99
エディットはまた、近衛騎士として王后アントニエッタさまへ仕えることになった。
二人で朝食をすませて、出かけてゆく彼女を見送る。それから俺は、秘書の執務室に立ち寄った。日記の調査の進捗状況と、ついでに領地の話も聞かされる。俺は仮にも領主だというのに、まだ一度もキトリーに帰っていない。そろそろ顔を出さないと、領民たちの堪忍袋も緒が切れかけているらしい。
王弟妃クララさまのガーデンパーティーの翌日だ。俺は午後から蒼の塔へ出かけた。
もちろんお供は魔法剣士のグレイである。俺たちは西口通用門の手前で馬車を降り、行列のしっぽにならんだ。確かに久しぶりかもしれないが、衛兵のケンがこちらを見つけて後ずさる。
「坊主、おまえさんってやつは……」
ごつい門番のでっかい目玉が、まるで恐れおののくようだ。
うわさはいろいろ聞いていて当然だし、多少気まずくもあろうかとは思っていた。でもそんな、お化けが出た、みたいな目つきをしなくても。
「しおらしげな面して、大したたまじゃねえか」
「は?」
ケンは声を小さくする。「……聞いたぜ。宰相閣下を、顎で使ったんだってな」
一瞬首をかしげてしまった。──もしかして、ゾンターク公爵がうちまで馬車で迎えにきてくれた、あれのこと?
どうせなら、もっとほかのところに恐れをなしてもらいたい……と思いつつ、俺たちは通用門を通してもらう。
王立魔法学院が廃止されてから、長い年月が過ぎている。かつては多くの魔法士を輩出し、隆盛を極めた蒼の塔の入口は、周囲に建てられた倉庫の群れに埋もれてしまった。商う品を納めにきた商人たちや、行き交う荷馬車のあいだをぬって、細い通路に折れる。その先には──懐かしの、巨大な木製の扉が現れる。
「ここにくるのもしばらくぶりですね」
バスケットを抱えたグレイが、のどかな声で言う。俺が白金の塔から脱出したことは、オドネルたちにも使いを出して知らせてあった。その後の騒動に二人を巻き込まないよう、俺は蒼の塔へは近づかずにいたのである。
「最後にきてから、もうひと月半くらい経ちますよ」
などと言いながら、俺はなにげなく扉についた取っ手を引いた。
「わあ……!」
扉を開けるなり、口も大きく開けてしまった。入ってすぐには大机があって、古びた椅子や机がてんでばらばらに置かれてあって、大小さまざまな無数の本棚、埃だらけの衝立とか謎の物体、妙な植物の入った箱が散らばる、いつもの蒼の塔だと思い込んでいたのに。
中身が変わったわけではない。今にも崩れそうな本の山があちこちに築かれているのも今まで通り。──それらが、すっぱりと左右に割れていた。さながら、大神の使徒が大海に向かって杖を振り、水を割って人々を渡したごとく、幅の広い道ができていたのだ。
入口からまっすぐ見通せる突き当たりには、上へと伸びるらせん階段。
「ティ坊ちゃま! グレイさん!」
通路の左側に寄せた大机で書きものをしていたユーリが、勢いよく立ち上がった。当然、彼女の隣のオドネルも。
「やあ、二人とも、元気そうでなによりだね」
「オドネルさん、どうしたんですか? これ──」
俺はぐるりと室内を見回した。どうしたというか、どうやったんだろう。だって、これだけごちゃごちゃした道具類を全部ずらしてすきまを空けるなんて、彼らだけで簡単になせる業じゃない。
「それはそれは苦労したんですよー」
と、ユーリ=ローランドは苦笑いする。オドネルが魔法で棚やなんかを持ち上げ、ユーリが両手で押して、位置をずらしたら床へ下ろす。すみのほうから毎日少しずつ、丹念にていねいに徐々に徐々に、ひたすらくり返したのだそうだ。それでこれだけ幅のある道を切り拓いた。
一番奥は、俺も存在するとは知っていても、いまだ見たことがなかった。ずうっと封鎖されていた、上の階へ続く階段だ。
「例の魔法の会のときに、前より大勢の人にきてもらいたいと思ってね」
端整な顔立ちにいつもの穏やかな笑みを浮かべ、オドネルが言う。
「二階を使うことにしたんだよ。──天にまします神々に、一歩だけ近い空間で、ね」
昨年末にこの蒼の塔で開催した『滅びつつある魔法文化の保護を推進する会』の第二回の準備が、着々と進められていたのである。
「次はいつなんですか?」
「さすがにしばらく先になるね。ようやく二階が片付いたばかりなんだ。きみたちも上がってみるかね?」
