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「ほほう……これはこれは……」
目を見開いたオドネルが、胸の前に両手を合わせ、指先で顎を支えた。
ぴかぴかに洗った真っ白なお皿が、一人一人の前へならべられる。そこにユーリが載せていくのは、俺の手のひらほどの大きさの──これって、魚?
「本当は、あつあつのほうがおいしいんですけど……」
カップにお茶をそそぎながら、ユーリはささやくように言う。
「冷めていても充分いけるらしいです。今、クレア街で、一番流行っているお菓子なんですよ」
三角の尾びれと、うろこを模した波型の焼き目、妙にリアルな目玉までついたそれは、こんがりときつね色だ。腹にはなにか詰まっているようで、ふっくらとふくれている。
見知らぬ食べものを口にするのって、結構勇気が必要だと思う。あいにくだが、俺にはあまり持ち合わせがない。
「なんとかという種類の東方の豆と、砂糖を混ぜたクリームが入っています。これ、甘いですから念のため……」
「これは、頭と尾のどちらから食するものなのかね?」
フォークを握りしめたオドネルが問う。さすがは大冒険を夢見る魔法士、じつに勇敢だ。
「どっちからでもどうぞ。しっぽまでたっぷり身が入っていますから」
左の頬に小さなえくぼを浮かべたユーリ=ローランドは、今年で二十歳。一年余りと短いあいだだが、アルノーの実家で俺の家庭教師を務めていた女性である。
記憶にある限り、俺の先生は彼女で四人目だった。兄たちの成人後は教師を必要とする子どもが俺だけになり、両親は俺一人に大の大人をかかりきりにする余裕がなかったんだろう。代々の先生は、御者やら秘書やらを兼任させられたものだ。
俺の先生は、二、三年ごとに入れ替わり、そのたびにどんどん若くなった。俺ほど手のかからない生徒も珍しいはずなので、辞職の理由は給料だと思う。最後の先生だったユーリはまだ十代の、どこの学校を出たとも知れないおとなしげな女の子だった。父が王都に出向いた折、働きながら勉強していた彼女を見つけて、連れ帰ったのである。
大魚の腹へ銛を打ち込む漁師さながら、オドネルが魚型の菓子に思いきりよくフォークを突き立てた。たちまちはみ出る赤茶のクリームに苦戦しつつ、頭からかぶりついている。
「通は手づかみで食べるんです」
ユーリは両手で頭を持ち、尾のほうから口に入れた。「うん、やっぱり冷めててもおいしい……」
「──神々の果実もかくやという味だ!」
口の端に赤いものをつけたオドネルが、感激したように叫んだ。
「黄昏の精霊が催すランクールズの宴にかけて! ローランドくん、これはなんという名前の菓子なのかね?!」
ユーリは軽く眉間にしわを寄せた。
「なんでしたっけ……忘れました。店まで行けばこれ型の看板が出ているので、覚えてなくても買えますからね」
◆◇◆
「去年の秋、わたしは休暇をいただいて、姉のお産のお見舞いのため、王都に帰省していました……」
ガラクタが窓からの日差しをさえぎり、塔の中は昼間なのに薄暗い。両手を組み合わせた彼女が伏し目がちに語り出すとまるで怪談のようだが、そうではない。ユーリは単にこういう人なのだ。
およそ十か月前、西部地方を襲った大嵐で、アルノー市を流れる大河、イェン川が氾濫した。地元の産業への打撃も深刻だったが、なにより、王都への交通の要となる橋が流された。ユーリはアルノーへ戻るすべを失ってしまったという。
「街道を通る駅馬車では、荒野の向こうまで行けないと聞いたんです。控えめにいって途方にくれましたね……ちなみにティ坊ちゃま、今はどうなってるんですか?」
「渡しをもうけて、少しずつでも行き来できるようにしています。あとは、上流の橋まで大回りするか」
と、俺は答えた。ユーリはうなずいた。
「奥さまからのお手紙が届いたのは、ひと月以上経ってからです。これから冬になるので当分戻らないほうがいい、と、お金まで送ってくださいました。子どもが生まれたばかりの姉夫婦のうちにいつまでも居候はできないので、とても助かりました」
「そうだったんですか……」
俺を見るユーリの瞳が、細くなる。
「ティ坊ちゃま、ご存じなかったんですか?」
「え?」
「え、じゃありませんよ。わたし、奥さまとは何度か手紙のやり取りをして、結局こちらで仕事を探すことにしましたけど、まさか、ぜんぜんご存じなかったわけじゃありませんよね?」
「まったく知りませんでした……」
