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身の上話をするのって、結構難しい。
おかしな言いかただけど、これまでの俺は、俺がどこの誰で、どんな人生を送ってきたのか知っている人しか知らなかった。自分を知らない誰かに対し、自分の過去を説明するのが初めてだったのである。去年の俺を知るユーリがいなかったら、初対面のオドネルにもわかるよう話せたか自信がない。
エディットがアルノーのわが家に現れて以降のてんまつを、俺はつっかえたり戻ったりしながら二人に物語った。──あくまでも、かいつまんで、だけど。俺が知ってるささやかな世界にも、口に出さないほうがいいことってあるからさ。
俺がなんとか自分語りをひと段落させると、ユーリはそそぎ直したお茶をすすり、ごく真面目な面持ちでうなずいた。
「つまり、エディット姫とティ坊ちゃまは、ご結婚のあとも寝室を別になさっているわけなんですね……」
結論はそこ?!
うろたえた俺がなにか口走るより一瞬早く、くわわわーん……と、まのぬけた音が響き渡った。彼女の隣で、オドネルがお盆を取り落としたのだ。
「ローランドくん! きみね!」
弟子に詰め寄るオドネルの端整な横顔が、黒いローブの襟のきわまで真っ赤に染まっている。
「見たまえ! カイルくんが恥ずかしがっているだろう!」
おどけるように、ユーリの瞳がくるりと回る。
「別にいいじゃありませんか。ここには成人しかいないんですから」
「きみのような若い娘さんが、そんな口をきくものではない!」
「はいはい、どうもすみません」
師をいったいなんだと思ってる、聖者セレウスの教えを知らんのかね、とかなんとか、オドネルがぶつぶつ言っている。ユーリ先生、ありがとうございます。こんな俺でも大人あつかいしてくれて……
どうにも間が持たない。俺は皿の上の魚を取り上げて、かじりついてみた。
甘い。でも、チョコレートや飴玉とは明らかに違う甘さだ。口の中に広がったクリームは思ったよりもやわらかくなく、若干の歯ごたえがある。つぶつぶした舌ざわりは、豆の皮だろうか。
よく考えたら俺、昼ごはん食べてなかったんだっけ。
おいしかった。夢中で食べた。焦げ目の入ったカリカリのしっぽまで、残らず口に入れて顔を上げると、ユーリがケーキナイフを片手に、オドネルと額を突き合わせている。
「尾の部分は幅を広目にしたほうがいいと思うがね」
「そうですね。じゃ……ここくらいまででしょうか」
「慎重に行きたまえよ。強く押すと、中身が飛び出るぞ」
「わかってますよ」
あっ、と思った。ユーリのおみやげは全部で四匹。きっと二人で二匹ずつ食べるつもりだったに違いない。そこへ俺がきたものだから、残った一匹を三等分しようとしてるんだ。
「どうぞ」
目の前の皿に載せられたのは頭の部分。三分の一というには、ずいぶん大きい。
「……いただきます」
おかわりのほうが、もっとおいしく感じられた。
お茶の時間が終わると、ユーリは教師の顔に戻って告げた。
「ティ坊ちゃま、食べた分は働いていただきますよ」
結局俺はもういっぺん書類を拾い集め、オドネルはユーリに叱られながら、崩れてしまった本を積み重ねることになった。
「どうしてエディット姫がティ坊ちゃまを選んだのか、不思議といえば不思議ですね……でも貴族って、政略結婚するものなんじゃありませんか? わたしにはそんなイメージがありますけど」
倒れた衝立を引っ張り起こし、ユーリは首をかしげた。
「政略、というからには、両家に利益がなくてはならないのではないかね?」
と、本を机に積み上げるオドネル。
「バルドイ家には間違いなくメリットがありますが」
ユーリが眉根を寄せる。
「エディット姫にはどんないいことがあるのか、ですよね。──バルドイ家の地下には彼女がひそかに狙うような、すごいお宝が隠してある、なんてどうですか?」
