19
家々の屋根を越えて昇ってくる陽光が、彼女の横顔を照らし出した。伏せたまつ毛が、青白い頬にかすかな影を落としている。
カラカラ石畳を進んでいた馬車は、いつしかゴトゴトと音を変え、王都の中心地から郊外へと進む。──向かう先は、王家の離宮。
結婚式の日の朝、同じ道を同じように揺られ、俺たちはおばあさまに会いに行った。
あの日と同じく、俺たちとともに従者がいる。ひょろ長くて若いのと、中年でずんぐりむっくりの二人組だ。
広い離宮の敷地に入った。木もれ日がまだらに落ちる緑のトンネルを抜けて、細い小道へ折れてゆく。前にきたときもそうだった。俺たちは、母屋の裏手に回っているのだ。
ひとけのない裏口に馬車が横づけになる。俺は二人の従者にものものしくかこまれて、地面に足を下ろした。
グレイが長い脚でポーチの階段を駆け上がり、小さいながらも瀟洒な意匠の扉をたたいた。
「──あら」
顔をのぞかせたのは、黒いメイド服のきれいな女の人だった。早朝から髪をきちんと結い上げて、服装も整っているが、瞳の周囲が赤い。泣いていたんだろうか。
「どうしたの? エディットさまと帰ったんじゃなかったの?」
「ええ、それが──」
豊満な侍女は唇にあだめいた笑みを浮かべ、誘うようにグレイの袖をつまんだ。
「もう……今日はだめよ。わかってるでしょ? ね、いい子だから、帰ってちょうだいな、グレイヴ──」
「ちょ、ちょっと待ってください」
グレイは目を泳がせ、あたふたと彼女の口をふさごうとする。
「マルガレーテ、そうではなくてですね」
「なによ、そうじゃなかったらなんなの?──まあ、エディットさま!」
侍女は瞳を丸くした。扉の陰になり、彼女の位置からは俺たちが見えなかったらしい。
「も、申し訳ございません」
「かまわないから、早く通してくれないか」
「は、はい」
ぐい、と、腕を取られ、頭を下げた侍女の前を通り過ぎる。
エディットが、視線をちらと後方斜め上に投げた。
「……ほどほどにしておかないと、またオーリーンがうるさいぞ」
「は、いえ、これは、その」
「──カイル、こっちだ」
廊下の角を曲がるとき、俺は俺の元従者のとぼけた顔を、まじまじと見てやった。記憶違いでなければ、彼には八百屋勤めの恋人がいたはずなんだけど。
向こうから小走りに近づいてくる人がいる。──白くて長い服と、首から下げた飾りは、癒やしの神の神官だ。祈りひもについた玉の色から、彼の位はそれほど高くないと知れる。
「エディットさま」
まだ年若い神官は、安堵の表情になって駆け寄ってきた。
「大事ございません、まだ」
「よかった」
言葉とは裏腹に、エディットの表情は硬い。
「さあ、どうぞ。──先ほどまで国王陛下とご一家の皆さまがお見えでした。今は少し、お休みになっておいでです」
案内された小部屋の奥には、もうひとつ扉がある。その向こうから、幾人かの気配とひそやかに歌う声がする。どうやらここは、病室との続き部屋だ。
「こちらでお待ちください」
神官は奥へ姿を消した。従者たちは廊下で控えている。小部屋の中は、俺と彼女の二人だけになった。
急に思い出したように、エディットが俺の腕を放した。
「…………」
扉の向こうから、歌声や人の気配がなくなるまで、いくばくもかからなかった。
カチャリ。
「──どうぞ」
顔をのぞかせたのは、先ほどの神官ではなく、こちらも癒やしの神に仕える証の装束をまとった婦人だった。
調度品の少ない閑散とした室内に、ほかの人はいない。そんな時季ではないのに暖炉には火が入り、お湯のしゅんしゅん沸く音だけが、やけに大きく響いている。
「エレオノーラさま──王太后陛下」
婦人は明るい窓辺にすえられたベッドへ歩み寄り、横たわる人の耳元に、そっと声をかけた。
「エレメントルート伯爵ご夫妻が、お越しくださいましたよ」
──うっすらと、おばあさまのまぶたが持ち上がった。
「エルヴィン……?」
エディットが、枕辺の椅子へ腰を下ろした。「……おばあさま」
「……エルヴィンなの? セドリックも、そこにいるのね?」
それは、すでに亡くなったという彼女の両親の名前だった。エディットは唇をかみしめた。
「おばあさま」
うつろだった青紫の瞳に、ゆるゆると光が戻ってくる。
「ごめんなさい……あなたは、エディット、ね……?」
「ええ。そうです、おばあさま」
色のない老いた頬が、かすかにほころんだ。その微笑みは、俺が知っているおばあさまに間違いなかった。けれど、会ってからまだひと月も経たないのに、痩せた頬はさらにこけ、瞳は落ちくぼみ、髪の艶は消え失せ──まるで別人のようにおとろえていた。
