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「だめです!」
俺はつい立ち上がろうと腰を浮かし──すんでのところで、ここが馬車の中だと思い出した。
車輪が石にでも乗り上げたか。突然、がっくん、と車体が揺れた。はずみで前のめりになる。向かい合わせに座るエディットが、俺を抱きとめた。
「大丈夫か」
「エディット!」
「カイル、急に立ったら危ないぞ」
「そんな話をしているんじゃありません!」
隣の席へ優しく座らされる。エディットは、俺を両腕に抱いたままで微笑んだ。俺は彼女の言葉にひどく驚いて、転びそうになって、こんな、心が溶けてしまいそうになる瞳で見つめられ、うろたえてしまう。
つと、顎に指がかかる。唇へやわらかな唇を重ねられ、陶然とわれを忘れそうになった。顔をもぎ離し、無理にでも声を張る。
「こ……国王陛下に直接伺うなんて、だめです!」
「なぜ?」
エディットは、いつになくしとやかなふうに小首をかしげた。もっとも、その美しい声音が紡ぐ言葉は極めて物騒だ。
「陛下にわたしたちを捕らえるおつもりがあるなら、わたしもカイルも、とっくに逆臣として討たれている」
そうかもしれない。レールケ伯爵には退隠という、なんらかの沙汰らしきものがくだっているのだ。でも俺は、万が一にも彼女が誰かを──血のつながった自分の伯父を、憎しみにかられて刺し殺すのを見るのは、絶対に嫌なんだ。
まるで自嘲のようにも見える笑みで、エディットは笑った。
「カイルはいつも、わたしを心配してくれるんだな」
「しますよ!」
「どうして」
どうして、って、俺は──
ますます頬が熱くなる。「当たり前でしょう?!」
エディットは、かぶりを振った。
「すまなかった。あんなことは二度としない。約束する」
彼女は、レールケ伯爵の心臓を、剣をもって貫こうとした。
「本当だ」
真摯な紫の瞳が俺を見る。
「前から決めていた。国王陛下、王弟殿下、お二人を弑するような真似は、決してしないと」
子どものころは、二人の伯父のどちらかが父を手にかけたと思い込んでいた、と、エディットは言う。昔から、セドリック=エレメントルート卿は、二人の王子の王位継承争いに巻き込まれて殺害されたとうわさされていた。妻のエルヴィン王女がどちらの兄を推すのか決めたためか、あるいは、彼自身が見てはいけないものを見たか、聞いてしまったか──
「少し大きくなればわかったが、君主は臣下が邪魔になっても、自らの手を汚したりはしない。きっと誰かに命じてやらせたんだと思っていた」
アセルス王国は豊かな国だ、と、エディットはつぶやいた。近隣諸国と比べても、人々の暮らしは平穏だ。過去がどうであれ、国王は善政を敷いている。王弟は国王を支えている。この国を平和に治める二人に、やいばを向けることはできない。
士官学校を出たエディットは、王族に仕える近衛隊の騎士となった。おばあさまにお願いすれば、いくらでもほかの部隊に配属してもらえただろう。仇と目する男たちのすぐそばに、彼女はあえて身を置いた。
『王家に捧げたわが剣は、どうかそのままで──』
たとえ父を殺したのが、あなたがたのどちらかだとしても──謁見の間で、エディットは二人の前に頭を垂れ、誓いを新たにした。
「……わかりました」
そんな瞳で見るのは反則だ。承知せざるを得ないではないか。「僕もいっしょに行きます」
「うん。わたしがまた、なにかしでかしそうになったら、カイルが止めてくれ」
「エディット!」
俺の抗議に、彼女は澄んだ声を立てて笑う。──そして、少しだけ眉を曇らせる。
「問題は、どうやってお会いするかだが……」
なにせ相手は国王だ。正規の手順で願い出れば、ダーヴィド討伐のときのように、伺候は叶うと思われる。けれど、今度ばかりは護衛やら高官やらに見物されるのは困る。
「つてをたどってみましょう」
と、俺は言った。エディットは瞬いた。
「つて?」
うちに一人いるではないか。先日、国王とゆかりの深い大貴族に、どういうわけか、妙に気に入られたらしい人物が。
「──ゾンターク公爵、ですか」
オーリーンはむっつりと、眉間のしわを深くする。
手をつなぎ、緑の気配を探しながら森を散策した俺たちは、帰宅したのち秘書を執務室で捕まえた。──気がつけば、日記の分析を手伝う家士は五名に増えている。殺人犯がとりとめなく胸中を綴った文章を読み続ける彼の面には、疲労の色が濃い。
「ぞっといたしませんな」
