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「さ、旦那さま。とくとご覧あれ」
シュッ、と音を立て、輝く白刃が目の前で抜き放たれる。ただでさえ低い声音を押し殺し、中年従者がささやいた。
「こちらは無銘ではございますが、エンツィアの刀剣匠、ポルナレフの折り紙付き……」
この人は、昔話に出てくるドワーフこびとにそっくりだ。ずんぐりに見えても頑健な体つき。厳しくしかめた太い眉。ひげがないのがじつに惜しまれる。
彼がかまえるのは、切れ味鋭い両刃のつるぎだ。地金の肌はこれこれで、波紋の種類がしかじかで、近年そこらで手に入るものとは、品位が格段に違うとか。
「鍔と刀身の重さのつり合いも申し分なく、こう持つと、柄が手のひらに吸いつくような心地がいたしましてな」
ほほう、なるほどそうですか──俺はひたすら相づちを打つ。彼がこんなにしゃべるところを見るのって、もしかしたら初めてかも。
薄暗い地下の保管庫には、よりどりみどりといってよいほど、さまざまな刀剣類がならんでいた。ひそかに買い集めておりました、と、ドワーフおじさんはほくそ笑む。この十四年間、エレメントルート伯爵家がいかに物騒なことをたくらんでいたかが知れようというものだ。
西の空に藍色の幕が下りてきたような夕暮れどきである。こそこそと外へ出てゆくと、待ちかまえていたマイルズが、嬉々として厩を案内してくれる。
「じっくり見てやっておくんなさいよ、旦那さま。うちの鞍はどれも特注ですんでね」
彼のちぢれた金髪には藁くずが引っかかり、四角張った顎にも油が跳ねていた。働きものの下男が指す棚には、磨き上げられた乗馬鞍が、ずらりとならぶ。
馬房ではぴかぴかにブラシをかけられた馬が六頭、いつでもあるじの御用に応えるべく待っている。馬車だって、小型の二輪馬車から豪華な箱型馬車まで、なんでもござれだ。
むろん、本が読みたければ、図書室には古今東西の物語がぎっしりなのである。それこそそこらの書店では買えない本も多いのではないか。
「……………………」
玄関ホールへ戻り、腕を組んで考え込む俺を、従者のグレイがにやにやと見下ろした。
「旦那さま、僭越ながら、私はもう少し発想の転換をお勧めいたしますが」
「発想、ですか?」
「──旦那さま! グレイ!」
廊下の向こうに侍女のバルバラの姿が見えた。両手でしっしと子犬でも追い払うみたいなしぐさをする。
「早く! もう、お出になりますよ!」
わっ、大変。
俺たちは蜘蛛の子を散らす勢いで逃げ出した。しかし、
「カイル」
ぎくり。俺とグレイは二階にたどり着く直前で立ち止まった。顔を見合わせて、おそるおそる振り返る。
「なにをしているんだ?」
バルバラを従えたエディットが、階段の下からこちらを見上げていた。俺の妻はうるわしい。濡れた黒髪を高く結ってまとめ、すらりとした肢体に湯上がり用のガウンをまとっている。おなかはまだまったく目立たない。部屋で本を読むと言った俺がこんなところにいるものだから、菫の瞳が不思議そうだ。
「ええと、ネロさんに、今日の晩ごはんはなにか訊きに行こうと思いまして……」
「グレイもか?」
俺が妙な言い訳をするので、エディットはますます瞳を丸くする。使用人のみんなの食事は、俺たちよりも早い。グレイはすでに夕食をすませているはずだ。
「はっ! 私も、本日の夜食がなにかを訊きに行こうと思いまして!」
気をつけをした俺の従者も、堂々とでまかせを口にする。
エディットの唇が、面白そうに弧を描いた。
「それで?」
「「えっ?」」
「わたしたちの夕食と、グレイの夜食はなんだったんだ?」
俺たちは二階へ上がろうとしていた。一階奥の厨房まで行った帰り道だと考えるのは、極めて順当だ。俺とグレイはたちまち青ざめた。
「スープはマッシュルームのポタージュ……」
助け舟が現れた。エディットのかたわらに控えるバルバラだ。
