13
「──なにやってるのよ、このダメ従者!」
俺がお世辞にもさわやかとは言いがたい気分で、食堂をあとにしたときである。
「旦那さまのお食事、もう終わっちゃうわよ! 早くしなさいってば! ほら、寝ぐせ──あっ!」
玄関ホールで出くわしたのは、侍女のバルバラと、彼女に引きずられた従者のグレイのでこぼこコンビだった。
「お、おはようございます、旦那さま」
小柄なバルバラは、そばかすの散った頬を赤らめた。金茶の髪を肩でそろえ、メイド服よりもっと似合う衣装がありそうな、男の子みたいにきつい瞳をしている。年はエディットとそう変わらない。
「ふぁ、ふぁんなさふぁ、おふぁようふぉざいふぁす」
ダメ従者が全長二メートルの体を深々と折り曲げた。鑑みるに、朝の挨拶であるらしい。同じく挨拶を返しながら「遠心力」という言葉を思い浮かべた俺は、別にひがんでいるわけじゃありません。
グレイはくわえていたソーセージをすごい速さで、ごっくり、と飲み込んだ。即座に真顔に戻る。
「──遅くなって申し訳ございません。寝過ごしてしまいました」
いいえ、ぜんぜん。
今さらキリッとしたところで、彼からにじみ出るのどかな空気は、簡単に消せるものではない。
「旦那さま、お具合のほうはいかがですか?」
グレイはさっそく俺といっしょに歩き出した。おいてきぼりにされたバルバラが頬をふくらませるのを横目に、階段をのぼる。
「ありがとうございます。もう平気です」
いつもの朝ならグレイは俺を起こし、着替え、洗顔、朝食と、大きくて人なつこい犬みたいに、いちいちあとをついてくる。つまり今朝、彼は遅刻をしたわけだ。
一人でいるのが得意な俺にとって、グレイにつきまとわれるのは決して喜ばしいことではない。しかも本日の俺には約束がある。さて、どうやって彼をまくか。
まずは図書室へ出向く。エレメントルート伯爵家本邸の図書室は、たくさんの肖像画がかけられた廊下の突き当たりにある。比べるのもおこがましいが、蔵書の質も量も、実家のそれとは桁違いだ。書架にならぶ本は、政治とか、軍事、武術といった種類も多い。エディットが騎士だからかもしれない。
俺にも読めそうな物語や旅行記などを、適当に抜いてゆく。届かなければお付きののっぽが取ってくれる。役に立つ男である。
「や、今日はこんなにお読みになるんですか、旦那さま」
俺がグレイに持たせた本は、十冊を超えている。
「はい。読みます」
にっこり。
俺は笑顔で従者を見上げてやった。寝ぐせがあっちを向いた金髪も、ひょろ長い体つきも、剣を帯びてはいるものの、てんで迫力がない。──ようするに、このときの俺は、彼をくみしやすい相手だと思っていた。
「グレイさんは本を読まないんですか?」
「読みませんねえ。せっかく大人になったのに、今さら勉強はごめんですよ」
彼には娯楽として読書をする習慣がないらしい。それはますます好都合。
いったい誰がこんなになるまで読んだんだろう。──グレイが抱えた本の一番上、手ずれのした表紙には、『人ならざるものを妻にした或る王の物語』と、かすれた文字で書いてある。
「……ずっと僕といっしょにいるのって、退屈でしょう?」
「へえ?」
目尻の下がった青灰色の瞳が、ぱちくりする。
「いやあ、そんなことは……まあ……ありますかねえー、ははは」
「ですよね。僕も一人のほうが集中できますし」
あせるなよ、俺。さりげなく、さりげなーく。
「僕は部屋でこれを読みますから、グレイさんも好きなことをしていていいですよ。──確か、彼女がいるんですよね? いいなあ」
妻がいる俺が言うのもどうかと思う台詞だが。
グレイは照れたように頭をかいた。
「ややや、ご存じでしたか。旦那さまも意外に耳がお早い」
「よかったら、また午後から出かけたりしたらどうですか?」
「えっ? よろしいので?」
よろしいもなにも。
あっというまに話はまとまった。グレイは八百屋の彼女とデートに出かける。俺は自室でのんびり過ごす。このことは誰にもしゃべらない。
こんなに他愛なくて、この人本当にエディットの従者が務まってたのかしら。
どの本から手をつけようか。俺が自室で迷うころ、大扉のベルが鳴った。──バルコニーから前庭を見下ろしてみると、エディット姫のお出かけである。今日は休日というわけではなく、単に出かけるのが遅かっただけのようだ。
助かった……俺は胸をなで下ろした。隣の部屋にずっと居座られていたら、落ちつかないもん。
結局俺は、異国の王子と二人の魔法使いがこの大陸を旅する冒険譚を選び、午前中を費やした。
イメージって大事だなあ、と、つくづく思う。毎日一度は必ず図書室へ寄り、本を持ち帰る俺である。読書と称して部屋にこもっても、どこからもつっこみは入らない。これなら昨日、仮病なんか使う必要なかったかも。
──昼食後、俺はなんなく屋敷を抜け出した。
行き先はもちろん王宮の、蒼の塔だ。通用門では衛兵のケンが、あきれたみたいにぎょろ目をむいた。
「本当にきたんだな」
「はい!」
今日は堂々とオドネルの通行証を見せられる。俺が広げた紙を見下ろして、ケンはため息をついた。
「なあ、坊主。おうちの人にはなにも言われなかったのか?」
「ええ、特になにも」
おうちの人にはないしょだからね。
通用門を抜けた人々は、それぞれに用がある建物へ散ってゆく。蒼の塔は、十二の塔の中で一番門に近いが、入口へ至る細い通路に向かうのは俺一人だ。
庇の下の大きな木製の扉は、今日はきちんと閉まっている。それを、トントントン、と、たたいてみた。
「×××! ×××××××!!」
中からなにやら叫んでいるのは、たぶんユーリだろう。あの人は声が小さいから、なにを言っているのかさっぱりわからない。
「開けますよー……」
礼儀としてひと声かけ、丸い金属の輪をつかむ。ガチャ、と引けば、今度ははっきりとユーリの声が聞こえた。
「待ってー! まだ開けないでー!!」
一歩踏み出すと、ポコン、と、やわらかいものが、俺の頭に落ちてきた。
「ティ坊ちゃま! 早く閉めて! それ、外に出さないで!」
見れば足元には、白くて丸いふわふわした毛のかたまりが転がっている。手を伸ばしてつかんでみると、それは嫌がるようにびくっと身じろぎした。
わ、これ、生きものなの?