オーリーンは首を振った。ゾンターク公爵邸でなにがあったのか、彼は多くを語ろうとしない。自分の秘書になれという命令を断ったのだから、かなり気まずいのだろうか。
「僕からオドネルさんにお願いすることも考えたんですが……」
ジュリアン=オドネルは、宰相ゾンターク公爵とも面識がある。しかしオドネルは、王弟シベリウス直属の王宮魔法士だ。無理な願いごとをしては、彼の立場がまずくならないとも限らない。──俺の言葉に、オーリーンもうなずいた。
「むろん、これは当家の問題です。蒼の塔のかたがたへ、ご迷惑をおかけしてはなりません」
秘書は、間を取るように銀縁眼鏡を押し上げて、深いため息をつく。
「よろしい、考えてみましょう。少々策を講じる必要がございますので」
「「策?」」
エディットと俺は、顔を見合わせた。
その晩オーリーンは、執事のワトキンスと料理長のネロを呼び寄せ、遅くまでなにやら打ち合わせていた。──翌日の午後になり、ワトキンスが地下室からワインをひと瓶手にして居間へ入ってくる。彼の黒いまなこは光を失い、まるで地獄の果てをのぞき見たように虚ろだ。
「……最高級の、逸品でございます」
痛哭そのものの声をしぼり出す。何十年だか何百年だか昔、どこそこ地方のなんとかという種類の葡萄で、数本しか作られなかったうちの一本なんだそうだ。エレメントルート伯爵家に慶事があったら開けようと、大事に大事にしまっておいたという。
一方、オードブルを詰め込んだバスケットを準備したネロは、屋敷が揺れてしまいかねないほど巨体を震わせていた。くれぐれも本気を出すなと、噛んでふくめるように言い聞かせられたらしい。──ワインならくれてやればすむが、おまえをご所望になられては困る、と。それは本当に困る。
「宰相閣下は、相当な美食家のご様子でしてな」
外出用の外套をまとってオーリーンは言う。どうやら餌で釣ることに決めたようだ。
「……本当に、帰ってこられるんだろうな」
エディットは、だんだん不安になってきたらしい。秘書は真顔で答えた。
「それはまだわかりません」
「オーリーン……」
「では、私は行ってまいります。──ボリス、頼む」
ドワーフおじさんがバスケットをかつぐ。リボンを結んだ瓶を手にし、秘書は出かけてしまった。
「……きっと大丈夫ですよ」
と、俺は言うしかない。エディットは居間中をぐるぐる歩き回る。心なしか、顔色が青いようだ。
「どんなかたなんですか?」
宰相閣下が、である。俺はゾンターク公爵の人柄を知らないのだ。わりと俺たちに好意的みたいだし、そんなに悪い人とは思わないけれど。
「公にはとかくうわさがある」
騎士として王宮に勤めるエディットは、それなりに聞き知っているのだろう。だが、どんなうわさか尋ねても、返ってくるのは、ああ、とか、うん、とか、うわの空な返事ばかりだ。
夕食後も、エディットはオーリーンを気にして部屋へ引き上げようとしない。俺も彼女に付き合って居間の長椅子で本を読んでいた。──このところの疲れが出たのか、いつのまにかうたた寝していたようだ。強く肩を揺さぶられる。
「……カイル」
目を開けると、エディットがずいぶん険しい瞳になっている。俺を起こすとすぐに窓辺へ戻っていく。誰かがかけてくれた毛布をのけて、俺も彼女のそばへ行った。──暗い前庭に、蹄と車輪の音が近づいてくる。
「うちの馬車じゃない……」
エディットがつぶやいた。
誰かが玄関の大扉をたたいた。しばらくして、応対に出ていたワトキンスが、居間へ現れた。
「ゾンターク公爵家のかたが、お迎えにいらしております」
黒服の執事は珍しく煮え切らない口調である。「と、申しますか、おそらくは……」
俺とエディットは、大急ぎで身じたくした。
カラカラン──
扉を開けるとベルが鳴る。アプローチの向こうの車寄せに、立派な二頭立てが停まっている。──そのかたわらに、空を見上げてたたずむ人がいる。絢爛豪華なぬいとりをほどこした頭巾をかぶり、派手な外套に身を包んだ、背の高い人物だ。
「……ごらん、月がこんなに美しい。外のほうがずっと気分がはればれするよ」
振り返り、口元の覆いをはずす。──夜目にも白く、うるわしいかんばせがあらわになった。
「二人とも早くおいで。夜は短いのだから」
まばゆいばかりの微笑みで俺たちを待っていたのは、宰相ゾンターク公その人であった。
◆◇◆
「乳兄弟だそうだねえ」
馬車に揺られながら、流し目にこちらを見やるゾンターク公爵は、上々の機嫌である。
