33
エディットが最初にアルノーの実家を訪れたのは、庭に咲く花々が散りかける春の終わり。
王都でいっしょに暮らし始めたのは、それからひと月余りあとのことだ。朝早くから仕事に出かけ、毎夜必ずおばあさまのお見舞いに寄る彼女に会うのは難しかった。話す機会は少しずつ増えた。俺たちが出会ってから、もう少しで半年。
こんな顔をする彼女を、俺は初めて見た。
「わたしは、いっ、一度も……」
エディットの制服の襟元から、徐々に赤みが首筋をつたい、頬までのぼってゆく。
うん、だから。一度も、なにさ?
「…………………………」
──流れゆく無言の時は、果てしなく感じるほど長かった。
そのあいだにオーリーンが腰をかがめ、床に落ちていた手紙を拾い上げた。すたすたと部屋を横切り、戸口のかたわらで控えるグレイへ見せている。
仏頂面の眼鏡秘書が、みみずくみたいにとぼけた顔のひょろ長従者になにかを命じている。そのうち従者だけが部屋を出ていった。残った秘書は壁ぎわに立ち、中指で眼鏡を押し上げた。
「……とっ、とにかく」
ようやくエディットが口を開いた。あさっての方角へさまよわせていた目線を、無理矢理のように俺まで戻す。すっかり頬が赤い。
「わたしに心当たりはいっさいない!」
断言された。
「ないんですか?」
「馬鹿な! 当たり前だろう?!」
当たり前かなあ……
俺は首をかしげた。
考えてもみるがいい。俺たちはあんなことやこんなことをしていない。しない理由が、ほら、ほかに相手がいるからだとしたら、すっごく筋道が通るじゃない?
たとえばだ。彼女には絶対に結ばれようのない悲恋の相手がいたとする。そいつに操を立てるため、従順で無難な男を名目上の夫にする。じつにありそうな話である。と、俺は思う。
エディットは目を細くした。「……カイル、今、なにを考えている」
「えっ?」
「あなたは今、妙なことを想像しているだろう」
「そんなに妙でもないと思いますけど」
まあいい。この人なら、相手が誰だろうと、たいていの障害は蹴散らしてしまいそうだ。
では、はじめに戻ろう。単純な話である。彼女はすごい美人で、勤め先の同僚は全員男性だ。こんな美貌を、周りの男たちがほうっておくはずはない。たとえば……
「……リュカ=サーヴェイとか?」
「どうしてあの男がここに出てくる?!」
なんと珍しい。いつもは涼しげな彼女の美声が、見事に裏返っている。
エディットの口がへの字になった。それも、てっぺんの角度がえらく急な「へ」だ。
「リュカはただの友人だ! 彼とは、たっ、たまたま、年が同じだから──」
「たまたま、ですか? 厩番とまで親しいのに?」
うちの馬丁のレジー、わかるだろ?──ってことは、彼んちまで行ってるわけでしょ。それも結構しょっちゅう。
「多少の行き来があったところで、不思議じゃないだろう?!」
「ええ、まあ。多少でしたら」
「多少に決まってる! 屋敷が近所なだけなんだ!」
えー、でも、どこだか領まで彼と狩に行ったって話、前にあった気がするよ? 王都の外まで出かけるんなら、泊まりがけだよね、絶対。
「カイル……」
まるで途方にくれたと言わんばかりに、エディットは弱々しく首を振った。くり返し瞬く瞳が、涙ぐんでいるようにさえ見える。
「勘弁してくれ。誓って言うが、わたしは彼をそういう目で見たことは一度もないんだ」
向こうがどういう目で見てるかはわかんないじゃん。それに、「誓って」って言われても、ぜんぜん信用できません。このあいだもだまされたばっかりだし。
壁ぎわのオーリーンが、無表情に口を開いた。
「──奥さま、旦那さま。ひとつ、よろしいでしょうか?」
エディットは振り向きもせずに怒鳴った。「オーリーンは口を出すな!」
「出さなければ、もはや収拾がつきますまい」
秘書はうんざりしたようにため息をつく。
「お二人に伺いますが、この文面のいったいどちらに、奥さまの不義不貞についての具体的な文言があると?」
ん?
