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「──ああ、それはやめておけ」
後ろから声がかかって、俺は振り返った。
二人の部屋の居室である。エディットは少々だらしなく、長椅子の上に膝を片方立てている。若草色の夜着の裾がまくれて白い腿があらわだが、まあ、そこはよしとしよう。でも、ついさっきまで眉を寄せて、小難しい経済学の本をにらみつけていたのに。
やめておけとは、これのことか。──俺は今の今、書棚から抜いて手にしたばかりの本を見下ろした。
題名は『偉大なる森への旅』。このあいだ、図書室で見つけて部屋まで持ってはきたものの、厚さもあって気が乗らず、まだ読んでいなかったお話だ。
「どうしてですか?」
俺が尋ねると、エディットは座面に広げた本の頁を、ぱらりとめくる。
「カイルには向かない」
「だから、どうして向かないんですか?」
以前のぞき見した二、三頁の様子では、田舎生まれの少年が志を抱いて村を飛び出し立身出世をめざす、よくも悪くもありきたりの物語かと思ったけど。
と、いうようなことを、俺は述べてみた。なのに、俺の美しい奥さんは、自分の本から目を上げようともしない。
「なかなか怖い話だからな」
「怖い話?」
「うん」
なにそれ。怖いから読むなとは心外な。俺はいささかむっとした。けれど、エディットは知らん顔だ。
「マルコは故郷を出たあと、一人で都に向かうんだが……」
主人公の名前らしい。
「旅の途中、彼は森のはずれの湖畔に建つ古い城へと迷い込む。──確か、長雨に降られて何日か過ごさざるを得なくなった」
そんなこともあるだろうね。旅なんだし。
「その城には、もう住む人は誰もいない」
古いお城なんだから、人が住んでいなくても不思議はないんじゃない?
「──だが」
ふいにエディットの声が低くなる。「深夜になると、地下室から若い女のすすり泣きが聞こえてくる」
「…………」
「やめたほうがいいぞ」
ぱらり、と、彼女はまた頁をめくった。
俺は本を両手で持ち、格別変哲もない表紙をしげしげとながめてみる。
「……どう思う? カローロ」
怖いものがせまると知らせてくれる俺の守護精霊は、終始無言だ。
いやいやいや──俺は首を振った。前にも彼女から、喜劇だと思って読んでいるだろうが、じつは……と言われたお話があった。あれは、最後まで本当に喜劇だった。簡単にだまされてはいけない。
もちろん本を手にしたまま、俺はどすんとエディットの隣へ腰を下ろした。ちらりとこちらを見られる。この目つきは笑いをこらえている。絶対。
俺たちの部屋はむやみと広い。卓上の明かりが、妙に心もとないように思う。──風もないのに、ランプの炎がひと揺れゆらめいた気がした。悔しくないとは言わないが、念のため彼女にぴったりと寄り添っておく。これでなんとなく安心だ。
とはいえ、言われっぱなしでは男がすたる。
「僕、知ってますから」
「なにを?」
「エディットは小さいころ……」
わざと溜めて、最初の頁を開いた。さっきのお返しだ。──マルコ少年は、農家の末っ子の五男坊だった。ちょっと親近感がわく。
「なんだ?」
エディットは床に足を下ろし、こちらへ身を乗り出した。
「カイル、言いかけてやめるのはよせ」
「それもそうですね。エディットは小さいころ、雷が……」
ここで気づいた。──ないしょだって言われてたっけ。そうだそうだ。
俺が横目になりつつ口を閉じたので、エディットはたいそう不満げだ。
「バルバラだな?」
「え?」
珊瑚色の唇が、かなりとがる。「バルバラだろう」
侍女はなんでも知っている。しかし、ばらしてしまっては悪い。俺はかぶりを振った。
「いいえ、違います」
「嘘をつけ」
「本当ですって」
紫の瞳がむきになるのを見ていたら、おかしくなって笑い出してしまった。エディットもいっしょに笑い出す。──俺は長椅子の上に胡坐をかいた。エディットは再び片膝を立てる。いつのまにか背中と背中をもたれ合って、俺たちはそれぞれの本に目を落とす。