俺んちに宝物があったとして、エディットがそれを奪おうとしているってこと? あんなお金持ちに、今以上の宝は必要ないでしょう。
第一、そんないいものがあったら、俺は今ここにいないしね……などと考えていると、ユーリも苦笑いする。
「あるわけないですよねえ。わたしも結構探してみましたけど、別になにもなかったですし」
「探したんですか?」
「由緒あるお屋敷でお勤めするのは初めてだったものですから」
ユーリはちょろりと舌を出した。「秘密の階段とか、隠し部屋とか、ないのかなあって……」
びっくり。真面目そうに見える彼女がそんなことをしていたなんて、ちっとも知らなかった。
「そういえばカイルくん、きみの名前はベニートの戦いの勇者、カイル=バルドイからきているのかね? あれは確か、九三四年だったか」
「え、ええ、はい、そうです」
うちの家系で唯一の有名人だ。武勇伝のどこまでが本当なのか知らないけど、時の国王に功績を讃えられ、王女を娶ることを許されたらしい。バルドイ家が王家と縁続きである証、ディルク姓を賜った由来である。
こういう話になると、がぜんオドネルの瞳にも輝きが戻ってくる。
「やはりそうか! パーシヴァル二世の盾となって背と胸と額に傷を負ったという、あの英雄だろう? きっときみのご両親は、名高い先祖にあやかろうとしたんだね。たぐいまれな、いい名前じゃないか」
「どうもありがとうございます……」
自分の話を人にするのは難しい。そして、人が自分の話をするのを聞くのは恥ずかしい。なんだか汗が出てきてしまった。──そんな俺を、ユーリの栗色の瞳が見つめていた。
「わたし、少しだけティ坊ちゃまのお手伝いができると思いますよ」
なぜか彼女は、ひどく優しい声で言う。
「エディット姫がどうして早く結婚したかったのか、坊ちゃまはご存じですか?」
「ええ。王太后さまに花嫁姿を見せたかったそうです」
だって、エディット本人が、俺にそう言ったもの。
「そうですか。ご自分でおっしゃったのなら、たぶんその通りなんでしょうね。──わたしが言うのは、あくまでも街で聞いたうわさです。それでもかまいませんか?」
「はい、教えてください!」
エディットに関する情報なら、なんでも大歓迎だ。身を乗り出した俺に、ユーリは憐れみとも慰めともつかない表情になった。そうすると、ありふれているとばかり思っていた彼女の顔立ちが、ずいぶん大人びて見えてくる。
「エレオノーラ王太后陛下は、ご自分の命が長くないとお思いになり、すでにご遺言を出されているそうです。王太后陛下がお亡くなりになるまで独身だった場合に限り──エディット姫を、王女と成す、と」
「……え?」
一瞬、意味がわからなかった。王女とはすなわち、国王の娘である。王子の娘を王女と呼ぶことならあるが、エディットの父親はあくまでもエレメントルート伯爵なのだ。伯爵の娘を王女にする手段なんて……
「国王陛下のご養女に、という意味かね?」
オドネルの問いに、ユーリはうなずいた。間違いなく、ほかに方法はないだろう。
「王太后陛下は、ご両親もご兄弟もいないエディット姫の行く末がご心配なんですね。街のみんなは、そんなふうに話しています」
──これではわたくしのお願いを聞いてもらえなくても、しかたがないわねえ……
青みがかった紫色の、優しい瞳。今にも息絶えてしまいそうな、弱々しい声。
俺は考えてしまった。エディットは王女になるのが嫌だったのだろうか。普通の女の子なら、王女さまになれると言われたら喜ぶような気がするけど。
やっぱりあの人は、見た目通り『普通の女の子』じゃないってこと?
「つまりですね……」
ユーリがなんとも複雑な笑みになる。
「おばあさまである王太后陛下の、しかも『ご遺言』をわざわざ断ってまで迎える花婿ですよ?」
ん?
