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 すっ、と──


 エディットの頬から、血の気が引いた。


「あなたの、父親、が……」

「そうだ」


 己れの父が人を(あや)めたと、目の前の男は口にした。


 レールケ伯爵は、先ほどよりよほど落ちつきを取り戻していた。執務机の上で両手を組み合わせ、大きな椅子に背筋を伸ばして座っている。彼がここまで痩せたのは最近なのかもしれない。肉薄(にくうす)の首のしわに、もっと年を取った男のような老いを感じる。


「……エディット」


 すぐそばで名前を呼んだのに、彼女の耳に俺の声は届いていない。


 息が、苦しそうだ。豊かな胸のふくらみが、くり返し上下する。彼女の鼓動が今にも聞こえてきそうに思う。──俺は思い出していた。エレメントルート家の家士たちが調べた、フィリップ=レールケ伯爵の来歴だ。


 テレリア領の領主。父親の先代レールケ伯爵逝去ののち、爵位を継いだのが三年前──


 父親の、()()ののち。


 彼の父親は、すでにこの世を去っている。


「……天の神々に誓って言えるのか」


 エディットは懸命に、冷静であろうと(つと)めている。幾度も、幾度も、唾を飲み込んで喉が動く。


「レールケ卿、あなたはまさか、自分の罪を亡くなったお父上になすりつけようと言うんじゃないだろうな」

「どう思おうと勝手だが、私は嘘はつかない」


 彼の瞳は憔悴と疲労の色をたたえ、それでも名門貴族の誇りに満ちていた。肉を()いだようにやつれた頬を引き締め、敢然とエディットを見つめる。


 エディットは、レールケ伯爵がセドリック卿を殺害したと考えている。そして、言い逃れのために、死んだ自分の父親へ罪を着せるつもりだと。でも、俺は──


 彼の言葉が、驚くほど腑に落ちていた。


 レールケ伯爵は、執拗に『証拠の手紙』を欲しがった。それは彼が、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


 屋敷の中は、なにもかもが死に絶えたように静かだった。──レールケ伯爵は、時間をかけ、俺たちと戦う準備をしていた。グレイを拘束し、本邸から引き離したうえで総攻撃に出る。あのときは、『証拠の手紙』も、エディットも俺も、みんな滅ぼしてしまおうと考えていたはずだ。


 なのに今、この屋敷に兵はいない。


 逮捕状はグレイではなく俺に──エレメントルート伯爵家からの申し出は、彼にとって、このうえもなく甘美な誘いだったのだろう。俺と『手紙』との交換が成立するなら、王都で戦争を始めなくてすむ。


 レールケ伯爵の気持ちは揺れていた。もしかしたら、父親の犯した罪は消し去れないとの思いも、以前からあったのではないか。だから、『手紙』を奪えず俺たちに追われて邸内に逃げ込んだときも、打って出ることはできなかった。


 カタ──


 骨ばった指が執務机の引き出しを開けた。レールケ伯爵が取り出したのは、分厚い革表紙の書物だった。机の上に置き、表紙へ手のひらを載せる。


「これに、すべてが書かれている。私の父の日記だ」


 (やまい)で亡くなったその人の名は、ヨハン=レールケ卿──俺が知ったのは、もう少しあとになってからだ。


「見つけたのは、父の喪が明けたころだったか……」


 この机の一番下の引き出しに。布で包み、上げ底にした堅い板の下に隠してあった。まるで過去のいっさいを封印するかのごとく、鍵をかけてしまい込まれていたという。


「そこまでするなら、いっそ燃やしてほしかった……」


 読まずにすめば、なにも知らずにすんだのに。


 一読したときは、千の雷が頭の上に落ちるよりも強い衝撃を受けた、と、レールケ伯爵は言った。


 むろんセドリック卿の殺害は、少年のころから王家のそばにいた彼にとっても衝撃的な事件だった。けれど、意図せず国王派と王弟派に別れた親子は、日ごろから互いの立場を尊重し合っていた。公務に関わることは口にしないのがレールケ家の不文律であり、ひとかけらでも自身にかかわりがあるとは、考えたこともなかったのだ。日記を読むまで、一度たりとも。


「……どうしても父は、懺悔できなかったようだ」


 おそらくは私たちのために、と、つぶやく。事件のころ、ゆくゆくは跡取りとなる孫が生まれたばかりだった。無邪気に笑い、育ってゆく幼子を見るにつけ、祖父が罪もない人を手にかけたとは言い出せなかったのだろう、と。