──秘書のオーリーンと三名の家士たちが、ヨハン卿の日記の調査を始めてから、数日が過ぎている。
当初は間違いなくヨハン卿がセドリック=エレメントルートを殺害した犯人なのか、という観点で分析をおこなっていた。その辺におおむね得心がいったというか、得心するしかなかったので、現在調べているのは犯行の動機、ようするに、ヨハン卿の心情の移り変わりだ。
「ささいな点ではございますが、時系列に若干の相違が見られます」
と、オーリーンは言う。俺が伝えた、息子のフィリップ=レールケ伯爵が話した内容と比較すると、である。
現国王マティウス二世、当時のマティウス王子を王太子に──これは、犯行の前にもあとにも一貫して変わらない、ヨハン卿の強い意志だ。ヨハン卿はマティウス王子の守役だった。日ごろのおこないがどうであれ、自分が育てた王子に世継ぎになってもらいたいと望んで、なんら不自然ではない。
鍵となる人物は、エルヴィン夫人だ。マティウス、シベリウス、二人の王子の一人きりの妹。セドリック=エレメントルートの妻で、エディットの母親である。
ヨハン卿はエルヴィン夫人へ、王太子はマティウス王子に、と両親、当時の国王夫妻へ口添えを願えたらと考えた。だが、その年彼女は王都へこられないとわかった。だから夫であるセドリック卿に、彼女への伝言を頼もうとした。──これがレールケ伯爵から聞いた、犯行当夜、ヨハン卿がセドリック卿を呼び出した理由だ。
「ところが、日記によれば、ヨハン卿が、マティウス王子立太子のお口添えを頼めばよかった、と思いつくのは、どうやら大奥さまが王都へお越しになれないと知ってからのようなのです」
つまり──この年、セドリック卿は王都にくるとき妻子をともなわないらしい、と、ヨハン卿は誰かに聞いた。理由はエルヴィン夫人のつわりとわかる。なんということだ、エルヴィンさまがおいでであれば、マティウスさま立太子の件のお口添えをお願いできたではないか。ならば夫のセドリックどのに──と、こんな順序で書かれているそうだ。微妙な差だが、案外と大きな違いである。
「……かなり短絡的な人だったんですね」
俺はどうしてもため息が出てしまう。思いつきでセドリック卿を呼び出し、あせる気持ちが募るあまり、たまたま手近にあった刃物でつい刺した。こんなくだらない、馬鹿げた理由で殺されるほうはたまったものではない。
「さ、それは」
オーリーンはいくらか首をかしげる。どうやら彼は、短絡的ですませられるほど釈然としてはいないようだ。
「ヨハン卿が、直情径行な性質であったことは、間違いないでしょう。しかし、私には、彼が度しがたいほど愚かな人物だったとは思えないのです」
殺人を犯すまでのヨハン卿の手跡は、道徳的で真面目な人柄を思わせる、とオーリーンは言う。家族に関する記述のみを見れば、情の通った人柄だったこともうかがえる。むしろ、粗暴さゆえに誰からも背を向けられてしまったマティウス王子を、成人後も気にかけていたのだ。元守役なら当然かもしれないが、気の長い人物との見方もできる。
ヨハン卿が、対人的な交渉術に長けていなかったことは明らかだ。マティウス王子を王太子に推すにあたり、派閥のひとつも作れずにいたからだ。そんな人物が、突然不慣れなことをしようという気になった。
「やはりこの年、具体的ななにかがあったはずです。先日旦那さまがおっしゃったように、シベリウス殿下立太子に向けての動きだったのかもしれませんが……」
それだけとは思えません──オーリーンの弁に、俺も同意せざるを得ない。十四年前、ヨハン卿がマティウス王子を王太子にしたいと強く望み、周囲に働きかけを始める引き金となったなにかが。
ふと、ほんの一瞬、俺は思った。──レールケ伯爵が俺たちに語った話と、日記の記述とのわずかな差異は、彼が意図したものだったのだろうか?