「魚料理は鱒のクリーム煮、メインは牛フィレとフォアグラの肉詰めキャベツ──でしたよね? 旦那さま」
「はい! そう、そうなんです!」
「ふーん」
エディットは、すまし顔の侍女をちらりとながめて、おまえもぐるか、という目つきになる。
「グレイの夜食のほうは?」
「まだ考え中とのことで、教えてもらえませんでした!」
背高従者が、直立不動の姿勢で叫んだ。いいぞ。うまい答えだ。
「…………」
エディットはきびすを返した。「……マイルズを呼んでくれ。髪を乾かしたい」
再び血の気が引く。俺が鞍を見たいと頼んだせいで、入浴後の彼女の髪をあおぐ役目の下男は、まだ厩から戻っていない。
「エディット!」
「ん?」
「今夜は、僕が乾かします!」
「カイルが?」
ちょいと瞳を瞠ったエディットは、胸をどきどきさせている三人──俺、グレイ、バルバラを順ぐりに見回して、にっこりと微笑んだ。
「伯爵閣下手ずからとはおそれ多いが、では、お願いするとしようか」
居間へ向かってすたすた歩き出す。俺はグレイに腰をかがめさせ、大急ぎで耳打ちした。
「……エディットが眠ったら、また」
「は、かしこまりました」
従者も真剣な表情でうなずき返す。──勘のいい奥さんの裏をかくのは、大変な苦労なのである。
◆◇◆
風を起こす。
俺の魔力で、空気に流れを作る。春のそよ風みたいに静かに、優しく──絹糸よりもずっと美しい彼女の髪を、傷めたりしないように。
バルバラが、黒くつややかな流れに、くり返し櫛を入れる。エディットは長椅子の背もたれに身を預け、気持ちよさそうに瞳を閉じている。
エディットは、おなかに子どもができてからも、王后アントニエッタさまの騎士として王宮に出仕を続けていた。彼女自身がそれを望んだからだ。ただし、王后さまの計らいで、出かける時刻は遅く、帰宅するのは早い。とてもうれしいけれど、ないしょごとをしたいときには少々困る。
「……カイル」
「はい」
「キトリーに、帰らないか」
故郷の風景を懐かしむように、エディットは目を閉じたままで微笑んだ。
「国許の皆に、いつまでも領主を会わせないわけにはいかないからな」
キトリーの領主とは、俺のことだ。正式に爵位を継いでから半年余り、俺はまだ領地入りしたことがない。
アセルス王国の貴族は、一年の大半を領地で過ごすのが一般的だ。義務付けられた参勤は年に一度。それさえすめば、王さまになにか奏上したいとか、子息や令嬢を社交界にお披露目したいとかの用事がない限り、国許にいて領地の内政に精を出す。
しかし、役付きであれば話は変わる。政府の役職に就いた貴族の場合は正反対で、国許へ帰れるのは年に一度、ひと月もあればいいほうだ。彼らは親族や家来たちに領地を任せ、一年の大半を王都で過ごす。
さて、俺はといえば。
完全無欠の無役である。
「そうですよね……」
この春までの俺たちは、いろいろな面倒ごとを多く抱えていた。今まで俺が領地へ足を向けなかった理由は、エディットが俺の身の安全を考えていたからだ。キトリーへの旅の途中、命を狙われたりしないように、との配慮だった。
懸案の事項はひと通り片がついた。となれば、俺が王都にいる理由は、エディットが王都にいるからにほかならない。王后さまのおそばにいるのが彼女の役目だ。けれど、たとえば妻が王族の女官務めをしているとして、べったり王都から離れない貴族なんて、普通はいない。
つまり、俺たちが取るべき道はただひとつ──別居なのである。
「わかってます。行きます。僕は、キトリーに」
俺は領主なんだ。いつかはこんな日がくると覚悟していた。──大丈夫。手も声も震えていない。魔法で送る風が、ほんの少し乱れたかもしれないけれど。
気候もよし。いざ国許へ、絶好の時季ではある。
「…………」
「……カイル?」
エディットが、けげんそうに目を開く。俺は急いでかぶりを振った。
「平気ですよ。だって、たまには会えるでしょう?」
「カイル」
