37
カシャン……
掛け金と鎖が触れ合う、かすかとはいえない音がした。
油など一度でも差したことがあるのだろうか。格子戸を押し上げるとき、蝶番がきしんだ。ジョナスが開け閉めしたときは、こんなに大きく鳴っただろうか。
俺は地上へはい出した。一分一秒でも早く、錆びて重たい鉄格子から離れたい。どうしても気が急いてしまう。
どうにか格子戸を閉め、納戸の戸口から顔を出した。消し忘れのほのかな明かりのもと、ひげづらの男たちが、大の字になったり、ちぢこまったりして眠っている。
暗がりに重なり合って響くいびきが、のどかにさえ思えた。一歩ずつ出口へ向かう俺の口は、カラカラに乾いている。当たり前だ。俺は昨日の昼間から一滴の水も飲んでいない。
かまどの隣に、大きな水がめがあった。
耐えきれず、柄杓へ手を伸ばした。なまぬるい水が、まるで甘露だ。口の端をぬぐい、ようやく思い出して振り返る。──誰一人、目覚めていない。
ほっ、と、息を吐き出したとき。
砂利道を踏む音がして、俺はとっさに水がめの陰へしゃがみ込んだ。大柄な男が一人、扉を開けて入ってくる。用足しから戻ってきたのか。──危なかった。まっすぐ外に出ていたら、鉢合わせするところだった。
ぐわあ、と、咆えるようなあくびをし、男は酔いの残った足取りで、隠れた俺の横を通り過ぎた。
「………………」
男は元の寝場所へ帰ったようだ。通りすがりに誰かを蹴とばし、相手がけんつく罵るだみ声も、じきに夜明け前の薄闇の中に、消えた。
静かに、静かに──浅い呼吸の音ですら、やつらの耳まで届いてしまいそうに思う。
立ち上がり、ゆっくりと回れ右をする。今度こそ俺は、出口へ、
「──!!」
だしぬけに、後ろから足首をつかまれた。息をのむなりすさまじい力で引かれ、次の瞬間、俺の体は床に激しくたたきつけられていた。
「おい、おまえ……」
右肩を強く打った。目がかすむ。この声は、ヨーヨーだ。
「こんなところで、なにしてやがんだよおー……」
放せよ、こののろま──言ってやりたいが、声も出ない。
「……なんだなんだ?」
「うるせえぞ、静かにしろい」
「──起きろぉ、ちびィ」
ぐい、と、腕をつかまれる。歯を食いしばって痛みをこらえた。やっと目の焦点が合う。──真っ先に見えたのは、ヨーヨーの生っ白いにきびづらだ。
酒くさい息を吹きかけられた。「……どうやって出やがったぁ?」
「あっ、小僧!」
「てめえ、いつのまに?!」
「──おまえたち、なにを騒いでるんだよ! 眠れやしないじゃないか!」
おそらくは姐御と思われる女が、取り巻きを従えて姿を現した。仰天するほど赤いネグリジェはいかにも彼女らしいが、瞳も、唇も、昨日よりひと回り小ぶりである。まだ俺の目がくらんでいるせいではあるまい。
「おやおや、そこにいるのはレオンハルト坊やじゃないか」
俺を見ると、姐御は声を立てて笑った。「これは、どういうわけなんだい?」
「おい」
ヨーヨーに胸ぐらをつかまれ、強く揺さぶられる。
「どうやって出やがった、って、訊いてんだよぉ」
いつのまにか全員が身を起こし、立ち上がり、俺たちの様子を見つめていた。
俺は唾をのんだ。「開いていたんです、鍵が……」
「……ジョナス?」
不気味に優しい声音になって、姐御が問うた。「あんなことをお言いだよ?」
男たちのあいだから、兄貴が立ち上がった。髪は寝ぐせで逆立ち、目はとろんと眠たげだ。はだけたシャツの脇腹をぼりぼりかきながら、首を振る。
「ありえねえっすよ、姐御」