オドネルに案内され、森の木々のようにそびえ立つ本棚のあいだを歩く。棚からあふれんばかりの書物を見て、当日までにがんばって整頓しなくちゃ、と思う。俺たちの後ろでは、ユーリがグレイを見上げて尋ねている。
「今度はグレイさんもなにか演ってくれるでしょう?」
「えっ、私もですか?」
「この前は演りたそうだったじゃありませんか。──ティ坊ちゃまもいかがですか?」
「ぼ、僕も? そんな、無理ですよ」
階段に差しかかると、オドネルが右手を伸べた。魔法の白い明かりが灯る。光はふわふわと空を漂い、俺たちを先導する。
「広い……!」
二階には、荷物も仕切りもまったくない空間が、声がこだまするほどひろびろと広がっていた。
天井はあくまでも高く、ガラクタに日差しをさえぎられた一階とは大違いだ。オドネルが明かりを消しても窓からの陽光がさわやかに明るい。胡桃の無垢板を張った床は、向こうまできれいに掃き清められている。掃除だけでもすごく大変だっただろう。
「相当大きな舞台が作れますねえ」
青灰色のたれ目を丸くしたグレイが言う。俺も振り返って尋ねた。
「椅子もたくさん必要ですね。どこか借りる当てはあるんですか?」
「王宮の事務官に頼んではいるんだが」
と、オドネルは、ローブの肩をすくめた。
「ああいった連中の回答の遅さときたら、太古の昔からの、神聖にして侵すべからざる戒律、と言ってもいいくらいだからね。ラディスタヴァルの老兵が、豊穣の女神から授かった聖なる鍬のひと振りにかけて!」
みんなで一階へ戻り、俺とグレイは大机の上に本日のおやつを披露した。なんといっても王宮魔法士ジュリアン=オドネルがいたからこそ、白金の塔の魔法陣を破ることができた。料理長のネロにも気合いが入ろうというものだ。
とれたての苺をたっぷり載せた、二段重ねのホールケーキである。ふかふかのスポンジと真っ白な生クリームが、口の中で溶けてゆく。
甘いお菓子には似合わない話題かもしれない。俺は、二人に白金の塔を脱出して以降のできごとを話した。──仮面の男、すなわちフィリップ=レールケ伯爵と対面して、亡くなった父親のヨハン卿が、セドリック卿を殺害した実行犯だと明かされたこと。ヨハン卿の日記を入手し、内容を調べていること。そして、国王マティウス二世と会い、ヨハン卿がセドリック=エレメントルートを刺した一因となったのは、自分の命令だと言われたこと。
「巷では、王弟殿下黒幕説のほうが有力なんですよ」
ユーリが意外そうに瞳を瞠る。レールケ伯爵の退隠は、誰かの身代わりになって責任を取らされたように見えなくもない。彼は王弟シベリウスの側近だ。つまるところは……と、勘ぐりつつも、シベリウス殿下は結局王位に就いていない。セドリック卿殺害の動機もふくめ、謎は深まる一方だ、と世間は考えているらしい。
「オドネルさん、そういえば」
俺はずっと、彼に訊こうと思っていたのだ。指で上着の胸ポケットを探る。──すると、オドネルは飛び上がった。言いかけた俺を見て、なにか大切なことを思い出したようだ。
「ローランドくん、カイルくんたちに、あれを見せなければ」
「あ、そうでしたね」
口の端についたクリームをナプキンでぬぐって、ユーリが立ち上がった。
「グレイさん、手伝ってもらえますか?」
「ええ、いいですよ」
けげんそうに、背高従者も立ち上がる。
「なんですか?」
俺が問うと、本棚の前まで行った二人をちらりとながめ、オドネルは机の上で両の手のひらを合わせた。考え深げな瞳になり、指先で顎を支える。
「じつはね。──先日私は、レールケ卿に招かれて、彼の屋敷までローランドくんと出向いていったんだ」
「えっ」
驚いた。ここにきてから俺は驚いてばっかりだ。──じきに二人が戻ってくる。ユーリは書類や書物をひと抱え、グレイのほうは、書物の上に小さな木箱もひとつ載せている。
エディットと俺が乗り込んだ、レールケ伯爵のあの私邸にか。
「レールケ卿は、国許へ帰るために家財の整理をしていたんだよ」
「うちは、くずもの屋じゃないんですけどねー」
と言いつつ、ユーリはなにかたくらむような笑みである。
「レールケ伯爵も役目がら、昔の王立魔法学院のことを調べていたみたいですね。魔法に関するものは残らず持ち帰っていいと言われたので……」
「なにかきみたちの役に立つものがないかと思ってね」
オドネルも、いたずらめいた顔をする。
「まあ、いろいろと漁らせてもらった」
なんと大胆な。彼が白金の塔の魔法陣を解くべく尽力していたことは、レールケ伯爵にも知られていておかしくないのに。