オーリーンの手には例の手紙がある。俺は昨日から今朝にかけて、何十回となく読み返したのだ。文言ならすっかり覚えてしまっている。
『エレメントルート伯爵夫人に関する重要な事実をお伝えいたしたく…………』
……あれ?
「見せてみろ」
エディットは、つい先ほど目を通したばかりの手紙を、秘書の手からひったくった。
「重要な事実としか、書かれていないじゃないか!」
「ええ、まことにもって。ですから、そう申し上げました」
「そういう事実かもしれないじゃないですか……」
俺はなんとなく小さな声になって言った。「行って話を聞いてみなければ、わかりません……」
エディットの眉がつり上がった。
「だめだ!」
「呼び出されたのは、僕です!」
どこへ行って誰と会おうが、俺の勝手だ。俺だって成人なんだし、いいとかだめとか言われる筋合い、ないと思うけど?
「いいかげんになさい」
ぴしりと鞭で打つような声音で、オーリーンが言う。「お二人とも色恋沙汰に興味がおありの年ごろなのは、重々承知しておりますが」
俺は思わず赤面した。一瞬目が合った彼女の顔も、火をつけたみたいに真っ赤なままだ。
「わっ、わたしは違うぞ。カイルがたいていの男なんて、言うから」
「普通は思いますよ!」
「考え過ぎだ! 本ばかり読んでいるから、そんなくだらない妄想が頭に浮かぶんだ!」
あ、そういう言いかたする? 自分だって結構読んでるくせに!
「だいたい、あなたはどうなんだ? クローディア姫に、魔法の本をお貸ししたそうじゃないか!」
「貸すくらい別にいいでしょう?!」
「──旦那さま」
秘書は細長い中指で、銀縁眼鏡を押し上げた。
「あなたはこの手紙を、誰から、どのようにしてお受け取りになったのですか?」
「……それより、聞きたいんですけど」
俺は思いきって、オーリーンへ向き直る。
「どうして僕が手紙をもらったことを知っているんですか?」
答えたのは秘書ではなかった。エディットが、ふん、と鼻を鳴らす。
「茶会の途中から、そわそわとポケットの中ばかり気にしていれば、なにかあったと嫌でも知れる」
なんだよそれ──
オーリーンは平然としている。つまり、俺の様子を変だと思ったエディットが、忠実な家来に言いつけたのか。
ようするに俺はまた、まんまとはめられたらしい。彼らは俺がなにを持っているかまでは知らなかった。かまをかけただけだったんだ。なのに俺は、あっさり引っかかって手紙を渡してしまった。
口をつぐんだ俺を見据えるオーリーンは、あくまでも非情である。
「つまらぬ意地を張るのはおよしなさい。時間の無駄だ」
「…………」
確かに、彼の言う通りだ。
「……僕にこの手紙を渡したのは、近衛騎士です」
「騎士、ですか?」
「はい、たぶん……」
エディットが着ているのと同じ、濃い灰色の制服。
「顔をご覧になりましたか?」
「いいえ。見ていません」
俺は王子、王女と庭園を散策中、いきなり後ろから声をかけられた。唐突に手紙を差し出した手と、たくましく背の高い後ろ姿。短い茶色の髪。──俺が二人に話せるのは、たったのこれだけ。
「どこの隊のものだった?」
エディットが眉をひそめて言う。お茶会には、主催した王弟妃クララさまのほかに、娘のクローディア王女、王后アントニエッタさまとテオドア王子の母子も訪れていた。あの場にいた騎士は、王弟妃、王女付きの部隊のもの、王后、王子のお供と、幾通りかがいたはずだ。
俺はかぶりを振った。
「僕には……わかりません」
「襟章を見なかったか」
エディットが重ねて問う。「ここのしるしが違う。何色だったか、覚えていないか」
見れば、エディットが指す襟元の小さな飾りは、赤を基調としたものだ。彼女はアントニエッタさま付きの部隊の、副隊長である。クララさまやクローディア王女付きの騎士だったら、また違う色なのだろう。だが、
「なにも見ていないので……」
答えようのない自分が、情けない。オーリーンの長々しいため息を耳にするのは、彼がこの部屋にきてから何度目だろうか。自然、俺の目線は床へ落ちる。
「……奥さま、これには計略の可能性がございます」
秘書の言葉に、エディットがハッと振り返る。俺も顔を上げた。
──計略?