「失礼ですが、ご両家の家格は少々釣り合いませんし、これはもう、相当の大恋愛に違いない、と……」
「………………」
「あくまで街の評判ですけどね」
ユーリは巻物をたばねて、よいしょ、と持ち上げた。
「真相を知ったら、うちの近所の女の子たちががっかりするだろうなぁ」
「なぜ女の子たちががっかりするのかね?」
「それはですね……いえ、師匠は知らなくてもいいことです。気にしないでください」
「そんなことを言われたら、余計気になるじゃないか」
ポーン、ポーン、ポーン、ポーン……
いまだにありかのわからない時計の鐘が、四回鳴った。
あ、いけない。
俺は机に積んだ書類の重石になるよう、上に何冊かの本を載せた。
「僕、そろそろ帰ります。それで、これ……」
ポケットから出してはみたものの、直接オドネルへは渡しづらい。
──返したくない。
けげんな顔のユーリに紙を差し出したとき、気がついた。俺は、本当はそう思ってたんだ。
だって俺は、その場にきただけであんなふうに手放しに喜んでもらったことなんて、今まで一度だってなくて──
ためらう俺をながめながら、ユーリが紙を受け取った。──指を離したとき、胸がちりりと痛む。これを返してしまったら、俺はもう、ここへは。
ユーリは書かれた一文に目を走らせ、大きく息を吐いた。
「……あの人は、ほうっておくとすぐに部屋をめちゃめちゃにしてしまうんです。わたしは外出することが多いので」
「…………」
「だから、早く助手にきてもらいたいのは本当です。わたしの代わりに師匠を見張ってくれる人がいると、とっても助かるんですけど。──ねえ、師匠?」
大机の向こうに立つオドネルは、口をへの字に曲げていた。
俺は彼をだましたことを心の底から後悔した。魔法士の青年は、今にも泣き出しそうな顔をして、瞳をしばしばさせている。
「だがね、王弟殿下にお願いしている助手がきてしまったら……」
「当分きやしませんって。だったら殿下のご紹介のかたがくるまでならどうですか?」
「そうだね……うん、それなら、まあ……」
「じゃ、決まりですね」
ユーリはていねいにたたみ直した通行証を、俺の手のひらに載せた。
「ティ坊ちゃま、明日も同じ時間にきていただけますか?」
「……いいんですか?」
「いいんですよ。ここのボスのお許しが出たんですから」
どう見てもボスは、目の前にいる安物の上着とスカートを身につけた、一見平凡そうな、はたちの女の人なんだけど。
「お待ちしてますよ」
──俺はユーリに送り出され、蒼の塔をあとにした。思ったよりも日がかたむいていて、急ぎ足で通用門へ向かう。
「なんだ、坊主、帰るのか」
門番のケンが、でっかい図体をして、こちらもふてくされたようなへの字口になる。
「はい、また明日お邪魔します」
彼には本当のことを話せない。心の中で、ごめんなさい、と頭を下げる。ケンはひらひら手を振った。
「やめとけやめとけ。魔法使いなんざ、いまどき流行らねえ。辻占い師にでもなっちまうのがオチだ」
ご忠告には感謝するけど、俺は別に、魔法使いになるわけじゃない。ただの助手だ。──王宮魔法士、ジュリアン=オドネルの、単なる助手。
人の減った広場を走り抜け、大通りを戻るころには夕闇がどんどん濃くなってくる。早くしないと、グレイが俺を部屋まで迎えにきてしまう。
もろもろの障害を乗り越え、なんとか部屋に駆け込んだ。服を着替えて靴のひもを結び終えたとき、コンコンコン、とノックの音がした。
「旦那さま、起きてらっしゃいますか? 夕食のお時間ですよー」
「はい! 今行きます!」
たぶん俺は、俺の従者の緊張感に欠ける声につられ、具合が悪かったわりにはずいぶん元気な声で答えてしまったと思う。
そのくらい、楽しい午後だった。