なんとはなしに肩身が狭い。ユーリは机に頬杖をつき、じっ、と俺の顔を見た。そして、意外な言葉を口にした。
「さすがは坊ちゃま。相変わらずですね」
「えっ? さすがって、なにがですか?」
「ティ坊ちゃまって、基本的には他人に興味がないでしょう」
「そんなことはないですよ」
他人が俺に興味を持たないことなら、多々あると思うんだけど。
「まあ、いいです」
俺の元家庭教師は、二桁の足し算も満足に解けない教え子にあきれるみたいなため息をついた。なけなしの名誉にかけて誓うけど、彼女の生徒だったころは勉強のことでこんな顔をされるなんて、いっぺんもなかったんだ。本当。絶対。断固。
「ところで、ティ坊ちゃまはどうしてここに?」
「ええと……それは」
まさしく今こそ勇気の使いどきだ。俺はオドネルに向き直った。
「オドネルさん、僕……」
あなたの助手じゃないんです。王宮に入ってみたくて嘘をつきました。ごめんなさい。
そう言って俺が頭を上げたとき、茶色い魚のしっぽをくわえたまま、オドネルの体が斜めに傾いでいた。
「……なんと」
「…………」
「そんな、じゃあ、きみはいったい、なにものなんだね?」
「なにものって言われると……やっぱり不法侵入者でしょうか……」
俺がここまでたどり着いたいきさつを話すと、オドネルは、がくっと肩を落とした。
ユーリがぼそりと言う。
「師匠、王弟殿下に助手のことをお願いしたのって、先週でしょう? こんなに早くくるわけないじゃないですか」
「それは、そうかもしれないが、しかし」
「王弟殿下はそんなにお暇なかたじゃありませんよ。──それにしてもティ坊ちゃま」
再びユーリが俺を見つめる。
「ここへ勝手に入ってきたのはわかりました。じゃ、どうして王都まできたんです? まさかお父さまのお供ですか? 違いますよね?」
……どうして決めつけるのさ。ひょっとしたら俺が父の仕事を手伝うようになって、兄たちみたいに参勤のお供をするようになったかもしれないじゃない?
ようするに、そんなふうにはぜんぜん見えないって意味なんだろう。……いいけどね。
じぃー……っと、ユーリの視線が俺の目を追いかけてくる。
「ティ坊ちゃま」
「……はい」
「まさかとは思いますけど……エレメントルート伯爵家の結婚パレード、わたし、見に行ったんですよね」
「え!」
断っておくが、あれはパレードではない。見物人の数がべらぼうに多かっただけで──そんなことを言っているんじゃなくて!
オドネルが目をぱちくりさせた。
「このあいだの、『菫の君』とやらの婚礼かね? きみが、お世話になったおうちのご子息かもしれない、と言っていた」
「はい、それです。──わたし、大聖堂の前まで行ったんですよ。エディット姫のお相手がバルドイ家のカイルさまと聞いたので、もしかしたらティ坊ちゃまかもしれないと思って」
血の気が引く、という表現があるが、このときの俺がまさにそれだった。俺の血の気は音を立てて引いた。
「そそそそんな! どうして名前まで知ってるんですか?!」
「エディット姫のご結婚は王都で大評判なんですよ。知らないのはこの人くらいです」
と、ユーリはかたわらの師に目を向ける。この人呼ばわりされたオドネルは、失敬な、という顔をした。
「それよりもローランドくん、彼の名前はカイルなんだろう? ティというのはあだ名かね?」
「師匠は黙っていてください。説明ならあとでしますから」
小声だがきっぱりと言い渡され、オドネルはあっけなく口をつぐむ。
ユーリ先生の目が怖い。
「わたし、視力はとてもいいんです。新郎はきらっきらの金髪でした。断言できます」
「…………」
「バルドイ一族にカイルさまは何人もいらっしゃるので、これはいとことか、はとことかのカイル違いだったか、と思ったんですけど」
「…………」
「あれは、ティ坊ちゃまだったんですね?」
そうだった。彼女はこういう人だった。物静かに見えるけど、結構容赦ないんだよ……
「それに、お二人が馬車を降りるところを見ましたが、あの新郎……」
キラリーン、という感じで、ユーリの瞳が輝きを増した。「背丈が……」
俺は即座に立ち上がった。はずみで椅子が勢いよくひっくり返った。
「はい! あれは僕です! 間違いなく!」
「やっぱりそうでしたか。それにしても、坊ちゃまと比べると──」
「い、いろいろありまして! でも、あれは間違いなく僕なんです!」
ふうん、と、ユーリはうさんくさげな顔になる。
「ティ坊ちゃま、いろいろ、って、具体的にはどんなことですか?」
少年の呼び名の由来は「2」に出ています。