35
地面が揺れている。
目を開けたとき、ぼんやりとそう思った。俺をかこむ世界は、見渡す限り真っ白だ。
手を動かしてみる。砂でざらついたうえ、ささくれた板張りの床に指先が触れた。天井はどうやら白い幌。ガタゴト、ギシギシ、音が続いている。
俺が仰向けに横たわっていたのは、車輪をきしませながら進む馬車の荷台の中だった。
「……ったく、おまえってやつは、いったいなにを考えてやがるんだ?」
「だってさぁ、兄貴ィ」
御者台から、男の声が二人分。
「このまんまじゃ、連中に丸ごと持ってかれちまうんだぜぇ? いいのかよぉー」
「だからって、あんなガキが、なにか知ってるわきゃねえだろ?!」
体を起こしながら記憶をたどる。最後に覚えているのは……
──泣くな!
思わず、ふるふると首を振った。後頭部がズキンと痛む。そうだ。屋敷を飛び出したあと、俺はだしぬけに後ろから殴られ、気を失ったんだ。
もやがかかったようだった頭の中がはっきりするまでのあいだ、俺は二人が続ける罵り合いに、ずっと耳をかたむけていた。どうやら俺は、彼らに誘拐されてしまったらしい。──そのうち一方が振り返る。
「お、目が覚めたかい? 手荒な真似しちまって、すまなかったな。勘弁してくんな」
背もたれへ片肘をかけ、妙に陽気な口ぶりで言うのは「兄貴」のほうだ。道ばたで俺に話しかけてきたのがこちらである。ぼさぼさの茶髪に、鈍色の細い瞳。不精ひげと着崩した上着が、都会のちんぴらとはこんな感じか、と思わせる。
「かんべんしてくんなー」
手綱を握る大男も、こっちを向いてギャハハと笑う。はげているのか剃っているのか、見事なつるつる頭である。やけに生っ白い顔にはにきびが浮いているし、「兄貴」より若いのだろう。エレメントルート伯爵家が誇る巨漢の料理長、ネロをふた回り小柄にしたくらいの体格だ。
「なあ、坊や」
馬車の揺れなどものともせず、兄貴が身軽に後ろへ乗り込んできた。俺は床に両手をついて後ずさった。がらんどうでも狭い荷台だ。たちまち行き場がなくなってしまい、背中がかこいの板につく。
「そんなに怖がんなって」
兄貴は俺の目の前にしゃがみこみ、困ったように顎をかいた。
「ま、そいつも無理か。よう、おまえさん、名はなんてんだい?」
──俺は、考えていた。
はたからはどんなふうに見えていたのかわからない。だが俺は、痛む頭をめぐらせようと、懸命に努力を続けていた。──ゆっくり、ゆっくり、口を開く。
「……レオンハルト」
郷里に六人いる兄の一人の名前である。本名を言わないほうがいい。そう思った。
「かーッ!!」
兄貴が突然大声を出したので、俺は飛び上がりそうになるほど驚いた。
「さすが! しゃれた名だね! やっぱ、いいとこの小僧さんは違うぜ!」
「まったくだぁー」
御者台のはげも、間延びした声をあげる。
「レオンハルトくん」
と、真顔に戻って兄貴は言った。「さっきはあの阿呆が悪かった。でも俺たちは、そんなつもりだったんじゃないんだぜ?」
「じゃあ、どんなつもりだったんだぁー?」
「おまえは黙ってろ!──真面目な話だ。レオンハルトくん……長えな、レオンでいいか? きみがとっても悲しそうだったんで、俺たちは、いや、俺はどうにも気になっちまったのさ。この坊やはお屋敷奉公で、なにかつらいことでもあったんじゃないか? ってな」
よくしゃべる男である。
俺はまじまじと「兄貴」の顔を見つめた。
『誣告を受けるお心当たりがないのでしたら、この呼び出し状の目的は、先日の盗賊どもと同じと考えて間違いございません』
オーリーンの言う通りだ。俺にはこんなふうにして、いきなり殴られてよそへ連れ去られる心当たりなんかない。しかも彼らは、俺が「なにか知ってる」ことを期待している。もしかしてこれも、『証拠の手紙』に関わり合いがあるんじゃないのか?