ともあれ──
こうして日々秘書から受ける報告を、俺はエディットに伝えられずにいる。
「退隠……ですか」
昼食後、俺たちが居間でくつろいでいたときだ。エディットが席をはずしたすきに、侍女のバルバラが知らせにきた。
「はい」
産んだ子を守る母猫よりもなおきつく、まなじりをつり上げる侍女は、腹にすえかねた様子を隠そうともしない。
「レールケ伯爵が、まだ成人にもならない長男に跡目を譲るそうです」
「…………」
当主が亡くなったならいざ知らず、生前で、かつ、跡取りが成人前である。アセルス王国では異例のことだ。
「もしもこれが国王陛下の裁決なんだとしたら、おかしいです。絶対裏があるに決まっています。だってこんな──」
「……バルバラ」
執事のワトキンスが目顔でたしなめる。カッ──と、放たれた矢のごとく鋭い眼光に、バルバラはただちに口をつぐんだ。エディットが戻ってきたのだ。
「カイル」
彼女は戸口に手をかけ、晴れやかな笑顔で言う。
「天気も上々だ。どうだ、二人で遠乗りにでも行かないか?」
こんなふうに誘われるのは初めてだ。思わず胸が高鳴った。
「はい、うれしいですけど、でも、僕」
「ん?」
「馬に乗れませんから……」
俺が下を向くと、盛大ににやにやされてしまった。
「いっしょに乗ればいい。このあいだもそうしただろう」
「えっ」
このあいだって……横向きでしょ? あのときは非常事態だったし、夜だったからまあ、あれでしたけども……
エディットは、ちょいと唇をとがらせた。
「なんだ、わたしとでは嫌なのか」
「あの、誰と、という問題じゃなくて」
徹頭徹尾室内派の己れを、今日ほど悔いた日はかつてない。今度グレイに教えてもらおう……と、固く心に誓う。
「冗談だ」
自らの勝利を確信したらしい。エディットは、くすっと笑った。「馬車で行こう」
長い黒髪をひるがえし、さっさと出ていってしまう。俺も急いで立ち上がった。──なんでもいい。お出かけだ、お出かけ。
春の訪れを感じる暖かい日和だが、無蓋馬車で風を浴びるにはまだ早い。外出着に着替えた俺たちは、窓の大きな二頭立てを選んだ。誰が御者を務めるか、厩でかなりもめていたが、一番無難な人物に落ちついてくれた。わが家で最も口の堅い男、ドワーフおじさんである。
閑静なお屋敷街を抜け、街中へ出る。忙しく立ち働く男たち、にぎやかにさえずる娘たち、子どもたちもはしゃぎながら石畳を駆けてゆく。──馬車の揺れに身をまかせ、俺たちは口をきかずにいた。次第に家並みがまばらになる。馬車は郊外へと向かっている。
車窓を流れる風景を黙ってながめていたエディットが、口を開いた。
「……カイル」
「はい」
「今まで、すまなかった」
葉が小さく芽吹き始めた街路樹の列を、エディットの穏やかなまなざしが追っている。
「わたしが聞かなければいけない話を、全部あなたが聞いてくれているんだろう?」
オーリーンが進めている、ヨハン卿の日記の調査のことだ。彼女はちゃんと知っていたのだ。
「けりを、つけなければな……」
エディットはつぶやいた。「……わたしには、キトリーの皆へ伝える義務がある」
十四年間、セドリック卿の理不尽な死に憤り、いつか必ず仇を討つと歩んできた彼女に、ずっと離れずついてきてくれた家臣たち。
「教えてくれ、カイル」
エディットの瞳が、ゆっくりと俺に戻ってくる。──どきりとする。翳りのない宝石のような紫の瞳。人間の女性としては、あまりにも印象的で、あまりにも美し過ぎる俺の妻。
「はい」
俺はすべてを話した。──この数日のあいだで、オーリーンが読み取ったヨハン卿の人となり。フィリップ=レールケ伯爵が語った話と日記の記述との相違点。そのレールケ伯爵が、近々息子に爵位を譲り渡すこと。
エディットは、膝の上で両手を組み合わせた。
「……こうなったら尋ねてみるか」
「レールケ伯爵に、ですか?」
もういっぺんあの男と会うのだけは勘弁してほしい、というのが俺の正直な本音だ。だが、幸いなことにエディットは首を横に振ってくれた。
「いいや」
彼女の唇が、ゆるやかな弧を描いた。真珠のように白い頬に浮かんだ微笑みは、ぞっとするほど艶めいて、美しい。
「あなたはいったい、父の件にどこまで関わりがあるのだ、と──国王陛下へ、じかに」




