序奏 従者、探索す。
──王都南部の下町、フランシェスク小路。
よちよち歩きの赤ん坊や、羽をばさつかせた鶏が、足元を駆け回る。うっかり蹴散らしてしまわぬよう、ボリスは石畳を注意深く踏んで歩く。
左右には古びた二階屋が建ちならぶ。見上げれば、窓から窓へ渡した無数のロープに洗濯ものが翩翻とひるがえっていた。まるで雑多な色合いの軍旗のごとき賑々しさだ。
「あら、ボルボロスの旦那じゃない」
わんぱくの襟首を捕らえていたおかみさんが、ボリスに気がついた。「ジローなら、昨夜遅くに帰ってたわよ!」
「ゆんべじゃなくって今朝さ! きっと、女んとこにしけこんでたんだぜ!」
七つになる彼女の息子が、こましゃくれた口をはさんできた。たちまちおっかさんからげんこを食らい、ボリスは大いに笑う。
長屋の一軒の、酔って足でも滑らせれば最後、首の骨が折れてしまいそうなほど急な階段をのぼる。目当ての一室へはノックもせずに扉を開けた。部屋のぬしは、どうせ盗まれるものなどなにもない、と、鍵をかけたことがないのだ。
「あ、こ、こりゃあ旦那」
傾いだ寝台から、糸のように細い目をした青年が、ごそごそと起き上がった。こすったところでまなこは一向に開かない。これまた古ぼけて脚が一本浮いた小机の上を手探りし──どうにか探し当てたのは、ふちの丸い眼鏡であった。
ボリスのうちにいるいばりくさった銀縁眼鏡とはまったく違うこの青年──ジローは、眼鏡のつるを耳にかけ、よれよれのシャツの前を合わせた。糸目をのぞけば取り立てて変哲もなく、とても女としけこめる男とは思えない。
「すいません、寝過ごしちまって」
「いや、かまわんよ」
ジローはボリスが下げてきた包みを押し戴くと、さっそく取り出した串焼きにかぶりついた。先刻屋台で購ったばかりのあつあつを、じつにうまそうにたいらげる。
「身元が割れたってとこまでは、お知らせしましたよね?」
指についた油をぺろりとなめ、ふた串目に手を伸ばしながら、ジローは言う。
「えーと、お宅にもぐり込んだ二人組、若いのがゲイリー、魔法使いがジェネジオっすね。──仕舞いから言っちまえば、ずらかりましたよ。もうコーティアとの国境を越えたそうです」
「ふん……」
ボリスは胸の前でたくましい腕を組む。「けつを割ったからか? ずいぶんと逃げ足が早いじゃないか」
「そいつにゃ理由がありましてね」
「ほう?」
「つけて歩いてわかったんですけど、あいつらどうやら、ダーヴィドの配下の組のもんらしいんすよ」
ダーヴィド、とは、王都南部を縄張りにする香具師の元締めである。ボリスは笑い出した。
「あそこの一家の制裁は、相当厳しいそうだからな」
「そういうこと」
機嫌のいい猫のような顔になり、ジローも笑う。
「──まあ、どっちにしろ魔法使いのほうは、一年経たずに舞い戻ってくるだろうが」
「へえ?」
ボリスの言葉に、ジローの糸目がわずかばかり見開かれた。
「そりゃまた、どうしてです?」
「やつらはみんな都会っ子さ。コーティア辺りじゃ、アセルティアほど大きな都市がない。魔術師で食うのか盗人も兼ねるのか、人の多い街のほうが実入りもいいに決まってる。どこの国でも、よそものには当たりがきついしな」
「なるほどね」
すっかり満腹したらしいジローは、幸せそうなげっぷをした。
「じゃ、そっちの出入りは、引き続き網を張っておくことにしますよ」
「ああ。念のためだが、頼む」
(さて、と……)
エレメントルート伯爵家本邸に侵入した二人の盗賊、ゲイリーとジェネジオは、事件の直後、町役人へ引き渡された。
裏へ手を回し、あえて泳がせるような真似をしたのは、秘書のオーリーンの指図である。これであの泥棒騒ぎには、香具師の親玉がからんでいるとわかった。ダーヴィドほどの大物が、なんにもなしにちゃちなこそ泥ふぜいへかまけるわけはない。つまり、さらに先があると見て間違いない。
そこへ、バタバタと元気いっぱいの靴音が二人分、階段を駆け上がってきた。
「「ただいまあ!」」
勢いよく扉を開けて飛び込んできたのは、十ばかりの双子の女の子だ。
「やあ、チカ、チマ、おはよう」
空の桶を下げているところを見ると、姉妹は裏庭で洗濯をすませてきたようだ。とび色の髪を真ん中で分け、二つに結んで肩へ垂らしているのが愛らしい。おそろいのくるくるした瞳がジローとは似ても似つかぬが、三人は立派なじつの兄妹だ。
「あ、ボルボロスのおじちゃん! いらっしゃい!」
「おじちゃんおはよう! もうー、お兄ちゃんたら、まだ寝てたのお?」
狭い室内は、あっというまににぎやかになった。ボリスが菓子の入った包みを手渡すと、二人はきゃあっと歓声をあげた。
「わあっ、おじちゃん、ありがとう!」
「おじちゃん、ありがとーっ!!」
包みを取り合いながら、チカは寝台のジローの右隣へ、チマは左隣へ、はずむように飛び乗った。ジローの蚊とんぼみたいな体が今にもひっくり返りそうになる。
