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 空を飛ぶように早く帰ってくるよ。だから私が戻るまで、お母さまのそばにいておくれ。


 あの日、キトリーを()つとき──


 いっしょに王都に行きたい、おじいさまとおばあさまにお会いしたい、と、だだをこねたエディットの髪をなで、優しい優しい穏やかな声で、セドリック卿は言ったそうだ。


「顔は覚えていないんだ」


 と、エディットは小さく首を振った。十四年近くも前の、五歳のころの記憶である。肖像画に描かれた笑顔のほかは、馬車に乗るまで見送ったはずの後ろ姿さえ思い出せない。


 おなかが目立つようになった母親のエルヴィン夫人に、毎日尋ねた。お父さまは今どの辺り? もう王都に着いた? 明日になったら帰ってくる?


 そうね、明日よりも、もう少し先かしら──エルヴィン夫人は、夫の話になるたび微笑んでいた。


 深夜、王宮に出向いたセドリック卿は、翌朝主宮殿の一室で遺体となって発見された。決して人の立ち入らない場所ではない。大広間で催しがある際、貴族や貴婦人たちが休息をとるのに使う小部屋である。腰の上、背骨に近い位置を細い刃物で刺され、うつぶせに倒れていた。血の固まり具合から、息を引き取ったのは夜半──すなわち、王宮に着いてまもなくだろうと言われている。凶器は見つかっていない。


 むろん、当時も犯人は捜索された。だが、そのころのアセルス王家は不穏だった。降嫁した王女の夫が殺されたのだ。王太子になれない第一王子、あわよくば兄を追い落とせる第二王子──彼らを取り巻く人々が、緘口令を敷いた。


 当然ながら、エレメントルート伯爵家は混迷の一途をたどらざるを得なかった。戻らないあるじのゆくえを幾度問い合わせても、王宮からはなんの返答もこない。結局本邸に一報が届いたのは、セドリック卿の遺体が見つかってから二日以上も経ってからだ。


 彼は身のほどをわきまえず王女を娶った報いを受けた──(ちまた)では、そんなふうにもうわさされた。


 事件の直後、先王ディートヘルム一世は世継ぎを長男と決めたようだ。国内に混乱を招いたのは王太子を定めなかったせいだ、と。マティウス王子が正式に立太子したのは、事件のおよそ一年後だ。


 つまり当時から、マティウス、シベリウス、二人の王子のどちらかがセドリック=エレメントルートの死に関わりがあると、まことしやかに言われていたのである。


 夫を失ったエルヴィン夫人は、見る間にやつれ果てた。予定よりもふた月早く生まれた赤ん坊は息をしておらず、母とともに(はかな)くこの世を去った。それまでの幸福との大き過ぎる落差に、エレメントルート家に仕えるものは誰もが打ちひしがれていた。けれど──


 わたしは剣を覚えたいの。


 一人遺された少女が、言ったのだ。


「──わたしたちはこれから、レールケ伯爵邸へ向かう」


 明るい居間にそろった皆を、エディットが落ちついた瞳で見回した。奪われたのは父親だけではない。母親も、弟をも失った少女は、凜々しく成長した。たおやかに育つはずだった手にレイピアを持ち、騎士となった。


「レールケ卿は孤立している。昨夜ザン将軍が、なにもかも彼に頼まれてやったと自白したそうだ」


 俺を逮捕した将軍である。自白した、というより、自分はレールケ卿にだまされていた──いっそ清々(すがすが)しいまでの厚顔さで、言ってのけたと聞く。


 ザン将軍に白金(しろがね)の塔の鍵を渡したのは、王弟シベリウスだ、とのうわさがある。しかし、俺が塔から脱出するとき、王弟は彼らをあと押しする動きを見せなかった。逆に、国王マティウス二世の片腕、ゾンターク公爵は俺たちの()いを受け入れた。ただちにバルディビア侯爵を派遣したうえ、王宮騎士団を向かわせ、将軍の身柄を拘束したのだ。


 黒幕は国王か、王弟か。そもそもレールケ伯爵の後ろに黒幕なんてものがいるのか──今のところ、兄弟のどちらも、それとはっきりわかる行動を取っていない。だから俺たちが対峙するのは、フィリップ=レールケ伯爵だ。執拗に『証拠の手紙』を手に入れようとした彼が、事件に無関係とは思えない。


「彼自身が父を殺害したのか、あるいは犯人に『手紙』を奪うよう命じられただけなのか。わたしはレールケ卿に問いただす」


 約束は今日の正午だ。エディットは長椅子から立ち上がった。


「行こう、カイル」


 俺も彼女の手を取って立ち上がる。


「はい」


『証拠の手紙』は存在しないと告げたとき、あの男の病人のような青白い顔に、どんな表情が浮かぶだろう。


 本邸の面々も、秘書と執事を残して全員が同行する。ただし、邸内に入るのは、エディットと俺、護衛の従者二人だけだ。ほかのみんなは、別邸のサウロが(ひき)いる家士たちと、いつでも討ち入れるよう待機する。