今度こそ目を開けておけ。耳をすませろ。口は閉じたまま、頭を使え。
「ご主人さまに叱られたのかい? やかましやの執事にでも、いじめられたかい? ん?」
……うーん、あたらずといえども遠からず。
彼は俺を、エレメントルート伯爵家の使用人だと思っているのか。あるじに叱られて屋敷を飛び出した小姓、とでもいったところか。
俺はこっくりうなずいた。
「ええ、まあ……」
相手に合わせよう。こいつらがなにをたくらんでいるのか、聞き出すんだ。
「そんな、感じです……」
「そおかあ」
兄貴は腕を組み、大仰に首を振る。
「つらかったんだな。宮仕えってのは、きついことも多いからなぁ。いや、わかる、わかるぜ兄弟!」
彼は俺の兄貴にもなるつもりのようだ。俺を懐柔しようとしているのかもしれない。しかし、俺には本当の兄が売るほどいる。このうえの追加はお断りである。
「着いたぜえ、兄貴ィー」
のんびりとはげが言い、手綱を引きしぼった。馬車は、がっくん、と、ひと揺れしてから停止した。
「おっ、着いたか。──さ、レオン坊も、降りた降りた!」
「え、でも、僕」
「いいからいいから! なんぞ、うめえもんでも食わせてやるからよ!」
いやに明るく言われ、腕を取られる。強引だが乱暴ではない。それに、立ち上がって知れたが、頭以外に痛む箇所はない。俺は殴られて地面にぶっ倒れたわけではなく、おそらくは兄貴に抱きとめられ、そのまま馬車へかつぎ込まれたと思われる。
兄貴が先に降りた。俺もおそるおそる、幌のあいだから顔をのぞかせてみた。──ここは、王都の中心からかなり離れた郊外のようだ。
音を立てて流れる水路のほとり、赤く染まった木々にかこまれた林の中である。砂利道に足を下ろす。馬車のあとにも先にも、人影は見えない。
「レオン坊、生まれはどこだい?」
覚えのあるものがないか、辺りをきょろきょろ見回していると、兄貴が問うてきた。ここは田舎ものだと思われたほうがいいだろうか。実際俺、田舎ものだし。
「ア……ええと、キトリーです」
「なるほどな。じゃ、おとっつぁんおっかさんは国にいるのかい?」
「はい」
「偉えなあ。一人で王都に働きにきてるってわけか。さぞかし苦労も多いこったろう」
俺たちを降ろした馬車は再び動き出す。向こうに厩があるようだ。林のあいだに、農家らしい切妻屋根の家屋が見える。兄貴は俺をうながして歩き出した。
「──あれえ?」
木もれ日の落ちる小道の先から、兄貴と様子のよく似た若い男がやってきた。釣り竿を肩へかつぎ、手には魚籠を下げている。若者は俺たちに気がつくと、すっとんきょうな声をあげた。
「そのガキ、なんだい?」
「いやあ、ヨーヨーの馬鹿が先走りやがってよ。しかたがねえから連れてきちまった。姐御、いるんだろ?」
「いるともさ。昨夜も旦那が訪ねてこねえから、これだぜ」
若者は人差し指で頭に角を生やし、ニヤリと笑う。
「うひゃあ、おっかねえおっかねえ」
兄貴が大げさに肩をすくめ、二人は笑い合う。若者は釣り竿をかつぎ直して立ち去った。これから水路で魚釣りなのか。人さらいの一味にしては、いささかのんきな雰囲気だ。
古びた建物の中へ足を踏み入れて、驚いた。火事と見まがうほど立ち込める煙草のけむりと、酒のにおい。室内には、十人を超える男たちが、そこかしこにとぐろを巻いている。酒壺や杯がぶつかり合う音。骨牌をめくって床にたたきつけ、下卑た大声で笑う。こんなに大勢の人の気配など、少しも感じなかったのに。
「──なにやってんだい!!」
甲高いキンキラ声が、いきなり俺たちを怒鳴りつけた。
「ジョナス! おまえとヨーヨーには、見張ってろと言ったはずだよ!」
これが「姐御」か?
奥まった一角に、やたらと豪華な長椅子がドカンと置かれていた。そこへ女が一人、ふんぞり返っている。
豊かな長い金髪、目鼻立ちは美人といえなくもないが、俺には少々おばさんだ。金銀のつぶをちりばめた黒いドレスの胸元を目いっぱいはだけ、派手な化粧がけばけばしい。
兄貴ことジョナスは、あっというまにへどもどする。
「見張ってたっすよぉ。けど、ヨーヨーの野郎がやぶからぼうに手出ししやがるもんだから」
真っ赤に塗りたくった唇が、くわっと開いた。
「言い訳なんかいらないよ! なんだい?! その小僧は!」
怖い。山姥が都会的になったら、こんな感じ?