「……なぜだ」


 エディットの声が震えを帯びる。動揺するのが当たり前だ。探し求めた父の(かたき)は、とうの昔に死んだと言われたのだ。


「エディット」


 俺は手を伸ばした。指先で触れた彼女の手の甲は、ひどくつめたく、冷え切っている。


「なぜなんだ!」

「父は長いあいだ、自分を見失っていた」


 レールケ伯爵は、目を伏せる。


「……マティウス二世陛下が立太子できないのは、自分の責任だと感じていたからだ」


 父が長年苦しんでいたことは、私も知っていた──と、彼は言う。


 幼いころから乱暴で、残忍な性質だったマティウス王子。使用人や家来に手を上げ、街へ出て平民の女と関係を持った。ならずものと喧嘩になり、相手を斬ったこともある。


 ヨハン卿は、のちのマティウス二世、当時のマティウス王子の守役だった。誰よりも近くにありながら、王子のふるまいを止められなかったことを後悔し続けていた。


 もちろん(いさ)めたことも、叱ったこともあった。マティウス王子は荒れ狂う嵐のように奔放な少年だった。王子が心のままにふるまうたびに、ヨハン卿は自分を責めた。厳しくし過ぎたか、それとも甘やかし過ぎたかと。


 マティウス王子の粗暴さは、近隣諸国へも聞こえていた。成人を迎えたところで、娘を彼の妻にしようという王は現れない。それで彼はますます荒れた。


 けれど、年齢とともに、マティウス王子は少しずつ変わり始めた。──二十代のなかば、ちょうどセドリック卿とエルヴィン夫人の醜聞(スキャンダル)があったころからだ。妹のいちずな恋をまのあたりにしたためか、どれほど激しく面罵しても引かないセドリック=エレメントルートを間近に見たからか。なにがあっても兄を立て続ける弟の態度に、思うところがあったのか。


 しかし、当然ではあるが、すでに人々は彼を、次代の王とは認めようとしなくなっていた。


 そんなことはない。マティウスさまは、決して国王にふさわしくないおかたではない。


 ヨハン卿は追いつめられていた。おもだった王族や貴族たちは、弟の立太子へあまねくかたむいている。兄弟の父、ディートヘルム一世は問題を先送りにしてきたが、いくらなんでも限界だ。シベリウス王子を王太子に指名する──と、彼は思い込んだ。


 ……そうだ。


 エルヴィン姫にお口添えをお願いしよう。ディートヘルム一世とエレオノーラ王后の、掌中の珠。いとしい孫娘を連れて、王都を訪れるときに。次の王は長兄だと彼女が言えば、国王夫妻は必ず聞き入れる。


 だが──


 その年、エルヴィン夫人は腹に子を宿し、つわりのために王都へこられないという。


 どうして、なぜ、なぜ今年に限って──ヨハン卿は一人歯噛みした。そして、次善の策に思い至った。


 ならば、()()()()()()()


「それで父は、セドリックどのを呼び出したんだ……」


 前日の、参内した貴族たちでにぎわう主宮殿だった。ヨハン卿はセドリック=エレメントルートに声をかけた。──キトリーへお帰りになる前に、少しでいいからお時間をいただけないか。


 日記によれば、セドリック卿は気乗りのしないふうだったという。国許に身重の妻を残してきた彼は、必要最低限の日数だけ王都に滞在する予定だった。本音をいえば、国王夫妻に挨拶をすませたその足で出発したかったくらいだろう。


 ともあれ、彼はうなずいた。人好きのする温かい笑顔で、「かまいません」と、答えた。


 では、明晩()()で。ヨハン卿は、自分の息子と同じ年ごろの若い伯爵へ、気ぜわしく言い渡した。


 もう少し静かなときに話したいと思っただけのはずだった。互いの身内や使用人には聞かれたくなかった。そのうえ彼は、ほかにも似たような話をしなければならない貴族が何人もいて、多忙だった。考え抜いたつもりで、王宮までセドリック卿を呼び出した。


 なぜ()()と言わなかったのか──ヨハン卿の日記には、まる一日以上、あせりと苛立ちをこらえ続ける言葉が、くり返し書きなぐってあるという。


 エディットは苦痛に耐えようと歯を食いしばる。唇のあいだからもれる声が、かすれている。


「……父は、断ったのか。あなたの父上の申し出を蹴ったのか。だから殺したのか」


 マティウス王子を王太子に。どうかどうか、エルヴィン王女へおとりなしをお願いしたい。ヨハン卿の必死の()いを、セドリック=エレメントルートは()ねつけたのか。


「いや……」


 レールケ伯爵は首を振る。「彼は、断らなかった」


 深夜、一人で王宮を訪れたセドリック卿は、約束通り小部屋に姿を現した。その晩、主宮殿では()()()()夜会のひとつも催されておらず、廊下も、大広間も、深い静寂に包まれていた。通りかかる人は誰もいなかった。


 ヨハンどの、あなたのお気持ちは理解できたつもりです。妻がなんと答えるかはわかりませんが、必ず彼女に伝えましょう。


 セドリック卿は、ヨハン卿の話を聞いてそう答えた。あっけないほど簡単にうなずいた。ごくていねいに、穏やかな挨拶をし、扉のほうへ振り返る。


 彼の後ろ姿を見たときだ。ヨハン卿の心に()が差した。


 ──私は、なんということをしてしまったのか。





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