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必ず妻に伝えましょう。セドリック卿はそう答えたのに──
ふつふつと沸き上がるように、ヨハン=レールケ卿の胸には、ただならぬ不安と恐れがこみ上げてきた。
もしも私が卑怯にもエルヴィン姫を味方にし、シベリウス殿下を退けたいと頼んだことが知れたら、国王陛下、王后陛下はきっとご不快に思う。マティウスさまを今まで以上に遠ざける。ほかの誰でもない、最愛の娘、エルヴィン姫のお口から国王陛下のお耳に届いてしまったら……
なにもかもがおしまいだ。
もう遅い。言葉の矢は放たれた。セドリック=エレメントルートは、私がこんな卑劣な謀をすると知ってしまった。
王太子になれなければ、マティウスさまはどうなる? マティウスさまは、王太子になれなければ──
すがるように手をついていた卓上に、誰かが置き放しにした銀のペーパーナイフがあった。柄をつかみ、小部屋を出ていこうとしたセドリック卿を、後ろから、
「……セドリックどのは、驚いたように父を見たそうだ」
幽鬼のようにうつろなレールケ伯爵のまなざしは、冷ややかなまでに静かで、平板な声音が抑揚もなく語る。
セドリック卿は灰色の瞳を閉じた。彼が崩れ落ちるように倒れ、絨毯に赤い血が染み出したとき、未来は変わってしまった。
薄れゆく意識の中で、セドリック=エレメントルートは妻や娘を想っただろう。添い遂げるまで死なないと誓った美しいエルヴィン夫人と、まだ幼いエディット。じきに生まれてくる、もう一人の子ども。そして──彼の帰りを待つ人々がいる、平和で穏やかなキトリーの地を。
ヨハン卿は一度も振り返ることなく王宮を退出した。凶器となったナイフは、私邸へ戻る途中、馬車の窓から水路に向かって投げ捨てた。
「それだけか……」
エディットが問う。「本当に、それだけなのか……」
「ああ」
レールケ伯爵は、日記の革表紙に手を載せて、揺るがずに断言した。
「それだけだ。ほかにはなにもない」
──つかのま、書斎の中に、むなしい静けさが訪れた。あまりにも空虚で、この世とは違うどこかへきてしまったかと錯覚しそうなほどだ。
俺は考える。
もしも弟のシベリウス王子が、たったひと言──自分が王になる、と、口にしてさえいれば、すべては違っていたのかもしれない。
当時の状況で、シベリウス王子の立太子に反対するものは、さほど多くはなかっただろう。けれど、彼は玉座を欲しなかった。だからヨハン卿は望みをつなぎ、あがいた。
皮肉なことに、二人の王子の父、ディートヘルム一世は、事件ののちマティウス王子を王太子に──長幼の順の通り、兄に跡を継がせると決めた。
「殺害犯を示す『手紙』があると耳にして、はじめはなにを馬鹿なと思ったが──」
日記には、手紙のことなどどこにも書かれていなかった、と、レールケ伯爵は言う。目を皿のようにして何度読み返しても、それらしい記述は見つからない。しかし、ないと断じることはできなかった。犯行後もヨハン卿の筆致はしばしば混乱し、過去と現在を行き来する。綿々と悔恨の文章が綴られるあいだに、セドリック卿を殺したのはいったい誰だろう、などと、まるで自分の犯した罪を忘れたかのような一文が混じる。
多忙にかまけ、父との対話が少なかったことを悔いた。当時のヨハン卿の言動を、必死で思い出そうとした。だが、父親がマティウス王子のことで思い悩むのは、彼にとってはごく当たり前の日常だった。
父は手紙を書いたことも忘れてしまったのかもしれない──そう思うと、矢も盾もたまらなかった。
「これが世間に知られたら、レールケ家は終わりだ。私にも、娘や息子がいる」
「それが……」
あえぐように、エディットが口を開いたときだ。
「──どうかお通しください!」
扉の向こうから、悲鳴のような声がする。レールケ伯爵が立ち上がった。「シモン!」
「いったいなにがあったとおっしゃるのですか! あなたがたは、旦那さまになにをしているのです!」
「シモン! 帰ったのではなかったのか!」
俺は後ろを見た。エディットも振り返った。──レールケ伯爵は執務机の前へ歩み出た。
邸内にはまだ使用人が残っていたようだ。従者たちと廊下で押し問答をしている。甲高い年寄りの声だ。この家の老いた執事か、老臣か。
そのとき──
レールケ伯爵の手が、机上の長剣にすばやく伸びた。鞘を払って投げ捨てる。
カイル、早く。
──わかってる!