書物は二人が何往復かするほどあった。ひょっとしたら、と思うのは、ヨハン卿の日記の前の分である。ヨハン卿がマティウス王子に会い、王太子になるための工作を頼まれた、というくだりがふくまれている分が混じっていないかと思ったが、それらしきものは見当たらない。
「……肩の荷が下りたのかもしれないね。彼はやすらかな目をしていたよ」
訪問したときのフィリップ=レールケ伯爵の様子を、オドネルはそんなふうに評した。元々のレールケ伯爵は温厚な気質の男なのだそうだ。それで王弟とも気が合ったんだろう。
「この書物のたぐいを、どうするかね?」
「事件に関係なさそうなものは返しますから、しばらくお借りしてもいいでしょうか?」
秘書が目を通したがるに違いない。俺が頼むと、オドネルはうなずいた。
「もちろんだとも。ゆっくり調べるといい。それと……」
オドネルは、俺に向かって指を一本立ててみせた。先ほどグレイが運んできた木箱の蓋を開ける。
「──これだ」
コトリ、と置かれたのは、銀色に輝く金属の輪がひとつ。
直径から考えると、手首にはめる装身具だろうか。幅は三センチばかり。植物のつるらしいきれいな文様がうずまいていて、ところどころに小さな宝石が埋め込まれている。うながされて手に取ると、手のひらに不思議な感覚が伝わってきた。
「オドネルさん、これは?」
「美しいだろう? ジャック=ファンヴィストという、大昔の銀細工師の仕事だよ」
まあ、美しいのは俺にもわかる。目をぱちくりさせる俺に、オドネルはつけ加えた。
「ファンヴィストはね、まじない師でもあったんだ。今ではすっかり見かけなくなった、魔法の道具を作る職人さ」
魔法の道具。
「カイルくん、いいかね。それの土台は神銀で、宝石は、小さくともすべて天然の魔石なんだ。模様は穀物と果実の神の紋だね。おそらくは修行中の神官にでも頼まれて作ったものだろう。──その腕輪は、はめるだけで、あらゆる魔法をはねつけられる」
「あらゆる魔法を……」
「そうとも。むろん、当人の魔法も無効にされるがね」
オドネルは、優しい焦げ茶色の瞳で俺を見つめて言う。「……レールケ卿のお父上、つまり、ヨハン卿が遺した形見だそうだよ」
父は生前、このような細工ものをいくつも買い集めていた──レールケ伯爵は、オドネルに言ったそうだ。
木箱の中には、さまざまな神の紋章が刻まれた宝飾品が、いくつも収められていた。指輪、首飾り、耳飾りなど、どれも非常に高価そうに見える。ほかはみんなまがいものだが、と、オドネルが説明してくれる。
ヨハン卿は、恐れていたんだろうか。
彼はもちろん、両親を亡くしたエディットが王都へ移り住み、騎士になろうと幼年学校へ入ったことを知っていただろう。それが父親の仇を討つためだとも理解していただろう。エレメントルート伯爵家には腕のいい魔法士が──そのころはグレイではなく彼の父親が──いることも、知っていたんじゃないだろうか。
それは無限に伸びる底なし穴のふちをつかみ、落とされまいとこらえ続けるような恐ろしい日々だったに違いない。自分が手にかけた男の娘が剣の腕を磨き、いつか目の前に現れる。それとも、娘に仕える魔法士が、刺客となってやってくる。ヨハン卿は怖くてたまらなくて、それでこんな道具にすがったのかもしれない。
「オドネルさん」
俺は腕輪を机の上に戻した。
「これは、オドネルさんに預かってもらっていても、いいでしょうか。エディットには見せないほうがいいような気がするんです」
「ああ、かまわないよ」
「ありがとうございます」
一瞬、はす向かいに座るユーリが目を見開いた気がしたが──気にしない気にしない。
自分が育てた王子を王位に就かせたいと願い、周囲の人々に働きかけることが、そんなに卑怯な行為だろうか。妹に兄の一人を推してもらいたいと頼むことが、誰かを刺さなければならないほど卑劣な謀だろうか。
きっと、ヨハン卿の前の日記は処分されている。そして、俺が持ち帰った日記には、マティウス二世が直接事件に関与したという記述は見つからない。もしもそうじゃなかったら、レールケ伯爵は俺が日記を手にしたとき、必ず止めたはずだ。──ヨハン卿がなんとしても王にしたかったマティウス王子。父親が守りたかった王子を、息子も同じように守ろうとした。
レールケ伯爵がオドネルに託したこの腕輪は──彼の本当の、降伏の証だ。もう決して、俺たちには抗わないと。