「はい、閣下」
答えるエディットは堅苦しい。どうやら俺の妻は、このやわやわとした御仁が苦手のようだ。わが国の美貌の双璧をになう二人だが、お世辞にも気が合うとは言いづらいと見える。
「宰相閣下、このあいだはありがとうございました」
俺は礼を述べた。俺が白金の塔から脱獄してもおとがめなしですんだのは、彼のおかげだ。なんの、と、公爵は右手を振る。
「どちらへ向かっているんですか?」
「おや、国王陛下にお会いしたいと申したのは、そなたたちではないのかえ?」
ぎょっとする。まさか、こんな出し抜けに願いが叶うとは、思ってもみなかった。
「あの男は、しばらく形に預かっておくよ」
宰相は愉快そうに笑う。エディットは憮然とした面持ちになった。
夜半にもかかわらず、馬車は堂々と王宮の正門に乗りつける。ほどなくして門が開いたところを見ると、この馬車か御者がなじみなのだろう。さすがは権勢を誇る宰相閣下。
十四年前、セドリック卿が殺害された晩と同じように、今夜の主宮殿でも夜会はひとつも催されていないようだ。だだっ広く、薄暗く、ひとけはまったくなく、深閑と静まり返っている。
勝手知ったるゾンターク公の先導で、俺たちは暗い廊下を歩いた。頼りになるのは等間隔に灯された、常夜灯の小さな光のみである。誰もいない大広間を通り過ぎ、国王が住まう奥へ、奥へ──
しく……しく……
三人の靴音以外、なんの物音もしないと思っていたのに、かすかに聞こえてくる。どこからともなく、忍ぶように泣く女の声が……
しく……しく……しく……
俺はぞくりと身を震わせた。──誰も住むはずのない古城の地下から、夜な夜な女の泣き声がするお話を、エディットに聞かされたばかりである。思わず隣を歩く彼女の指を握ってしまった。彼女も俺の指に指をからめてくる。
泣き声は一人ではない。時折別の、むせび泣く声が混じる。ゾンターク公にも聞こえているはずなのに、彼は少しも気に留めていないようだ。
「ここで待っていなさい」
奥まった一画にある扉を指し示される。中は明かりがついていたのでほっとしたが、調度品は簡素で、窓もない。護衛が詰める部屋だろうか。向こうには分厚い帳が下りていて、先になにがあるのか、うかがい見ることはできない。
宰相は去った。二人ぼっちで残された俺たちは、おずおずと椅子に腰かけた。──待つ時間は長かった。エディットも俺も、ひと言も口をきかず、ひたすら待ち続けた。
存在を忘れられているかもしれない、と思うほど、時が過ぎたころだ。
「──待たせたな」
ざっ、と、手ずから帳を持ち上げ、男が一人、姿を現した。俺たちは床へ跪いた。
「かまわん、楽にしろ」
横柄だが、彼にはそうふるまうに足る権利がある。──アセルス国王、マティウス二世だ。
国王は肘掛けのついた椅子に、どかりと腰を下ろした。俺たちへも元の椅子に座るよううながし、疲れたような長い息を吐く。
「アントニエッタがきておるのだ。先刻、あれの母親が亡くなったと知らせが着いた」
エディットが俺の隣で息をのむ。アントニエッタ王后の母親とは、隣国ハティアの王妃である。エディットが近衛隊を率いてハティア王国までの供をしてから、三か月ほどが経つ。王后さまの母上が、とうとうお亡くなりになったのだ。
「お悔やみを申し上げます。お取込み中にお伺いいたし、まことに申し訳ございません」
「エレメントルート卿、ここでそのような口をきかずともよい。儂とおまえたちとは縁戚ぞ」
国王陛下は首を振った。陰のある暗い瞳も、厳しく整った面立ちも、俺たちが謁見したときとすべて同じだ。ただし、王冠も外套もなく平服で、エディットのレイピアを目にしても、顔色ひとつ変えることはない。
四度目に会う彼は、妻子ある男の顔をしていた。母を失い嘆き悲しむ妻を慰め、なだめてやらねばならない。そんな一人の、若くはない男の顔だった。
「フィリップから話は聞いた」
マティウス二世は、率直に切り出した。父親のヨハン卿が守役だったのみならず、息子のフィリップ=レールケ伯爵は、国王、王弟兄弟の元学友である。大人になっても普通の貴族と国王のあいだがらよりは、ずっと深い。
「ヨハンを許せとは、口が裂けても言えんな……だが、フィリップは許してやれ」
唇を結んだエディットへ、国王は告げた。
「ヨハンは儂のためにセドリックを手にかけた。──セドリック=エレメントルートの死に関するすべての責は、この儂にある」
エディットは青ざめた頬をこわばらせ、伯父の顔を見つめ続けている。