 レールケ伯爵邸は、お屋敷街の中でもうちとは王宮をはさんで反対側の区画にある。同じ伯爵だが、セドリック卿がエルヴィン王女と結婚して、ディルク姓を得たばかりのエレメントルート家とは格が違う。大昔から王家と血縁を持ち、代々の当主が政府の要職を務めた名家だ。


 塀の向こうに、どっしりと大きな石造りの建物が見える。表門は固く閉ざされたままだ。グレイが馬車から降りて、門扉をたたいた。


「ご開門ねがいます! エレメントルート伯爵家より参りました! ご開門ねがいます!」


 ところが、いくら待っても門扉はおろか、脇にある物見の小窓すら開く気配がない。


「どなたもいらっしゃらないんですか?!」


 背高従者はとうとう首をひねって振り返った。「エディットさま、いかがいたしましょうか」


「開けてみろ」


 エディットは表情を変えずに答える。グレイは引き戸になった鉄の扉へ両手をかけた。


 ゴト、ゴト、ゴト、ゴト──


 門はなんの仕掛けも手妻もなく、ゆっくりと開いた。グレイが腰の長剣に手をかけ、警戒する素振りを見せる。しばらく様子をうかがい、そろそろと首を伸ばして扉のあいだをのぞき込んだ。


 こちらを振り返り、問題ない、と言うようにうなずく。門扉が開いて馬車が通れるようになると、下男のマイルズが馬に鞭を入れる音がする。


 木立も枯れ、閑散とした前庭に敷かれた小道を、馬車はゆく。カツッ、ガツッ──時折車輪が小石を踏んで揺れる。これだけ広い敷地なのに、兵がひそむ気配はもちろん、人の姿はどこにもない。よく晴れて日差しはさわやかなのに小鳥の一羽も飛ばず、どこか荒涼とした雰囲気が漂う。石畳に草がへばりつき、池の水はにごってなかば干上がっている。


 エディットと俺、ドワーフおじさんも、(ひさし)のついた車寄せで馬車を降りた。マイルズと、同乗してきた侍女のバルバラはこの場に残る。グレイが泥と埃で薄汚れた大扉をノックし、声をかけた。


 こちらもまったく、返答はない。


「…………」


 エディットと俺は顔を見合わせた。


 ──報告は受けていたのだ。この一両日のあいだ、レールケ伯爵邸から、少しずつ人が()()()()()()()。出ていくものはあっても、戻るものは少ない。見張りの家士は人数に限りがあるから、全員のあとを追うのは無理だ。けれどまさか、こうまで誰もいないとは思わなかったが……


 エディットが無言で顎を引いた。


 ドワーフおじさんが剣の柄を握る。グレイが飾りのついた金属の取っ手をつかむ。──ガチャ、と、ノブが上がった。先に二人の従者が、続いて俺たちも、邸内に足を踏み入れた。


「どなたかいらっしゃいませんか?!」


 幾たび目か、グレイの出した大声が玄関ホールの天井にこだました。


 よどんだ空気に外気が流れ込んだせいで、埃が粉雪のように舞い上がった。しばらく窓も開けず、掃除もしていないのか。


 この館には、大勢の兵がいた。俺たちは仮面の男を追って門の前まできたとき、少なくとも数十名以上の兵士が居ならぶのを垣間見た。あれがまぼろしではない確かな(あかし)──床やよじれた敷きものには、たくさんの人の歩いた跡が、泥のかたまりもそのままに残っている。


 玄関ホールの左右に伸びる廊下にも、人の気配はない。


 コツ──


 かすかな靴音とともに、視界のすみで人影が動いた。


 吹き抜けになった階上に、レールケ伯爵が立っていた。手すりに手を置いて、俺たちを見下ろしている。仮面はかぶっていない。乱れた髪も、こけた頬もむき出しだ。


 (あお)の塔で二度、謁見のときに一度、俺は彼の素顔を見ている。元から病人みたいに痩せた男だが、今日はいちだんと影が薄い。薄墨色のガウンをはおり、寝込んでいたといわれても不思議はないほど、陰鬱とした様相だった。


「確か、シモンがいたはずだが……いや、あれも国許へ帰したのだったか……」


 誰に言うともなくつぶやき、物憂げな長い息を吐く。


「その辺に、一人か二人、残っているだろう。──話があると言っていたな」

「ああ」


 エディットが、彼を見上げてうなずいた。


「……こい」


 レールケ伯爵はきびすを返した。


 俺たちは正面の階段をのぼった。──レールケ伯爵は奥まった一室の扉の前で、うながすようにこちらを見る。まぎれもなく、仮面の奥にひそんでいた濃い茶色の双眸だ。まぶしいものを見るときのように、瞳を細くする。