──書物はなかなかの量だった。何日かに分けて運ぶことにする。今日持って帰るのは、俺とグレイが両手に持てる分だけだ。
代わりに俺は、クローディア王女から返してもらった『ダルトンの呪文の書』を、オドネルへ手渡した。昔の魔法使いが仰々しい言葉で綴った呪文がならぶのを見て、彼はたいそう喜んだ。これで少しでも魔法の教本の執筆がはかどればいいと思う。
「オドネルさん、ユーリ先生、また明日」
バタン──と、金属の枠をはめた大扉が閉まった。
赤毛の少年と背の高い従者が連れ立って出てゆくのを見送って、ユーリ=ローランドは、さも驚いたというように大きく息を吐き出した。
「ねえ、師匠。びっくりしましたよね」
「うん? なにがかね?」
オドネルは、すでに借りたばかりの本に夢中だった。書かれた呪文のひとつひとつを指でたどり、うっとりと口ずさむようである。──そんな彼の横顔は秀麗だ。ただ、どうにも魔法使い然とした長髪と、ぞろぞろのローブが、ちょっとあれなだけなのだ。
「ティ坊ちゃまですよ! 結構いい旦那さまみたいじゃないですか」
「そうだね」
「最初はちっとも夫婦な感じじゃなかったのになあ」
ユーリは感心したように首を振る。
「いつのまにか名前で呼んでるみたいだし、変われば変わるもんですね。なんだかうらやましい。……師匠、聞いてます?」
「聞いているとも」
とうとう師は本を閉じ、たった一人の弟子へ向き直った。先をそろえた両手の指は、いかにも文筆を生業とするのに向くようで、ほっそりと繊細だ。
「カイルくんが奥方と睦まじい夫婦らしくなった、という話だろう?」
「そうですけど……」
「初対面から始めても、ともに時を過ごすうち、奥方に対する情愛が増したようだね。きっと奥方からも愛されているんだろう。いっしょに困難を乗り越えていけば、二人の絆も深くなる。──とはいえ、どんな男女でも必ずうまくいくとは限らない」
「…………」
「彼らは愛の女神の祝福を受け、結ばれるべくして結ばれた運命の二人だったのかもしれないよ」
ユーリは机に頬杖をつき、大真面目な顔のオドネルを、しげしげと見つめた。
「……師匠って時々、らしくないことを言い出しますよね」
「そうかね?」
「そうですよ。そんな台詞を言わせるなんて、師匠の好きな女性って、いったいどなたなんですか?」
「ああ、それは──」
じつをいえば、ほんのつかのま、彼の呼吸と鼓動は停止していた。けれど、彼女は少しも気づいていない。彼はそのくらいさりげなく、自然な声音で答えることに成功した。
「──きみだよ」
「え」
オドネルはユーリの瞳を見つめてくり返した。まるで詠う呪文に力を与える魔法使いのように。ごく真剣な、想いを込めた口ぶりで。
「きみだよ、ローランドくん」
「…………」
「きみのような女性は、この世に二人といない」
──それで彼は呪文の書を広げ、再び目を落としてしまう。
ユーリはようやく、ぽかんと開け放していた口を閉じた。地味な顔立ちの彼女の頬には、だんだんと赤みが差してくる。
「……そうなんですか?」
「そうだとも」
「わたし、ぜ、ぜんぜん知りませんでした。でも、本当に?」
文字を目で追いながら、ジュリアン=オドネルは深くうなずいた。
「──ああ、本当だよ」
「すっかり忘れてました」
思い出したときには、すでに馬車は走り始めていた。俺はため息をついた。
「オドネルさんに、幸運の護符のことを訊こうと思ってたのに」
白金の塔で『門』が開き、カローロがエディットの歌声を聞かせてくれたのは、絶対にこの護符の作用だと思うのだ。
「また明日訊いたらいいじゃありませんか」
と、俺の従者は至ってのんきに言う。彼のとぼけたにやにや顔を見て、ふと尋ねてみる。
「グレイさんは、精霊の言葉を読めないんですか?」
彼が解読してくれれば話は早い。ところが従者はなぜか、口元をきりりと引き締める。
「はい、私は勉強のほうはぜんぜんだめなので、読めません」
胸を張って答えるようなことではない。
「ぜんぜんだめって……じゃあ、どうやって呪文を覚えたんですか?」
「もちろん気合いと根性です」
真顔で言われ、思わず吹き出してしまった。まあいいや。彼の言う通り、明日尋ねてみればいいんだから──と、俺は思う。ほどなくして馬車は本邸に到着した。
けれど翌日、俺が蒼の塔へ行くことはかなわなかった。
エレメントルート伯爵家に、未曾有の大事件が勃発したのである。