彼の太刀筋は見かけによらず強く、鋭い。だが、エディットは王宮騎士だ。子どものころから毎日欠かさず剣を振り、鍛え上げた腕の持ちぬしだ。たとえ男でも、痩身の文官など彼女の相手になりはしない。エディットは瞬時に抜剣し、前へ踏み込んだ。
からみつく蛇のような一撃を、身をかがめて力任せに跳ね上げる。火花を散らし、一合、二合、と打ち合うと、レールケ伯爵の剣はたやすく飛ばされた。棚の置きものが大きな音を立てて落ちた。床にがくりと膝をつく。
俺はエディットがハティア王国へ出かけていたあいだ、オドネルからいくつもの魔法を教わった。この術もそのひとつ。『対人魔法』の一種だ。短い時間だが、対象となる相手に金縛りをかける。
「……『動なるものの枷となれ』」
俺は右手を彼女へ──今まさに、暗い瞳を閉じた彼の心臓めがけ、レイピアを突き立てようと構えたエディットへ、向けた。
「カイル……」
凜々しい切れ長の瞳が、悍馬のごとき激しい怒りをたたえていた。切っ先を敵に向けたまま、エディットは俺をにらみつける。「なにをする……」
「だめ!」
呪文の効力は今にも切れてしまう。俺はエディットにしがみついた。──カローロが知らせてくれた。俺にもすぐにわかった。彼女は、レールケ伯爵を殺そうとしている。
「だめです! エディット、こっちを見て!」
「放せ!」
「エディット、この人は違います! 義父上を殺した人じゃありません!」
たちまち動きを取り戻した彼女の右腕を、俺は夢中で押さえつけた。レールケ伯爵が呆然とつぶやく。
「エレメントルート卿、なぜ止める……」
彼は死のうとしていた。生きるのが面倒になった男のことなんか、どうでもいい。俺の知ったことじゃない。
「エディット、わかっているでしょう? もういないって、義父上を殺した人は、死んでしまったって」
「だが、この男は、わたしたちを何度も殺そうとした!」
「ええ、そうですね、本当にそうです」
でも、俺たちは、一人だって欠けていない。
本当はエディットの言う通りだ。だとしても俺は彼女を放さない。絶対に放さない。──強く抱きしめる。乗馬服の胸に頬を寄せ、心臓に耳をあてる。汗ばんだ体と逸る鼓動が、次第に落ちつきを取り戻す。何度も大きく息を吐く。
「……エディット、こっちを見て」
彼女の唇が乾き、小刻みな震えをどうにかこらえようと、固くかみしめられている。「僕のほうを見て」
美しい紫水晶の瞳が、ようやく俺へ向けられた。
「カイル……」
低く、小さな声で、しぼり出すように彼女が俺の名を呼んだ。俺は無理矢理笑みを浮かべてみせた。
「エディット、もう帰りましょう」
「帰る……? この男を、ここに残して?」
「ええ。この人のことは、ほうっておけばいいんです」
俺は執務机へ向かい、日記を取り上げた。──ずっしりと重い。レールケ家の暗澹たる業が詰まっていそうな、嫌になるほど分厚い書物。
「これはお預かりします」
「なぜだ、なぜ止めた……」
放心したように、レールケ伯爵は力なくくり返した。彼はまだ床に片膝をついたままである。跪き、許しを乞うようにも見える姿に、強い怒りを覚えた。かろうじて飲みくだす。
「僕たちは絶対に、あなたの思い通りにはなりません」
「…………」
「行きましょう、エディット」
右手は重たい日記を抱えている。剣を鞘に収めさせ、左手で彼女の右の手を握る。
──扉を開けると、二人の従者に取り押さえられていた執事が、大きく目を見開いた。ずいぶん暴れたのだろう。ボタンが飛んでしまった黒服は、老いた顔に負けず劣らずしわくちゃだ。白髪を乱し、今にも泣き出しそうな老人である。
「だ、旦那さまは?!」
俺たちは道を譲った。グレイが手を放すと、老執事はまろぶように室内へ駆け込んだ。「旦那さま! フィリップさま!」
「シモン、おまえ、テレリアへ帰ったはずでは」
「旦那さまをお残しして、どうしてシモン一人が帰れるとお思いですか……」
俺は静かに扉を閉めた。二人の従者──ひょろ長くてたれ目の若者と、ドワーフ似でずんぐりむっくりの中年男が、俺とエディットを見つめている。中の様子がどこまで聞こえていたかはわからないが、さすがに二人とも気がかりそうだ。
「話は終わりました」
俺は従者たちに告げた。かたわらに立つ、俺の妻を見上げる。瞳が合う。
「僕たちはこれから、うちへ帰るんです」