「あ、赤ちゃんが生まれるときとか、僕が王都にきてもいいですよね?」
彼女の左手が、俺の右腕を押さえた。
「カイル、なにか勘違いしていないか」
ほんのりほてった湯上がりの横顔が、もういくらか赤みを増したようだ。
「もちろん、わたしもいっしょに帰る」
「でも……」
彼女は、王后さまの騎士で──
今度こそ、魔法の風はやんでしまった。うながされ、俺は彼女の隣に腰を下ろす。優しく肩を抱かれる。
「休暇を取るつもりなんだ。王后陛下には、もうお許しをいただいた」
「えっ」
目を上げたら、真摯な紫水晶の瞳が俺を見つめていた。機を見るに敏なる侍女は、とっくに姿を消している。──それでも、どうしても声が小さくなる。彼女の耳元に、ささやくように問いかける。
「……本当ですか?」
「うん」
「エディットも、僕といっしょにキトリーに帰るんですか?」
「当たり前だ。わたしがあなたを一人で行かせるわけがないだろう」
「…………」
エディットに抱かれた肩の力が、ようやく抜ける。うっかり目の前がぼやけてしまったのを隠そうと、俺はあわてて彼女の肩に顔を押しつけた。
「……本当に?」
彼女の言葉が信じられないんじゃない。ただうれしくて、もう一度聞きたくて、俺は問う。「……エディットも?」
「ああ、わたしもいっしょだ」
医師がおっしゃるには、あとふた月も経てば、おなかの中で赤ん坊が落ちついて、旅にも出られるようになるそうだ──そう言って、彼女はうなずく。
「着くころは夏だろう。美しいぞ、キトリーの夏は」
見渡す限り続く丘が一面緑で覆われていて、丈の高い夏草が、風が吹くたび大きな波のように揺れるという。
なんだか俺は、急に忙しくなってしまった。
その日の深夜、俺はこっそり寝室を抜け出し、一階の居間でグレイと落ち合った。──目的は、夕食前の話の続きだ。
じつは謀の協力者はグレイだけではない。侍女のバルバラ、料理長のネロ、下男のマイルズ、執事のワトキンスまでが、次々と居間に現れる。みんな、ようやく自分の仕事を片付けたところなのに、つき合わせて申し訳ない。
「もう食材の注文はすませてありますから、料理のことなら俺に任せてくださいよ」
どよん、と、胸というか、大きな腹をたたいてネロが請け合う。
「極上のワインをお取り置きしてございます」
ワトキンスが黒いまなこをらんらんと光らせて言う。──以前宰相ゾンターク公に差し出した逸品とやらは、あくまでも最高級だったんだそうで。
「おなかに赤ちゃんがいるのに、お酒を飲んでも大丈夫なんでしょうか?」
「お医者さまに伺ってあります。少しでしたら、体をくつろがせる効果があるそうですよ」
と、バルバラが俺に教えてくれる。
従者のグレイが、二メートルの高みから俺を見下ろした。彼のひょろ長い柱のような背丈に意味はないが、魔法使いとしては非常に優秀、剣士としてもそれなりの腕だ。
「旦那さまは、エディットさまなら剣や馬具をお好みかとお考えになる。大変ごもっともです。しかし、失礼ながら、私に言わせていただければ、少々ありきたりですねえ」
ふうん?
俺は首をかしげた。本以外で彼女が好きそうなものって、ほかにある? ──どっちにしても、剣も馬具も十二分にそろっていて、これ以上増やす必要なんか、どこにもなかったんだけど。
「旦那さま、どうしてご本じゃいけねえんですかい?」
俺と同じように、マイルズも首をひねる。たくさんお持ちでも、一冊ずつ中身が違うでしょう、と下男は言う。
それは、その通りなんだけど……
「本は前に、僕がエディットからもらったことがあるんです」
なんとなく、別なもののほうがいいような気がするじゃない?
「その発想ですよ、旦那さま!」
グレイは得たりとばかりにうなずいた。発想の転換、というのが彼の提案だ。
ほかの準備はばっちり万端整っていて、残るは俺一人である。俺は本日幾たび目か、両腕を組んで考え込んだ。──エディットが生まれてから十九回目の誕生日は、あと三日にまでせまっている。