「坊ちゃま! 早く閉めてくださいってば!」
あわてるほどすばやいようには見えないが、ユーリの切羽詰まった声につられ、俺は急いで扉を閉めた。
あらためて腕の中のそれを見る。大きさは両の手のひらに載るくらい。毛に埋もれて、目鼻があるのかどうかも定かじゃない。手足やしっぽも見当たらない。まん丸で、やわらかくて、あったかい生きもの。
うわあ、もっふもふ……
俺は毛玉をそっと、なでてみた。キュロロロロ……と、高く澄んだ音がする。これの鳴き声のようだ。
顔を上げて驚いた。白、黒、茶、ぶち、灰……さまざまな色の、大きさも子どもの握りこぶしほどから丸まった猫くらいまで、数えきれないほどの毛のかたまりが点々と散らばり、棚や机の上はもちろん、壁や天井にまで張りついている。
オドネルが山盛りの毛玉を両腕いっぱいに抱えて、俺の前をよたよたと横切ってゆく。
「こんにちは、オドネルさん。これ、なんなんですか?」
「やあ、カイルくん」
昨日と同じくローブ姿のオドネルが、弱々しい笑みを見せた。
「これはね、トレブール、あるいはビンキーとも呼ばれる魔物の一種で──」
「ティ坊ちゃま、早くそれ、こっちに持ってきてください!」
向こうでは、大きな木箱を前にユーリが仁王立ちだ。「外に出したら大変なことになりますよ!」
こんなにおとなしくて可愛いのに?
もふもふをなでていると、なんとなく気分が穏やかになってくる。トレブールのほうも俺の手に慣れてきたのか、震えが収まり、ロロロ、ロロロ、と美しい声で鳴き続ける。
オドネルが箱の中へ、どさどさと毛玉を投げ入れた。
「いやあ、伝承と実際とは、案外異なるものだねえ」
言いながら、年寄りじみたしぐさで腰をたたいている。
「金剛石より堅いマクラレンの盾にかけて、問題は起こらないと思ったんだがね。繁殖は十二時間に一回と書いてあった。それが……」
「口を動かしてもいいですから、手も動かしてくださいよ、師匠」
と、ユーリが恐ろしい声を出した。
「千年も昔の記録が、あてになるわけがないでしょう。なんとしてもいっぺんで還すんです。これ以上増える前に、全部集めなきゃ」
「ゆうべ遅くに、古代の召喚獣を呼んでみようと思いついてね。トレブールなら狂暴性もないし、うってつけだと思ったんだが……」
「トレブールは、おなかに子どもが入った状態で生まれてくるうえ、一回の繁殖で一匹が十匹の子を産むんです」
ユーリは右手で黒、左手で白のトレブールを拾い上げ、ため息をついた。
「わたしがきた時点で千匹を超えていたと思います。繁殖周期はおそらく四、五時間程度、このまま次がきてしまったら……」
「一万匹ですか?!」
俺もつい、声が大きくなった。王宮魔法士とその弟子は、そろって力なくうなずいた。──と、そのとき、オドネルの顔がパアッと明るくなった。
「ローランドくん、私はひとつ思いついたんだがね」
「なんですか? これを時空のかなたに放り出すいい方法でも思いつきましたか?」
「いやいや、そうじゃない。いにしえのルクトレア帝国が滅んだ理由に、まだ定説はないだろう? トレブールが増え過ぎて食料を食い尽くしてしまったから、というのはどうかね?」
ユーリ=ローランドの辛抱強さは尊敬に値する。彼女は唇に笑みさえ浮かべて言い切った。
「なるほど。では、まもなくアセルス王国もルクトレアと同じ運命をたどることになりますね。──師匠、これ以上くだらないことを言い出したら、わたしは帰りますから。そのつもりで」