、本当は手紙なんか欲しくないんだ。知りたいだけなんだよ。どちらの名前が書いてあるのか」
どちらの?
「デメトリオ、錠前のほうは頼んだよ」
「ああ、心得た……」
靴音は今度こそ去ってゆく。鉄扉が陰鬱なきしみをあげて開き、そして閉じた。ダーヴィドが私兵らになにかを命じている。見張りのために幾人かが残るようだ。
「しっかりしろ」
いきなり体を起こされ、抱えられた。冷たい金属の感触が唇へ添えられる。──あふれたのは水だった。俺はむさぼるように、飲んだ。
「……あのかたは、お元気か」
かすれた声が耳元で言う。デメトリオは俺の手のひらに、小さなものを押しつけた。「……ジュリアンさまは」
「え……?」
「ジュリアン=オドネル。これを持っているなら、親しいんじゃないのか……? 俺は、あのかたの乳兄弟だ」
こんなところで、彼の名前を聞くなんて。
俺はどうにかまぶたを持ち上げた。──魔法使いの黒い瞳が、間近に俺をのぞき込んでいる。老爺と見まがう白髪にしわがれた声音だが、フードに隠されていた顔は、思ったよりもずっと若い。
「知っています。元気です、とても……」
飲んだ水が体に行き渡ったのか、四肢の感覚が戻ってくる。デメトリオが俺の手に握らせたのは、オドネルからもらった護符だった。
「それはなにより……」
デメトリオは莞爾と微笑んだ。俺の体を床へ横たえ、立ち上がる。
「あの……」
「ジュリアンさまが息災と知れて……本当によかった……」
それで彼の瞳はフードの奥へ埋もれてしまった。長いローブの裾をさわさわ言わせ、きびすを返す。
──えっ? 行っちゃうの?
再び扉が開く音。──そして、ガチャン、と、じつにあっけなく閉じた。
「……『ロードリアスの精霊よ なんじより美しきものはない』」
鉄扉の向こうから、ぶつぶつと呪文を唱える声がする。「『まことの名前を知らぬものに 決して姿を見せてはならぬ』……」
俺は懸命に床をはって、鉄格子に取りすがった。頑丈な格子のあいだから通路をのぞいてみる。デメトリオの黒いローブ姿は、すたすたと遠ざかってゆく。
「あのう……!」
出ない声を無理矢理張り上げてみた。が、彼は振り向きもしない。後ろ姿はじきに角を曲がり、見えなくなってしまう。
ちょっと……逃がしてくれとまでは言わないけど、せめて扉に魔法をかけないとかしてくれても、罰は当たらないんじゃない?
いや、待てよ。向こうには見張りの兵士がいる。呪文を唱える声がしないとあやしまれるから、適当に詠ったふりをしたのかも。
腕も、背も、脚も痛い。それでも俺は立ち上がった。鉄扉の取っ手をつかんでみる。──びくりともしやしない。
鍵穴へ、肩の痛みをこらえて右手の指をあててみる。魔力が通る感じがぜんぜん伝わってこない。一応呪文も唱えてみたが、結果は推して知るべしだ。
「くそっ……」
本気でふさいでやがる。俺は扉を背にして床へ座り込んだ。
なにか方法はないのか。ここから出る方法は。デメトリオの呪文は、おそらく召喚魔法だ。俺はまだ、まったくといっていいほど召喚魔法を学んでいない。理解していなければ、もちろん解くこともできない。
……そうだ。
うちの玄関ホールのシャンデリアを貫いた、魔法の矢。
精霊が憑いた扉を、俺の魔力で打ち破るのは難しいだろう。しかし、鉄格子ならどうだ? デメトリオは、あくまで扉が開かないように、魔法をかけただけじゃないのか?
物質化した魔力は、武器にもなる。
魔法とは、魔物の法。魔物が持つ人外の力は、じつは人にもそなわっている。人間は、表に出すすべを忘れただけだ。自らの内なる力を溜めて、外へ現す。
俺は右の手のひらに、意識を集める。できるだけ多くの力を、俺の右手に。
やがて、透き通った光の玉が生まれる。──これに形を与えよう、そう思った。鋼鉄だって切り裂く、とがったやいばを想像しようとした。
だが、俺の口からこぼれた言葉は、
「……『紫』」
透明な魔力の玉は、俺の声に応えて色を宿した。──でも違う。俺が思い描いていたのは、こんなふうじゃない。もっと濃くて、もっと澄んだ紫だ。葡萄の色より少し淡く、暮れなずむ空よりもずっと深い。そんな紫がいいのに。
全身が痛む。次第に息も上がってくる。
俺はとても疲れていた。集中はいくらも続かない。──魔力の玉は、じきにしぼんで消えてしまった。
冷たい床へ横になる。殴られて熱を持った体に、ひんやりした石の感触が心地よい。このところ、いろんなことがあり過ぎた。休もう。眠ればきっと、なにかいい考えが浮かぶ。
目を閉じた。──そして俺は、夢を見た。
俺はまだ、エディットに一度も魔法を見せていなかった。クローディア王女には見せたのに。だから俺は、彼女の前で『花火』を演じてみせる。俺が一番美しいと思う色で。彼女の瞳とおんなじ、濃い紫の花を空にいっぱい咲かせる夢。
──けれど、遠くから聞こえてくる喧噪が、俺を現の世界に引き戻した。
ずいぶん長い時間眠ってしまったらしい。すっかり冷え切った体は硬くこわばり、手足を伸ばそうにも容易に動かせない。
耳をすます。徐々にこちらへ近づいてくるあれは、剣戟の音。
「くせものだっ!」
「地下だぞッ! 出会え!」
兵たちの声や、バタバタと走り回る音がする。俺は力の入らない五体をふるい立たせて起き上がり、鉄格子に歩み寄った。あいだに顔を押しつけるように通路を見て──そのまま、ずるずると床に崩れ落ちた。
──見張りの兵士と切り結んでいたのは、黒い外套の人物だった。しなやかな細身の体。男性なら小柄だが、女性にしては長身だろう。たばねた黒髪をひるがえし、振りかざすのはレイピアだ。
「うわっ!」
キン! と、やいばが鳴り、兵士が剣を取り落とした。
彼女は切っ先を兵士の喉に突きつけた。切れ長の瞳が、鋭く細められる。
丹朱の唇が開き、涼しげな、それでいて厳しい声を放った。
「──わたしの夫は、どこにいる」