「嘘じゃないだろうねえ?」
「死んだお袋にかけて誓ったっていい」
ジョナスは暗い鈍色の瞳を、俺へ、次いで、ヨーヨーへ向けた。
「ヨーヨー、言ってやんな」
「ああ。──兄貴が鍵を回したあと、おいらが掛け金を引いて確かめた。ぜってえ開かねえってなあ」
苦しい。ヨーヨーが襟をつかむ手に力を入れたから、俺の首は今にも絞まりそうだ。
「鍵ならここにある」
ジョナスは取り出した鍵束が皆に見えるよう、じゃらりと振った。
「レオン坊、俺たちをなめんじゃねえぞ。──うちにはな、ついこないだまで、ジェネジオさんって腕っこきがいたんだ」
確か、その名前は昨日も聞いた。
「俺たちゃ今までに、あの人の魔法で何度もいい目を見さしてもらってんだよ。あの人の、錠前開けの術にな」
男たちがどよめいた。
「まさか、魔法使いか?」
「こんなガキが、『開錠』の業をあつかえるってのかよ!」
「おかしかねえぜ」
ジョナスは仲間たちを見回した。「そら、ゲイリーの野郎が、あの家には手だれの魔法士がいるって言ってたろ。化けものを呼んでみせたって」
泥棒事件のとき、グレイの声とともに現れた、黄金の獅子。
「おおかた、その男の弟子かなんかだろう」
と、ジョナスは俺へ向かって顎をしゃくる。冗談ではない。俺の師は、彼ではない。
「……どうしやす? 姐御」
一人が問い、姐御のぼやけた眉がひそめられた。化粧をしていれば、それなりの形相になったのだろうが。
「閉じ込めといたって、またぞろ逃げちまいますぜ」
「交代で見張っときゃいいじゃねえか」
「面倒くせえ。いっそ殺しちまえ」
ついには物騒な言葉が飛び出して、俺は震えあがった。こんなところで殺されるのだけは勘弁してほしい。俺にはまだ、やりたいことがたくさんあるのに。
「……………………」
姐御はずいぶん長いあいだ、自身の豊満な体を抱きしめるように腕を組み、考えていた。
「──出かけるよ」
きびすを返す。
「どちらへ?」
「旦那のところさ。今の時季なら、寮まできていなさるはずだ。あの人の手下になら、魔法使いがいる」
「ええッ?」
姐御の右腕らしい年取った男が、彼女にすり寄った。
「姐御、このガキ、親分に渡しちまうんですかい?」
「おまえたちが、あつかいきれないって言うんじゃないか。──殺るのはいつでもできる。使い道が見つかるまでは、預けておこうよ」
「……かまわねえんですかい?」
誰かと誰かが、ひそひそとささやき交わしている。
「このところ、旦那の足が向かねえもんだから……」
「姐御も女だなァ」
「──やかましいよ!」
姐御はくわっと振り返った。
「ごたくをならべてないで、とっととしたくしな!」
「へえーい」
皆はのそのそ立ち上がり、伸びをしたりあくびをしたり、三々五々と散ってゆく。ヨーヨーに捕らわれた俺を、ジョナスをふくめた数人が取りかこんだ。
「悪く思うな」
ジョナスは、ゆうべと同じ言葉を口にした。
「魔法使いは、見かけじゃ力量がわからねえ。油断しねえのが吉だ。──おい」
丸めた手ぬぐいを口の中へ押し込められる。俺のささやかな抵抗など、まったくの無意味だった。あまりの苦しさに、涙がこぼれそうになる。そのうえ、さるぐつわまで噛まされる。
両手は後ろへ回され、手首を縛られた。ふさがれた口と右肩の痛みに、吐き気がこみ上げる。
「魔法使いは、言葉をあやつる──」
ジョナスがつぶやいた。「だが、腕の立つやつは、小指一本でも、視線だけでも、相手を思いのままにするんだそうだ」