おばあさまの瞳が動き、俺を見る。──ひび割れた唇の両はしが、わずかに持ち上がる。
「まあ、カイル……きてくださったのね……」
「は、はい」
「わたくし、この子に毎日お願いしていたの……次は必ずカイルを連れてきてちょうだい、って」
まるでここが王宮の華やかなサロンであるかのような、優雅で上品な笑み。
若く健康であったころの彼女は、どんなにか美しい女性だっただろう。
「カイル、エディットをどうか、よろしくお願いします……早くに両親を亡くして、至らないところもある子ですけれど……」
「いいえ、そんな」
おばあさまが宝石みたいな瞳で俺を見つめ、歌うように言葉を紡ぐ。
「あなたはきっと、いい旦那さまになるわ……とても、優しい目をしているから……」
しわのある目尻に、うっすらと涙が浮かぶ。
「ああ、もっと早く、あなたたちを、認めてあげていれば、よかった……そうしていたら、こんな……どうか、お母さまを、許してね……」
言い終えると、おばあさまは静かに息を吐き、瞳を閉じる。エディットが腰を浮かせた。
「おばあさま!」
「──エディットさま」
かたわらにいた婦人が、エディットの肩へ手を置いた。
「……!」
「大丈夫、お休みになっただけですよ」
「そうか……」
エディットの喉が動く。瞬きも速くなったのが俺にはわかった。だが、彼女はすぐに自制を取り戻した。
「……しばらく、このままお休みになっていただくほうがいいだろうか」
「さようでございますね。──どうか、控えの間のほうへ」
「わかった。……行こう、カイル」
エディットは立ち上がった。彼女がきびすを返したとき、声がした。
「あなたたちの赤ちゃんを見られないのが……とても残念……」
彼女はもう、振り返らなかった。
小部屋に戻ると、エディットは長椅子に座り込んだ。思いつめた瞳のまま、膝の上で両手を組み合わせる。
──かわいそうに。
彼女を見て、俺はそう思った。
俺は両親が年を取ってからの子だから、生まれたとき、祖父母はみんなこの世を去っていた。それに、俺には祖父母がいなくても、たくさんの家族がいた。
エディットには幼いころから両親がいなくて、兄弟も姉妹もなくて、きっと一番近しい家族がおばあさまで、そのおばあさまが、もうすぐ死んでしまう。そんなの、かわいそうだ。
でも、彼女のような人をかわいそうだと思うのは、とても失礼なことかもしれない。家族がいる俺には、彼女の気持ちなんてわからない──そんなふうにも思ってしまう。
いや、違う。そうじゃない。
俺はいつもこうだ。頭の中で考えているだけで、言葉に出さない。心の中で言い訳ばかりして、口にする言葉を見つけられない。だって、目の前にいる、一人きりのおばあさまを失いそうで悲しい顔をしている女の子に、俺はなにもしないつもりなのか?
俺はエディットの隣に座った。手を伸ばす。彼女の青ざめた頬へ、そっと指の背で触れる。──別れぎわ、レオン兄さまが俺にそうしたように。
エディットは俺の左手を避けなかった。初めて触れた彼女の頬は、ひどく冷たい。
わからなかったら、尋ねてみればいい。オドネルとユーリにも言われたじゃないか。彼女はこんなに近くにいて、誰も俺たちを見ていない。
「……僕になにか、できることはありますか?」
あなたのために、エディット。
「…………」
おばあさまよりずっと濃い紫の瞳が、俺を見て驚き、あっけにとられたように瞬いた。だが、彼女の頬に血の気が戻ってきたと思ったのは、俺の気のせいだろうか。
エディットは瞳をそらした。
「……ありがとう。大丈夫だ」
嘘だ。
大丈夫なようには、とても見えない。
この人は平気で嘘をつく。俺はエディットが膝の上で重ねた両手に、自分の手を重ねる。俺よりずっと背の高い彼女の手は、俺の手よりも少しだけ小さかった。
やがて彼女は、かすれた声でつぶやいた。
「カイル……すまない……」
俺はなにも応えなかった。彼女ももう、なにも言わなかった。
──再び、扉の向こうから歌う声が聞こえてくる。幾人もの神官が、癒やしの神へ静かに祈りを捧げている。
俺たちは長い時間、生への願いを込めた歌を耳にしながら、ずうっとそうしていた。
エレオノーラ・フロレンツィア=アセルティス王太后。現国王マティウス二世の母。
時のカンドナヴィア国王、ロヌス王の第一王女としてこの世に生を受ける。十八歳でアセルスへ嫁ぎ、二男一女をもうけた。
前王ディートヘルム一世の王后として国政に寄与、美貌の賢妃として広く知られる。享年、六十六歳。