「おじちゃん、あのねあのね、あたしたちこのあいだね!」
「エディット姫さまに会ったのよ! 王后さまの行列で、ね!」
勇ましくもきらびやかな王宮騎士を率いる王族たちの行啓は、いつだって庶民の憧れのまとだ。中でも、女騎士のあるじが付き従う王后の親衛隊ときたら、大変な人気があった。
「そりゃ、会ったんじゃなくて、お見かけしたんだろ」
ジローが笑うと、チカとチマは唇をとがらせ、おさげをぶんぶん揺らしてかぶりを振った。
「違うもん! エディット姫さまはちゃんとこっちを見たもん!」
「そうよ、あたしたちに手だって振ってくれたんだから!」
その場にいた何人が同じことを思っただろう。あるじもなかなか罪作りな真似をする、と、ボリスも苦笑いである。
「エディット姫さま、白いお馬に乗っていたのよ。とってもかっこよかったあ。あたし、エディット姫さまのお嫁さんになりたいなあ」
と、うっとり言うのがチマのほう。
「お嫁さんはだめよ。エディット姫さまにはもうお婿さんがいるんだから」
と、多少は実際的なのがチカのほうだ。
「エディットさまは女の子だよ。女の子は女の子のお嫁さんになんか、なれやしないよ」
当たり前の理屈でたしなめるジローへ、二人は憤然と抗議した。
「そうじゃないの! お兄ちゃんのばか!」
「エディット姫さまは女の子だけど騎士さまよ!」
「これですからね、困ったもんです」
ジローは少しも困ってなどおらぬ顔で言う。「ほかの騎士さまの嫁さんになることを考えてくれりゃあ、ありがたいんですが」
「ね、ボルボロスのおじちゃんが、エディット姫さまに剣術を教えたんでしょう?」
矛先がこちらを向いた。瞳を輝かせたチカが、ボリスへ身を乗り出してくる。
「ああ、そうだよ」
「エディット姫さまはどうして騎士さまになったの? 女の子なのに」
「どうしてかな」
ボリスはわざと顔をしかめ、己れの顎をなでた。
「姫さまはきっと、強くなりたいと思われたんだろう」
「強く?」
「どうして?」
「さあ、それは……」
──ボリス、わたしに剣を教えてちょうだい。
なにごともなく月日が過ぎていたら、と、今でも時折、ボリスは思う。
睦まじい父母と、生まれてくるはずだった弟。もしも爵位を継ぐ兄弟があったなら、あるじはおそらく今のようではなかった。
しかし、ボリスには、あるじがああではない──たとえようのない美しさは変わらずとも、なよなよとたおやかにドレスの裾を引いて歩き、馬にも乗れず、家にこもって刺しゅうばかりして、貴族の子弟からの求婚は手もなくあしらい──などというさまは、想像もつかぬ。
祖母である王太后のたっての乞いで、幼いあるじは慣れ親しんだキトリーの居城をあとにし、王都へ住まいを移した。以来、十二年余り。
強くあろうとしたのは、あるじがきっと、ひとりぼっちだったから──そう答えようとして、よした。この年の離れた兄妹三人の父母も、すでにない。
「……おじさんも知らないんだよ。今度姫さまにお尋ねしておこう」
とだけ、ボリスは言った。
ジローはその若さと屈託のない見かけによらず、目はしが利いて役に立つ男である。顔も広い。
だが、ダーヴィド一家のようなのが噛んでいると知れた今、このうえの調べは慎重にせねばならぬ。ジローになにかがあれば、二人の妹を泣かせることになるからだ。
最近のあるじは、今までとは様子が違う。これからの計画にほんのわずか、ためらいが混じっている。
(おそらくは……)
彼のためだ。
田舎町から連れてきた形ばかりの夫。どこからも横やりが入らない程度の身分。いなくなっても誰一人困らない、なんの取り柄もない平凡な少年。有事の際には、簡単に切り捨てられるはずの存在。
あるじの変化に気づいているのは、間近に仕える本邸の面々だけだろう。
チカとチマのおしゃべりにひとしきり付き合い、ボリスは正午になる前に長屋を辞去することにした。
小路まで降りて見送ってくれる三人へ、軽く片手を上げる。
「──旦那、そういやグラッドストン先生が、出来映えはどうでしたか、って」
ふと思い出したらしく、ジローが問うてくる。ボリスは歩き出そうとしていた足を止めた。
「いい出来だった、と伝えてくれ。とても昨日や今日こしらえたものには見えなかった、とな」
「そいつは先生も大喜びだ」
「ただなあ……」
ボリスはどうしても、にやりとしてしまう。「あの二人には、見つけられなかったんだ」
「あれ、そうなんすか?」
「やっこさんがた、手紙へたどり着く前に、うちの侍女に見つかっちまったのさ」
「なあんだ」
ジローも拍子抜けしたように笑い出した。「じゃ、そこんとこは先生にゃないしょにしときます」
「それがいいだろう」
じゃあな、と、再び上げた手で、かわるがわる女の子たちの頭をなでる。
──こうしてボリスは、フランシェスク小路をあとにしたのだった。