最後の手ぬぐいが、目を覆う。あまりにきつく締められ、俺の体は大きくよろめいた。誰かの太い腕に、乱暴に支えられる。
「……悪く思うなよ」
もう一度、ジョナスの声が俺に言った。
◆◇◆
目が見えない。口もきけない。腕も動かせない。
俺に残されたのは、両方の耳と、頭だけだ。なんとか逃げ出す手段はないか、考え続けるしかない。
これから向かう先は、姐御の「旦那」──「親分」とも呼ばれる男のところだろう。『証拠の手紙』を手に入れたものに褒賞金を出すのは、その男か。
やくざどもは、俺を外へ連れ出した。次に腰を下ろしたのは板張りの床。──きたときに乗せられた馬車の荷台だ。あとから三人ほどが乗り込んできたようだ。床が大きく揺れる。
「──やってくれ!」
ジョナスの声だ。御者台から「あいよぉ」と応えたのがヨーヨー。白粉の香りがしないから、姐御は別の乗りものだろう。
荷台の揺れる音と車輪のきしむ音に混じり、近くで水音が続いている。水路に沿った道を進んでいるようだ。
土埃のにおい、小鳥のさえずり──人の話し声は聞こえない。ほかの馬車とすれ違う気配もない。ひたすら砂利道を、ガラガラと進んでゆく。
男たちは口を開かない。せめて、行き先のうわさ話くらい、してくれればいいのに。
途中で三度、角を曲がった。目が見えないせいか、時間の感覚があやしくなってくる。とはいえ、一時間は経っていないだろう。やがて手綱を打つ音がして、揺れが止まる。
「降りるぞ」
ジョナスが言う。なかば抱えられるようにして、俺は馬車を降りた。
──地面から風が吹き上がった。髪をくすぐられ、木々のざわめきが起こり、ほのかに水の香りもする。
出発したときよりも日差しが高く、明るく感じられる。木立にかこまれた池か湖、そんなものを俺は連想した。
腕を取られて、硬い石畳の地面を歩いてゆく。姐御は先に着いていたらしい。「ベリンダが手みやげを持ってきたと伝えておくれ!」と、しきりに訴えている。車寄せから建物までの距離を考えると、結構なお屋敷だ。ここが「旦那」の「寮」か。
大きな扉が開く音。
旦那、とは、姐御の愛人かと思っていた。それにしては彼女のあつかいがぞんざいだ。見ていないからわからないが、今朝は化粧ののりがいまいちなのか。それとも、ベリンダ組が一度しくじったから、旦那が冷たくなったのかもしれない。
「困るねえ、ベリンダ。こんなところまで訪ねてこられちゃあ」
通された部屋で、案外ものやわらかな男の声が、俺たちを出迎えた。どうやら彼が「旦那」で、「親分」だ。壮年か老人か、いずれにしても、姐御より相当年上だろう。
「……ごめんなさい」
しおらしげな声に、ぎょっとした。俺のかたわらではジョナスが「まじかよ……」とつぶやいたから、彼も似たような感想を抱いたらしい。
「でもあたい、どうしてもあんたに助けてもらいたかったの」
ううーん、目隠しをはずしてほしいような、ほしくないような……
あの姐御が、紳士的な「旦那」の膝に乗って、胸にのの字を描いている場面を想像してしまった。いや、たいして意味はない。
姐御はまくしたてるように、ジョナスたちが俺をさらってきた経緯を説明した。閉じ込めておいたら、魔法を使って逃げ出そうとした。だが、自分の手下の魔法使いは、しくじったことで制裁を恐れ、逃げてしまった。魔法には魔法使いでなければ防げない業が多い。だから旦那の部下の魔法使いに預かってもらいたい──と、こんな具合である。
「ふうん、この子どもがねえ。ま、いいだろう」