「……どうか、夫妻だけで頼む」

「いいだろう」


 ドワーフおじさんが眉をひそめた。「……姫さま」


 エディットはかぶりを振る。


「ボリス、ここはわたしたちだけで行く」

「しかし」

「大丈夫です。なにかがあれば、僕にはわかります」


 今のところカローロの警告はない。俺が言うと、従者たちは不承不承、扉の脇に退(しりぞ)いた。


 その部屋は、彼の書斎だった。まるで日の光を恐れるようにカーテンが下ろされ、室内は薄暗い。


 セドリック卿の書斎、つまり今の俺たちの部屋に負けないくらい、たくさんの書棚にたくさんの書物がならんでいた。違いをいえば、異国のものらしく、風変りな模様の壁掛けや置きものが飾ってあるところか。俺は家士たちの報告書を思い出した。──レールケ伯爵は若いころ、外国に遊学した経験があるという。


 文官の彼に似合う知的さを感じさせる部屋なのに、執務机の上に無造作に置かれた長剣だけがそぐわない。けれど、エディットも丸腰ではない。


 机の向こうには、大きな革張りの椅子があった。レールケ伯爵は、ひどく疲れたように、どさりと腰を下ろした。


「……父の死について知りたい」


 エディットが切り出すと、彼は瞳を伏せて、組み合わせた両手を腹の上に載せた。キイ、と、こちらへ椅子を回し、無表情に口を開く。


「セドリックどのか……私も、彼は気の毒だったと思っている」

「あなたは父の件に関わりがあるんだろう」


 レールケ伯爵は『証拠の手紙』を欲しがった。はじめはダーヴィドに依頼し、次はザン将軍に俺を捕らえさせ、『手紙』と引き換えようとした。そうまですること自体、彼が事件に関与している証拠だ。しかし──


「死の直前に父が受け取った手紙があるという話は、嘘だ」


 エディットが続けた言葉に、彼はくぼんだ細い瞳を見開いた。「……なんだと?」


「証拠となる手紙など、存在しない。これは、わたしたちが流したうわさから広がった、ただの()()だ」


 彼女は淡々と、乗馬服の内ポケットから封筒を取り出した。黄ばんでしわの寄った便箋を開く。ただのひと文字も記されていない完全なる()()のそれを、彼へ向けた。


「手紙などないんだ。そんなものがあれば、見つけ次第公表している」

「…………」


 しばらくのあいだ、レールケ伯爵は腰を浮かせて、ほうけたように、目の前の美貌と『証拠の手紙』を見比べていた。


「そうか……」


 くくく……と、押し殺すような声をもらす。


「やはりな……そうだと思っていた、やはりそうか、やはり……」


 少しずつ、少しずつ、笑う声が大きくなる。


「どこにも、ひと言も書かれていなかった。だが、万が一を思えば、どうしても()()とは決めつけられなかった……」


 彼は笑い続ける。おかしくておかしくて、どうしてもこらえきれないというように、部屋中に響き渡る哄笑に変ってゆく。彼の肩は小刻みに震え、せいせいと苦しげな息をする。──やがて、目尻に指を沿わせて涙をぬぐった。


 エディットは静かに問う。 


「……あなたが父の件に関わることを、王弟殿下はご存じなのか」


 レールケ伯爵は、王弟シベリウスの側近だ。彼であれば、王弟から白金の塔の鍵を入手できるだろう。王弟の命令で『手紙』を奪おうとしたのか。


「いいや」


 一転して厳しい声を出す。「シベリウスさまは、なにもご存じではない」


「では、国王陛下か」

「馬鹿な。妹の夫を、やすやすと殺す兄がいると思うのか」


 だが、国王、王弟兄弟は、かつてエルヴィン夫人と恋に落ちたセドリック卿に、果たし合いを申し込んだ。セドリック=エレメントルートを殺してしまいたいと思ったからではないのか。


 エディットがそれを尋ねると、レールケ伯爵はかたくなに首を振る。


「昔の話だ。時が経てば人の心は変わる。──お二人とも、エルヴィンさまがどうあってもセドリックどのを愛するなら、しかたがないというお気持ちになっていた」

「だったら、誰だと言うんだ」


 剣の鞘を握るエディットの左手に、力が入っている。白い手の甲にくっきりと筋が浮くほど、強く。


「……父を殺したのは誰だ。あなたなのか」

「違う」


 レールケ伯爵は、白金の塔で俺が尋ねたときと同じように、わずかにかぶりを振った。「私ではない」


 声を落とし、ささやくように彼は言った。


「私の……父だ」







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