「あすこんちの小姓っすよ。ほら、ゲイリーが言ってたでしょ?」
「小姓だって?」
姐御が立ち上がった。エディット並みの長身で、そのうえなかなかの豊満だ。
すかさず取り巻きの一人が、彼女の肩へ毛皮をかけた。それをぐいとたぐり寄せ、姐御はいかにも、しゃなり、しゃなり、といったふうに俺たちへ歩み寄ってくる。われ知らず、俺はジョナスの背の裏に隠れていた。
「おどき」
姐御が顎をしゃくる。ジョナスは瞬時に飛びのいた。白粉くさい顔が、ぬうっと俺に近づいてくる。
目の前で、にいぃ、と、微笑まれた。
「……まあ、可愛い」
色の薄い瞳にのぞき込まれ、俺の背筋には冷たいものがぞくぞく走る。いや、本気で。
「ゆっくりしておいき」
鼻を鳴らし、しゃなり、と、腰を振りつつ去ってゆく。──取って食われずにすんだ。俺は胸をなでおろした。
顔見せは、それで終わったらしい。卓のひとつが俺のために空けられた。兄貴ジョナスが、かいがいしく世話を焼いてくる。なにが入っているとも知れないスープの皿と、傷だらけの金属のさじが、あわただしくならべられた。
気のないふりをしていても、全員が俺の様子をうかがっている。俺はさじを取り上げた。──ネロの料理とは比べものにならないが、意外に味は悪くない。「うまいものを食わせてやる」とのジョナスの言葉も、まんざら嘘ではなかったようだ。
このとき、俺の頭の中には、ひとつの考えが浮かんでいた。──やっぱりこいつらは、エレメントルート伯爵家に押し入った二人の盗賊と、知り合いなんじゃないだろうか。
ジョナスはひと目俺を見て、「そこんちの子だろ?」と、問いかけてきた。訪ねてきた御用聞きが帰るところだとは、微塵も思わなかったわけだ。今だって俺を、うちの使用人だと信じて疑う様子はない。
つまり、彼とはげ頭のヨーヨーは、ある程度、俺のことを知っていた。
俺は王都でも順調な引きこもり暮らしを続けている。実家にいたときほどではないが、出かける先は蒼の塔くらいだし、玄関先から馬車に乗ってしまう。近所の人と顔を合わせたことなんて、一度もない。それに、たとえ姿を見られたとしても、従者をお供に馬車で出ていくのが小姓だとは、誰も思わないだろう。
俺は一応「旦那さま」である。日ごろから屋敷に出入りする御用聞きや商家のものと、顔を合わせる機会は少ない。その数少ない例外のひとつが、あの盗賊たち──がっしりした若者と、魔法使いの小男の二人組だ。
というか、屋敷の中で、俺が主人であると明示せずに顔を合わせ、俺が主人であると知らないままに出ていったのは、あの二人をおいてほかにいない。
だけどなあ──俺はさじをなめなめ首をひねった。彼らはああして捕らえられ、役人に引き渡されたのだ。あの場に赤毛の子どもがいたと、どうやってこいつらに伝えたんだろう。泥棒といっても未遂だから、早々に釈放されたのかもしれないが。
あ、でも、うちの玄関ホールのシャンデリア、壊されたんだっけ。
「──よう、小僧」
床に寝そべって賽子をもてあそんでいた男が、俺に言う。
「おめえ、博打をしたこたァあるかえ?」
ばくち?
「いいえ、ありません」
俺がかぶりを振ると、どういうわけか、男たちはどっと沸く。
え、どうして? 俺、なにかおかしかった?
「『いいえ、ありません』だってよぉー」
「ひょえー、かーわゆーい!」
え、え、どういうこと?
「坊主、こっちィきな。教えてやらあ」
ひげづらのごろつきみたいなのに手招きされ、俺は椅子を下りた。
「ほら、ここ、座んなよ」
「おめえ、金は持ってるんだろうな?」
「い、いいえ、持っていません」
「なんだぁ、しょうがねえなぁ」
俺は連中にならって床に胡坐をかいた。小さな賽子をふたつぶ持たされる。
振りかたから始め、賽子博打のルールをひと通り覚えたかというころだった。
「おい! 大変だ!!」
バタン、と、扉が開いて、外から一人、若いちんぴらが駆け込んできた。「アーノルド組のやつら、しくじったぞ!」
「なにぃ?」
「どういうこった?!」
男たちはたちまち色めき立った。ちんぴらは、息を切らしながらも一気にまくしたてる。
「待ち伏せだ! ばれてたんだよ! コンラート広場は、役人どもであふれかえってたんだ! あいつらすっかり一網打尽さ!」
コンラート広場だって?
この知らせがどんな意味を持つのか、考える暇なんて、なかった。
次の瞬間、室内には、うおおおー!! と、大歓声が巻き起こったのである。