いささか楽しげともとれる声で、旦那が言う。「誰か! デメトリオを呼んでおくれ!」
「ね、あすこんちの小姓なのよ。あたい、あんたの役に立つと思って」
「ああ、わかってるわかってる」
用がすんでしまえば、旦那はそっけなかった。姐御が鼻を鳴らしてなにかを言いかけるが、客人が見えているから、と巧みにそらし、ジョナスもろとも追い出してしまう。俺はその場に取り残された。
「……おまえも冷たい男だな」
布の揺れ動くわずかな気配とともに、新たな男の声。
旦那が軽く笑った。姐御をどのようにあつかっているか、俺にもたやすくわかるほど、気のない笑いだ。
靴音がこちらへ近づいてくる。この人物は、姐御たちがいるあいだは隠れていたのか。
「……面白いではないか。エレメントルート家の魔法使いの小僧、顔が見たい」
誰なんだ?──うちの名前を出すからには、こいつも『証拠の手紙』に関わりがあるのか? 妙にくぐもった声は若くない。居丈高で、人に命じることに慣れた響きがある。
「お殿さまも酔狂な。デメトリオがくるまでは、お待ちになったほうがよろしゅうございますよ」
「かまわん」
やれやれ、かしこまりました、と、気安いふうに旦那は言った。
誰かの手が、俺の髪をつかんだ。さるぐつわをはずされ、口の中の詰めものを取り出される。咳きこむ暇もなく、視界が開けた。目隠しが取り去られたのだ。
口をぬぐいたかったが、両腕はまだ縛められたままである。俺は目を見開いた。
黒い仮面をつけた顔が、そこにあった。
頭はもちろん、男の鼻から下は、すっぽりと布に覆われている。濃い茶色の瞳だけが、ぎょろり、と動いて俺を見た。くぐもった声は、仮面のせいだったのだ。
「ほう……」
──ややたって、男は低く笑った。
「驚いたぞ……ダーヴィド、おまえの女には、褒美を取らせねばならんな……」
「と、おっしゃいますと?」
くくくくく……と、男の笑いは止まらない。
「どうなさったのです?」
「たいした手柄だ。これは──この子どもは、エレメントルート伯爵当人だ」
「ええっ?!」
ばれた──
「そんな馬鹿な。エレメントルート伯爵は、金髪の」
「ああ、まさにな。しかし髪などいくらでも変えようがある。どうやら背丈も少々違うようだ」
「なんですって?」
賢しらげに、仮面の男は笑った。「高貴の血を引く奥方さまは、なかなかの見え坊らしい」
革手袋をはめた手に、顎を持ち上げられた。
「これは拾いものだ。まずはあれの隠し場所を知っているかだが──いや、知らなくてもかまわん。人質にでもなんにでも使える。丁重におもてなししてさしあげろ」
やはりこの男が、『証拠の手紙』を狙う一味の親玉か。
「へへえ……こんな坊やがねえ……」
旦那もいたく感心したように、俺の顔をのぞき込む。俺は恥じ入ったふりをして、目をそむけた。
高鳴る胸の鼓動を抑えなくては。俺がなにを考えているのか、決して二人に気取られてはならない。
──この「お殿さま」は、今までに俺と会ったことがある。遠目に見かけたんじゃない。ごく近くで、俺の顔を見たんだ。
彼は金髪で上げ底靴の『エレメントルート伯爵』を知っている。そして今、俺の顔立ちを見て、俺が『伯爵』だと気がついた。それほどの間近に、仮装で誰かと会ったのは、結婚式と、爵位授与式、クララさまのお茶会だけだ。
最も可能性の高いのは、来賓の一人一人と目の前で挨拶を交わした、先月の、爵位授与式。
こいつは貴族だ。それも高位の──エディットの敵の近くにいるであろうこの人物は、おそらくあの式典の出席者の中にいる。